第86話 因縁の場所①
祭りの開催は、祭祀用に造られた舞台の上でクルサールが集まった国民を前に演説をすることから始まる。
王都中央広場と名付けられたその場所に、ミレニアが赴いたことがあるのは人生でたった一度きり――ロロは嫌というほど来た覚えがあるだろう。
(凄いわね……あんなに陰鬱で、世の中の負の感情を煮詰めたような一画を、ここまで拓けた場所に様変わりさせるだなんて)
そこは、かつて『奴隷小屋』と呼ばれていた一画の中――
――狂気の催しが行われていた『剣闘場』が設えられていた場所だった。
「ロロ……大丈夫……?」
広場としての空間は、つまりは闘技場のフィールドだった場所ということだ。ロロにとっては、あまり良い思い出がない場所だろう。
目的地の元の姿に気付いたミレニアは、そっと左後ろを振り返ってロロを気遣うが、いつも通り、そのピクリとも動かない表情は淡々としたものだった。
「別に……俺個人としては、何も、感じません」
「でも――」
「それよりも――かつて、世界の汚物を全て詰め込んだ肥溜めのようだったこの地に、貴女の穢れを知らぬ清らかな足を踏み入れさせてしまうことの方が抵抗があります」
無表情に微かな嫌悪感をにじませて、呻く。
清廉潔白な泉に住まう女神のような存在であるミレニアに、こんな場所は似合わない――とその微かに顰められた表情が雄弁に物語っていた。
「私は大丈夫よ。そもそもここは、考えてみれば、お前と私が初めて出逢った、始まりの場所。そう考えれば、嫌な感情など沸くはずもないわ」
軽く微笑み、ピリリとした表情の従者を宥めるように言う。
ロロも、そう思ってくれたら、いい。
――彼の中にある奴隷時代の嫌な記憶を、ミレニアとの記憶で塗り替えてくれたら、いい。
「第一、もうここには、かつての陰鬱な様子は影も形もないわ。こんなにも明るくて、人通りがあって――人々の憩いの地となっているのでしょう。……旧帝国の負の遺産を、こうして新しく作り変えてくれたクルサール殿には感謝しなくてはね」
広場の中央には噴水が創られ、ところどころにベンチや花壇のようなものもみられる。
皇城が焼け落ちて、今の王城が創られるまでの間、たくさんの人間が押し寄せても十分な広さのあるここは、クルサールが直接民の前で演説をするのに適した場所だったのだろう。
神の声を聞かせる場所に相応しく、平和と憩いの象徴としていったに違いない。
「お前が気にしないのなら、良かったわ」
気を取り直して、ミレニアはクルサールに指示された場所に向かう。
祭りの開始が宣言される前の今は、まだ街に人通りは少ないが、この後歩行者専用になるこの場所に、馬車はないり込めない。集合場所の少し手前から街を歩けば、各所から人々が浮足立っている気配は十分伝わってきていた。
(よかった。ここの民にとっては――二年前の”あの日”は、まぎれもなく、長く続いた苦難から解放された記念すべき日なのね)
ミレニアの個人の感情とは別に、そう思う気持ちも、本当だ。
口の端に微かな笑みを浮かべて、少し複雑な心境を持て余しながら、ミレニアは活気のある街の中を歩いて行った。
◆◆◆
待ち合わせ場所となる広場の傍の控室にいたクルサールとその側近らから祭事の流れを聞き終えると、広場の方から美しい女性の歌声が聞こえてきた。
「これは?」
「讃美歌、という神を讃える歌のことです。……そろそろ、始まるようですね。それでは、参りましょうか」
讃美歌の終了とともに、クルサールと二人で入場し、舞台に造られた賓客用の特別席に座る。その後、別の入り口から入場した王立協会の司祭がエルムへの祈りを壇上で捧げた後、クルサールから祭りの開催の挨拶が成される手はずとなっていた。
