第87話 因縁の場所②

 相変わらず、聖人君子の仮面を顔面に張り付けて、常に微笑をたたえる姿は、誰が見ても『救世主』たりえるものだった。

 だがさすがに、その昔、エラムイドと呼ばれていた国の代表者として身分を偽っていた時とは異なるらしい。

 当時は、護衛の者がいない代わりにと、己の腰に剣を差していたクルサールだったが、今はぞろぞろとした純白に金糸の刺繍の入った法衣のような装束を身に着け、平和を象徴するかのように丸腰でミレニアの隣に腰掛けている。


(その分、剣を帯びた兵士を護衛として立たせているらしいが――油断はできない)


 王立協会の司祭という男が、壇上で何やら長々と、神から賜りしありがたいお言葉とやらを並べ立てて、広場に集まった民衆が膝をついて頭を垂れるのを見ながら、ロロはピリピリとした空気を一切緩めることなく、固い表情でクルサールを睨み据えていた。

 クルサールの身を包んでいる白装束は、かつて、ミレニアに<贄>の儀式を執り行ったときの装束に似ている。身体全体を覆うローブのようなそれは、短剣程度ならどこにでも仕込めるだろう。

 ぐっと黒マントの下で拳を握り込み、そっと剣の柄へと手を伸ばす。

 クルサールが妙な動きをした瞬間、ミレニアに害が及ぶより先にその首を一瞬で落とせるよう、頭の中で何万回もシミュレーションした。


「……貴女の護衛兵は、相変わらずですね。丸腰でこのような視線を注がれては、さすがの私も背筋が寒くなります」


 司祭による祈りの言葉が終わると、ぼそりとミレニアにだけ聞こえるようにクルサールがぼやく。


「まぁ、それは何よりですわ。うちの護衛兵は優秀でしょう?」


 面の皮の厚さ勝負で負けるわけにはいかない。

 ミレニアは悠然と微笑んで、余裕の声で言葉を返すと、クルサールはいつもの微笑を苦笑へと変えた。


「将来、同盟国になるのです。もう少し、信頼していただけると嬉しいのですが」


「同盟を結ぶかどうかのお話に、お返事はしておりませんわ。あくまで我々が求めたのは、国家承認の宣言のみ――それに」


 一度言葉を切って、チラリと横目でクルサールを見る。


「貴殿の過去の振る舞いを思えば――ロロや私に『信頼をしてほしい』などという言葉を吐くことなど自体、烏滸がましいことでしょう。……随分、厚顔無恥な御方ですこと」


「これはこれは……相変わらず、手厳しいお方だ」


 翡翠の瞳が冷ややかな光を宿したのを見て取り、クルサールは軽く笑ってそれ以上のやり取りを切り上げる。

 そして、ゆっくりと立ち上がると、ミレニアへと言葉を遺した。


「信頼を得る難しさは重々承知していますが――今の私は、本当に、心から、貴女と友好的な関係を築きたいと思っているのですよ」


「……それは、どうも」


 一応、心の片隅にとどめ置いてやろう――などと上から目線で思いながら、言葉少なくミレニアは返事を返す。

 何十年も、ロロが抜け出せぬ修羅の道を孤独に歩み続けたのは、まぎれもなくこの男が要因なのだ。

 彼が、ミレニアを手酷く裏切り、執拗に命を狙ったりしなければ、ロロは地獄のような苦しみを味わうことはなかった。

 世界で一番大切な者を苦しめ、不幸に陥れた張本人を、ミレニアとて無条件に信頼して友好関係を築くつもりにはなれない。

 あくまで、外交上のビジネスライクな関係以上にはならない――そんな意思が垣間見える返事だった。


 クルサールはそんなミレニアの返事にもう一度苦笑を深めて、ゆっくりと部隊の中央へと歩みを進める。

 彼の護衛を任されている兵士も、影のように付き添って、クルサールの背後に静かに控えた。


「――――」


 ひゅぉ――……

