第85話 始まりの地へ⑤

 ザァ――と春の風が草花を揺らし、駆け抜けていく。

 風に遊ぶ黒髪を抑え、ミレニアはそっと瞳を開けた。


「……ただいま、戻りました。お兄様」


 ぽつり、と呟いた小さな声は、春の風にかき消されていく。

 ミレニアの前に並ぶのは、十一個の少し大きな石。

 一見すると、整備されていない裏庭に転がる石ころだと思われるそれの下に、かつてこの国を治めていた、悪逆非道の一族の首が埋葬されていると知る者はほとんどいない。


 もう一度瞳を閉じて、ミレニアは黙祷を捧げる。

 美しい白い横顔は、固い表情のまま無言を貫き、心中でどんな言葉を語りかけているのか、察することは出来ない。


「……お待たせ。少し、肌寒くなってきたわね。中に入りましょう」


「はい」


 随分と長いこと、瞳を閉じたままピクリとも動かなかったミレニアは、くるりと振り返り、声をかける。

 気配の一つも感じさせなかった護衛兵が、いつものように静かに佇んでいた。


「お前、建物の中を先に見たのでしょう?どうだったかしら。荒れ果てたりはしていない?」


「はい。定期的に、最低限の手入れをして管理されていたようです。かつての紅玉宮そのままに、お使いいただけるでしょう」


「そう。よかったわ」


 万が一、間者の侵入をはじめとする危険があってはいけないと、過保護な護衛兵は、ミレニアが入る前にかつての少女の住居であった紅玉宮をぐるりと回って点検していた。

 そこは、確かに以前の面影そのままに、ひっそりと城の一画に変わらずあった。

 何もかもを作り替えられ、純白の城と化してしまったかつての皇城とは異なるその設えに、ミレニアもほっと息を吐いて休むことが出来るだろう。


「……そう言えば、ロロ」


「はい」


 今頃、紅玉宮の中では、レティたちが一生懸命夜の準備をしているところだろう。

 少し慌ただしい雰囲気の宮へと足を進めながら、ミレニアはいつも通りの定位置に控えて影のように付き従ってくる男に、口を開く。


「お前――ここへ来てから、少し変よ」


 さらり、と何でもないことのように告げられた言葉に、ドキリと心臓が音を立てた。


「ずっと――何というか、昏い影を背負っているようだわ。いつも、じっとりと、重い空気を纏っている」


 本質を突くミレニアの言葉に、我知らず軽く唇を引き結んだあと、ロロはゆっくりと口を開く。


「……かつて、貴女の命を執拗に狙った男がいる地です。心中穏やかでいることは難しい」


「それは――まぁ、そうなのでしょうけれど」


 嘆息して、ミレニアはちらりと視線を投げる。

 視線を伏せた紅い瞳には、昏い影が差し込んでいるようだった。


(クルサール殿を前にしたときの、ピリピリした雰囲気とは少し違うのよね。殺気を纏っているときのような、刺すような空気ではなく――鉛のように重たく陰鬱な空気……)


 それは、ミレニアたちが王都へと足を踏み入れてからずっとだ。

 ロロは、クルサールと会う随分と前から――クルサールと別れた後もずっと、常に影を背負っているような瞳で、何も言わずにいつもの定位置に控えている。


(心当たりが全く無い――という様子でも、ないようだけれど)


 ロロとの付き合いは、もう何十年――彼のちょっとした言動一つで、ロロが嘘をついているかどうかなど、すぐにわかる。

 だが、彼が至上の主と認めるミレニアに水を向けられたにもかかわらず、敢えて異なる理由を口にしてまで濁すと言うことは、それなりの理由があるのだろう。

 もう一度だけ嘆息して、ミレニアはそっと唇を開く。


「何か、気になることがあるなら言いなさい。ちゃんと、聞いてあげるから」


「……」


 ぺこり、と無言でロロは頭を下げる。

 まだ、口にするつもりはないらしい。

 