「申し訳ありませんが、私は神の化身。――民の前で、誰かに傅くことが出来ません。貴女を貴婦人のようにエスコートは出来ぬこと、ご了承ください」
「構いません。私はもう皇女ではないし――我が国には身分制度どころか、男女の間にすら特別扱いが存在しないのだもの」
そう言ってから、ふっと笑みを刻んでチラリと左後ろを見る。
「それに――身の安全は、ロロが保証してくれます。……どうぞ、お気遣いなく」
「それは頼もしい限りです」
大陸最強の名を恣にする男を護衛として侍らせるミレニアに苦笑して、クルサールは控室を出る。ミレニアも、後に続いた。
讃美歌が終わり、救世主の登場に胸を躍らせた広場の聴衆から割れんばかりの拍手が巻き起こったのを聞くと、クルサールは舞台へと足を踏み出す。
ミレニアも後に続き――
「――ぇ……?」
舞台に上がって、思わず声を失う。
「……どうしました?ミレニア様」
くすり、といつもの笑顔でクルサールが笑う。
ごくり、とミレニアは唾を飲み込んだ。
(何よ……これ……)
舞台の上――賓客用として用意された椅子、などはなかった。
ただ――並んで二人が腰掛けられる、横長の上等な設えの椅子が鎮座されているだけだ。
(これじゃまるで――妃の扱いじゃない……)
不愉快に顔を顰めるも、目の前の美青年の笑顔は崩れない。
舞台に上がったまま足を止めたミレニアに、観衆はざわざわと少しざわめき始める。
「さぁ、お早く。民が訝しんでいます」
「……よくも、いけしゃあしゃあと……」
口の中で呻いてから、ミレニアはぐっと奥歯を噛みしめ、覚悟を決める。
「ロロ。……殺気をしまいなさい」
「まさか、あの席にお掛けになるつもりですか?」
「仕方ないわ。今更回れ右は出来ない。ここは一本取られたと思って、甘んじて受けましょう」
クルサールは、今日ファムーラ共和国の承認を宣言することは諦めたようだったが――これでは、ミレニアとクルサールが将来を誓った仲なのだと国民に誤解されても仕方ない。
そしてそれは、間違いなく、ゴーティスとの関係に亀裂を走らせるきっかけとなるだろう。
外交上高度な思惑が走る中、舞台の上でどのような座席に座らされるのかまで確認しなかった自分が悪い。
ミレニアは自責で捉え観念し――
「あのように至近距離に座られては、すぐ背後に控えていても、有事の際、姫に何かをされた後にしか反応できません。――祭事の間中、クルサールの首元に剣を突き付けていても……?」
「やめなさい。今更、彼が私の命を狙うようなことはしないから」
どうやら、ロロが危惧していたのは、外交上のやり取りでも、愛しい女が他の男と親密な距離で密着することでもなく、ただ純粋にミレニアの命の安全だったようだ。クルサールが気まぐれに懐から刃物を取り出し、ミレニアを刺すとでも思っているのか。
他者から見ればぶっ飛んでいるとしか思えない発想だが、どこまでも通常運転な護衛兵の思考回路に呆れて、ミレニアは軽く嘆息する。
――おかげで、少し、肩の力が抜けた。
「座席の後ろから、祭事の間中、クルサール殿に純度100%の殺気をぶつけることだけは許してあげるわ。他の者を威圧するのは駄目よ。クルサール殿にだけ、ぶつけなさい。彼が恐怖に竦み上がるくらいのものを、ね」
「……言われずとも」
ゆらりっ……と紅い瞳に昏い炎が宿って揺れる。
これくらいの意趣返しは、許してもらわねば、割に合わない。
ミレニアは、大陸最強と謳われる黒衣の護衛兵を伴い、自国の民が仕立ててくれた見事な衣装を堂々と翻しながら、何も気にしていないと言わんばかりの悠然とした態度で、クルサールの隣へと腰掛けた。
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