 クルサールが、口を開こうとするのに合わせて、意思を持った風が柔らかく吹き抜ける。

 救世主の言葉を広場の隅々まで届けるため、舞台袖にいる風の魔法遣いが操っているのだろう。

 それが頬を撫でた瞬間――


 ぞわりっ……


「――!」


 それは、随分と久しぶりの感覚。

 背筋を一瞬だけ、冷たい何かが滑り落ちていくような、不快感。

 この”嫌な予感”が外れたことは――人生で、一度もない。


「姫っ!!」


 ジャッ――と音を立てて剣を抜きながら、地を蹴り飛び出した。

 黒衣を翻して、真っ先に椅子に座るミレニアを背に庇うようにして立ちはだかる。


 ――それと、同時に。


「っ……ガッ……ハ……」


 喉の奥から洩れるような、苦悶の声が、響く。

 舞台の中央――白装束に身を包んだ、男の、喉から。


「っ――クルサール殿!!!」


 ミレニアの悲鳴が劈くと同時に、広場が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 民衆の悲鳴を聴きながら、真っ白な装束を紅に染め上げ、ゆっくりとクルサールの身体が傾いでいく。

 国民の"救世主"は、背後から、バッサリと袈裟斬りにされていた。

 クルサールを斬ったのは、彼の背後に控えていた、護衛の男。

 国家の英雄に反逆の刃を振るった男は、血に染まった剣を手にしたまま、虚ろな瞳でぐるんっ、とミレニアを振り返った。


「貴様――!」


 不気味さを感じさせる表情のまま、しっかりと血の滴る剣を握り直した男は、次なる獲物として、ミレニアを狙っているようだった。

 少女の命を狙う不届き者を前にして、チリッ……とうなじのあたりのうぶ毛が逆立つような感覚とともに肌が粟立つ。


(させるか――!)


 愛しい少女が命の危機にさらされているという事実に、言葉にならぬほどの怒気が膨れ上がった。

 ――渡さない。

 決して。もう、二度と。

 彼女を執拗に付け狙う死神には――


 ドッと地を蹴ってロロの方へと迷いなく飛び出してきた男は、"救世主"の護衛を担っていただけあって、目を見張るような速さだった。

 兵士は焦点が合っているのかいないのかわからない、まるで何かの薬でもやっているのでは、と思うような虚ろな表情で、一心不乱にロロへと――その後ろにいるミレニアを狙って、間合いを詰める。


「姫っ!決して、俺の背から出ないでください!」


 叫ぶ様に背後へと言葉を遺し、ロロもまた地を蹴る。

 一足飛びで間合いを詰めると、ひゅんっ――と風が唸り、神速の剣がひらめいた。


「ぐ――ガハッ……!」


 一瞬――

 断末魔の声を聞かせることすらなく、喉をぱっくりと開かせながら、全身をなます切りにされた兵士は、その場へと崩れ落ちた。

 ドシャッ……と屈強な兵士の重たい身体が崩れ落ち、瞳から完全に光が消える。

 噴き出した返り血で汚れた頬を軽く拭って、ロロはすぐにミレニアを振り返った。


「クルサール殿っ……!」


 蒼白な顔をしたミレニアは、脅威が去ったことを悟ってすぐに震える足を叱咤し、もたもたと頽れているクルサールへと駆け寄る。

 慌てて倒れ伏した身体を抱き起すと、血の気を失った唇が微かに動いて、音を生んだ。


「ミ……レ、ニア……様……」


「喋らないで!」


 べっとりと己の美しい装束に血液がつくのも厭わず、ミレニアはすぐにクルサールへと手をかざして光魔法を展開する。

 どうやら、本人もすぐに魔法で治癒していたらしいが、いかんせん不意を衝かれたことと、傷が背中だったことで、事態を上手く把握できずに治癒のイメージが的確ではなかったらしい。痛みのせいで集中できない、という側面もあっただろう。