「今日の夕飯は何かしら。昼間の交渉はとっても疲れたから、元気の出るものだと嬉しいわね」


 この話はこれで終わり、と告げるように、明るい声で空を見上げる。

 夕焼けが西の空を照らし、世界が燃え盛るように紅い色に包まれていった――


 ◆◆◆


 昨日の見事な夕焼けを裏切ることなく、翌日は綺麗に晴れ渡った。

 眩しい朝日が降り注ぐ中、懐かしい自室で、ミレニアはレティに身支度を手伝ってもらいながら鏡に映る己を見る。


「こうして改めて見ると、私も随分成長したと思わない?」


 ここを出たのは、二年近く前だ。そのころ、この鏡を覗き込んでいた記憶と比較すると、少し背が伸びて、身体つきも顔つきも、いくらか女らしくなったような気がする。


「はい。十七のお誕生日を迎えられた淑女の姿に相応しく、とてもお綺麗です。王都の民も、本日はきっとニア様の美貌に感嘆のため息を漏らすでしょう」


「まぁ。ふふっ……ありがとう」


 菫色の瞳の優しい従者の声に、ミレニアは嬉しそうに笑う。


「でも――どうしてかしら。世界で一番感嘆のため息を漏らしてほしいと思う男は、きっとピクリとも頬を動かしすらしないのよ?」


「それは……まぁ……ロロさんですから……」


 レティの声に苦味が混じる。どうやら、これ以上ない苦笑を刻んでいるらしい。

 今日のミレニアの装いは、ファムーラの女たちが一生懸命に縫い上げた美しい一張羅のドレスだ。

 元首の初めての正式な外交が、大国・クルサール王国となれば、国民も気合を入れて、国の代表として務めを果たすミレニアを応援した。

 女達の手によって見事な刺繍が施されたドレスを身に纏うミレニアは、どこから見ても、”傾国”と謳われるのも頷ける美しい淑女と言えるだろう。


「そういえば……昨日の会談は、上手く行ったのでしょうか」


「あぁ……そうね。勿論、まだ話がまとまったわけではないけれど、悪くはない進捗だわ」


 クルサールは、どうやら相当ミレニアの後ろ盾を早く得たいと思っているらしい。

 当初の彼の予定では、王国建国祭と名付けられた今日の催しの中で、集まる王国民を前にファムーラ共和国を国家として認める宣言を行い、対外的にもファムーラとの繋がりの強さをアピールしたい――という思惑があったようだ。

 それに対し、ミレニアは待ったをかけた。


(そんなことをすれば、ゴーティスお兄様との関係がこれ以上なく悪化する――ファムーラを守るためにも、私はこの件に慎重にならなければ)


 ファムーラには、元剣闘奴隷が多い。単純な個々の戦闘力だけで言えば、恐らくゴーティスが率いる軍人よりも強力だろうが、いかんせん、数は限られる。

 それに対し、統率された動きで、数々の戦略を練って仕掛けてくる帝国軍は、兵士の数も膨大だろう。大陸最大のクルサール王国に戦争を仕掛けようと画策するくらいだ。そのあたりは抜かりないはずだ。

 ファムーラに、知略の限りを尽くして数の暴力で攻め入られれば、さすがにひとたまりもない。今、ゴーティスを敵に回すわけにはいかないのだ。

 この国際情勢がピリピリしている時期に、明確に王国と手を結んだと思われては、真っ先に強力な戦力を有するファムーラを落とし、捕虜として剣闘奴隷たちを隷属させ、次なる王国との戦いの兵士として駆り出すことまで考えるだろう。

 それが、<神に見放されし大地イラグエナム>の名を冠する新帝国を率いる、ゴーティスという男なのだ。


(勿論、最大限ゴーティスお兄様との関係には配慮するけれど――万が一、不興を買って攻め入られるような事態を避けられなくなったとしても、冬であれば、こちらには地の利がある。慣れない雪中行軍であれば、お兄様も強気には出られない――国家の承認は、もうあと数か月待たなければ、安全とは言えないわ)


 だが、クルサール側にも、焦るだけの理由がある。

 着々と戦力拡大を図り、驚くべき速度で国としての体裁を整え、その比類なき軍事力を持ってあっという間に大陸でも有数の国家として認めざるを得ないほどの領土と人民を確保したイラグエナム帝国は、いつ王国に対して宣戦布告をしたとしてもおかしくない状況にあった。

 一刻も早く、対帝国に最強の同盟国を手に入れたいクルサールは、あの手この手でミレニアを懐柔する施策を会談の場で打ち出してきた。

 それを悉く跳ね返しながら、あくまで王国側の反感を買わぬように気を付けつつ、最後は戦争回避のための助言や援助を承諾するという形で落としどころとした。


「今日の私は、あくまで”エルム様”が認めた『旧帝国の良心』として祭りに招かれた賓客。難しい話をするつもりはないから、せいぜい、女たちが作ってくれたこの美しい衣装を見せびらかして、王国にファムーラの魅力をアピールしてくるわ」


 肩をすくめておどけたように笑って言うミレニアに、レティは複雑な顔を返す。

 何とか笑おうとして、うまく笑えなかった――そんな、顔。


(今日は、ニア様にとっては、家族と祖国を失った日――まして、相対するクルサール殿は、彼女から全てを奪った張本人でもある。こんな日に、浮かれた祭りに参加することは愚か、顔を合わせることすら不愉快なはず……本当は、紅玉宮に設えた墓石を前に、しめやかに祈りを捧げていたいでしょうに……)


 従者に心配をかけまいと、元首として国家のために利のある振る舞いをせねばと、個としての己の心情を全て押し殺し、不敵に笑って見せるミレニアは、間違いなく傑物だ。

 その心意気がわかるからこそ、レティも笑ってやらねば――と思うのに、上手く、笑うことが出来ない。


「そんな顔をしないで。お前は本当に優しい子ね」


「申し訳ありません……」


 クスリ、と笑ったミレニアは、全てを見透かしていたようだ。

 菫色の瞳を伏せて俯いて、レティはせめて今日の彼女に課されている仕事が恙なく進行し、紅玉宮に一刻も早く帰って来られるようにと祈ることしかできなかった。

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