 それでも、一命をとりとめたのは間違いなく、彼の光魔法の治癒の効果だ。

 青年の額に浮かぶ光る紋様を見ながら、ミレニアはどうやら最悪の事態は避けられたらしいと安堵のため息をもらす。


「貴殿の応急処置のおかげで、大事には至りません。すぐに治りますから、安心してください」


 薬師として、患者を安心させる言葉を吐くミレニアの視界の隅に、黒い布がチラリと見えた。

 見覚えのあるそのマントの切れ端に、ふと何気なく顔を上げて――驚愕する。


「な――!?」


「姫。……早く、治療を。そんな男でも、いないよりはマシでしょう。そこに転がる兵士の剣を取り、戦うように言ってください」


 絶句するミレニアの方を一切振り返ることなく、固い声が飛ぶ。

 ミレニアが顔を上げた先――複数人の剣を持った兵士たちが、虎視眈々と今にもミレニアたちに飛び掛からんと狙いを定めているようだった。


「大丈夫です。御身には傷一つ付けません」


「ろ、ロロ――!」


「何が起きているのか、わからない。ですが――おそらく、この混乱を治められるのは、そこの死にぞこないだけです。……眼下も、阿鼻叫喚の地獄絵図だ」


「!」


 言われて、ハッとミレニアは壇上から下を見る。

 救世主が、凶刃に倒れたのだ。パニックになった民衆や、救世主をお救いせんと押し寄せる兵士たちで、広場も壇上も混乱を極めると思っていたが――どうして今、こんな状態になっているのか。

 それは、眼下に広がる景色を見れば、一目瞭然だった。


「何――これ……」


 そこは――一言でいうなら、”暴動”の渦、だった。

 民と民が、殴り合い、傷つけ合い、争っている。

 おそらく壇上へ駆けつけようとした兵士たちは、同じく兵士の衣装を来た別の男たちと交戦し、舞台袖で流血沙汰の大混乱が起きている。


「クーデター……?」


 兵士たちの一部の勢力が、クルサールに反旗を翻したとしか思えないが、それならば民が争う理由がわからない。

 少なくともこの国は――そして、その総本山たるこの王都は――敬虔なエルム教徒しか、居住を許されないはずなのだから。


(兵士はともかく……民が、クルサール殿を裏切り、彼の死を望むだなんて――ありえない……)


 革命の日を”建国祭”などと言って、街中で浮かれていた様子からも、今、眼下に広がる光景が信じられずに絶句する。


「姫。お気を付けください。――燃やします」


「えっ……!?」


 ボッ……

 言うが早いが、すぐにミレニアの周囲が円状に炎の障壁で包まれる。


「狭いので、長くは保てません。――クルサールを治癒したら、すぐに教えてください」


「ロロ――!」


 炎の向こうから聞こえる声に、思わず名前を呼ぶが、すぐにキィンッと鋼と鋼がぶつかり合う戦闘音が聞こえた。

 しびれを切らして壇上に駆けつけた兵士たちが飛び掛かってくるのを察知し、万が一を考えて炎の障壁を造り出したのだろう。


「っ……!」


 ぎゅっとミレニアは下唇をかみしめて、意識を手元へと集中する。

 今は、心を乱している場合ではない。

 まずは、クルサールの命を助け――この混乱を、すぐにでも納めなければ。


 パァァッとひと際輝く光が周囲を満たす。

 すぐそばで燃え盛る炎に肌が炙られ、汗が噴き出した。ほんの少し、息がしづらい。

 ロロが、長くは保てない、と言った理由を察して、ミレニアはとにかく目の前の男を治癒することだけを考えた。


「ミレニア様――大丈夫、です。もう、動けます」


「クルサール殿……!」


「助かりました。――貴女の治癒は、本当に早くて、的確だ。ぜひ、全てが終わったら、光魔法に関してのご教示もお願いしたいところですね」


 血を多く失いすぎたせいか、まだ少しだけ蒼い顔をしながら、クルサールは嘯いてゆっくりと立ち上がる。

 そのまま、懐に隠していた短剣を引き抜き、構えた。


「ロロっ……!治癒が終わったわ!」


 炎の奥に向かって、焦燥を募らせながら叫ぶ。

 最強の護衛兵がやられることなどないと信じているが――それでも、怖いものは怖い。

 もしも、愛しい男が深刻な怪我を負っていたら――万が一にも、命を散らすようなことが、あったら。

 心に忍び寄る昏い影におびえ、ぎゅっと気をしっかりと保つために胸元の首飾りを握り込む。

 そんなミレニアの不安をかき消すように、フッ……と瞬き一つで炎の障壁が掻き消えた。


「ロロ――!」


 狭い壇上で、身動きがとりづらく、数で押し込められれば圧倒的に不利だっただろうに、炎の消えた先――黒衣の男は、兵士たちを見事にすべて斬り伏せ、涼しい顔で隙なく鋭い眼光を周囲へと走らせていた。


「これは――……」


 ぐるり、と周囲を見渡し、やっと状況を把握したらしいクルサールが、蒼い顔で絶望的な声を出す。


「チッ……やはり、短剣を隠し持っていたか。油断のならない男だ」


 口の中で汚く舌打ちしながら、ロロは足元に転がっている誰かの剣を無造作に蹴り、クルサールの方へと転がす。


「お前を殺すのは後だ。……事情を説明しろ。この、虚ろな目をした兵士どもは何だ。――死すら恐れずに突っ込んでくるぞ」


「な……」


 顎で指された先を見れば、追加で壇上を上がってくる数名がいる。

 下から見ていれば、ロロの人知を超えた強さは十分すぎるほどにわかっただろう。

 そこに、復活したクルサールまで加わったと知ってもなお、たかだか数名で襲い掛からんとするその行為は、ただの自殺行為としか思えぬものだった。


「クルサール殿……」


「申し訳ございません、ミレニア様。私の国王として成長した姿を見ていただきたいと思っていたのですが――どうにも、情けない結果になっているようです」


 言いながら、ロロが蹴りよこした剣を拾い上げ、軽く切っ先を振るいながらクルサールは臨時の相棒の具合を確かめる。


「兵士たちの顔ぶれに、共通項は?」


 この状況でクルサールがミレニアに刃を向けることはないとわかっているものの、油断なく殺気を飛ばしながらロロは静かに問いかける。


「いえ……特にありませんね。普段から互いに交流がありそうな顔ぶれではありません」


 ほんの少し痛ましげに眉をひそめて、クルサールは床に転がる遺体の顔を眺める。


「そうか。……来るぞ。姫をお守りしろ。――姫の肌にかすり傷一つでもつけたら、すぐさまお前の首をそこの広場に放り込んでやる」


「それは怖いですね……」


 駆けあがってきた兵士たちに隙なく剣を構えながら、クルサールはじっとりと冷や汗をかく。

 一瞬瞳を閉じて、パァッと光の粒をはじけさせると、額に紋様が浮かぶと同時に、身体に力が漲るのが分かった。


「さて……最後に、慈悲を。ここで下がれば、貴方たちの罪を許しましょう。ですが――あくまで我々に刃を向けると言うならば、神に弓引く異教徒とみなします。それでも、剣を振り上げますか?」


 ぞくり、とするほど冷ややかな声が飛ぶ。

 エルム教は、隣人愛を説いてはいるが――異教徒には厳しい宗教だ。

 クルサールの瞳には、冷徹な光が冴え冴えと宿っていた。


「……問答は無用のようですね。嘆かわしいことです」


 虚ろな瞳のまま、剣を掲げた兵士たちを見て、クルサールは物憂げに軽く睫毛を伏せる。

 そのまま――狭い壇上で、異教徒の殲滅戦が、始まった。

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