第84話 始まりの地へ④

 コツ コツ

 磨き抜かれた大理石の床が、規則正しい足音を刻む。

 ミレニアは、不躾にならぬ程度に視線を緩く巡らし、胸中で呟いた。


(たった二年で、随分とここも様変わりしてしまったわね。……まぁ、城の中心部のほとんどは革命によって焼き尽くされていたのだから、当然かもしれないけれど)


 旧帝国は、泣く子も黙る大陸最強の軍国主義国家。皇城の中は、猛々しく、勇ましさや雄々しさを感じるような内装が多かったように思う。ギークの治世下では、さらに絢爛豪華な装飾も増えていた。

 しかし、今ミレニアが歩を進める城内――王城、と新たに名付けられたその場所は、位置するところが同じというただそれだけで、中身は全く別物だった。

 清貧を愛すというエルム教の宗主が住まう城でもあるのだ。華美な装飾など欠片も見当たらない。

 壁も、床も、天井も――目が痛くなるほどの眩い純白で統一されており、ところどころ見られる金の装飾も、決して下品な物ではなく、控えめで上品な心ばかりのささやかな物ばかりだ。


「こちらでございます」


「……そう」


 案内係としてつけられた青年は、純白の法衣に身を包んでいた。その装束を見る限り、どうやら聖職者の一員らしい。

 その昔、この城で賓客を案内するとなれば、漆黒の軍服に屈強な身体を包んだ、軍籍の貴族であることが多かった。

 しかし今、目の前にいるのは、剣を握ったこともあるのか疑わしいほどのひょろりとした男。

 これこそが、今はこの王国が平和そのものである、ということなのかもしれない。


(……まぁ、今この瞬間に限って言えば、ここはこの国で最も平和ではなさそうだけれど)


 少しだけ呆れて、ミレニアはゆるりと左後ろを振り返る。

 そこには、修羅のような顔でピリピリと殺気をまとう黒衣の護衛兵が控えていた。


「ロロ。私達は外交の話し合いに来たのよ。……殺し合いをしにきたわけではないわ」


「……はい。不用意に剣を抜かぬように、堪えます」


「堪えるとか、そういう問題ではないでしょう……」


 身体をすっぽりと覆っている黒マントのシルエットを見るに、その漆黒の布の下で彼が既に、いつでもそれを引き抜けるよう剣の柄に手をかけていることは明白だ。

 何の説得力もない護衛兵の言葉にミレニアは呆れたように首を振ってため息を吐く。

 この美青年の魂の奥底に深く深く刻み込まれた傷跡は、どうやら何年たっても解消される見込みはないらしい。


(まぁ、記憶がない時でさえ、クルサール殿と顔を合わせれば、今にも斬りかかりそうになるのを必死に理性で留めている、という感じだったものね。記憶が戻ったら「今すぐ殺したい」と感情が苛烈になっても何の不思議もないわ)


 ロロの境遇を思えば理解も示せるが、そうは言ってもそれでは困ると言うのが現実だ。


「……姫。不用意に剣を抜かぬと約束するので、せめて、あの男と対峙する際は、俺が常に姫の前に立つことを許して頂けませんか」


「駄目よ。護衛兵の陰に隠れながら、相手の顔も見ずに外交をする者がどこにいると言うの。常識で考えなさい」


 たしなめるように言うも、ロロは苦しそうに顔を顰める。


「……本当は、あの男の首に刃を立てた状態以外では、姫と対面することそのものを許したくはないのです」


「お前ね……よくもそれで、私がクルサール殿と結婚すると言い出しても受け入れるなどと言ってのけたわね……」


 いっそ呆れて感心すら覚える。闇が深すぎて怖い。

 頬を引きつらせたミレニアと案内役の男を前に、ロロは俯いて今にも噴き出しそうになる怨嗟を堪えた。


「よりにもよって、この時期、こんな部屋に、貴女を呼び寄せるような男です。……今すぐにでも首を刎ねて、己の立場をわからせてやりたい」

 

 低く呻きながらキン、とマントの下で小さく剣が音を立てると、案内役の男はぞっと顔を青ざめさせた。

 ミレニアは苦い顔をしてから、再び案内された部屋の扉へと向き直った。

 当時、扉に掲げられていた旧イラグエナム帝国の国旗は当然ながら見当たらないが――そこは、その昔『謁見の間』と呼ばれていた部屋。

 ――今から三年前、ミレニアが、兄たちの策略によって、哀しく惨い、絶望的な”死”の運命を突き付けられた、その場所に他ならない。


 どうやら、ロロが今まで以上に怒気を発しているのは、王都に到着してすぐにクルサールがミレニアを呼び寄せた場所が、この因縁の部屋であったためらしい。


「……ふふ。あの時と同じ季節、同じ部屋で、かつて謎の儀式をもって私の事実上の”死刑宣告”を告げた張本人は――”王国建国祭”とやらを明日に控えた今日、一体何を語るのかしらね?」


「……殺しましょうか」


 ひやり、と冷たい声が後ろから飛ぶ。

 その声に、冗談の響きが入り込む余地など髪の毛一筋すら存在しなかった。


「あの男の殺し方は――


 ロロが、”やり直し”たその数だけ――彼はその手で、クルサールの命を屠ってきたのだから。


「……やめなさい。先ほどから、彼が可哀想なほど蒼くなっているわ」


 平和の象徴とすら思える案内役の男は、生まれて初めて”殺気”というものを浴びたのだろう。――それも、伝説の剣闘奴隷と呼ばれた男の、純度150%の本気の殺気だ。

 今にも失禁して腰を抜かしかねないほどガタガタと蒼い顔で震えている案内役の男をチラリと横目で見て、ミレニアは困ったように苦笑すると、くるりともう一度、今度は身体ごと後ろを振り返った。

 完全に据わっている紅い瞳は、禍々しい光を放っている。

 そこに渦巻くのは、この世の全てを焼き尽くす地獄の業火か――修羅の道に降り注ぐ血潮の雨か。

 青年が忌み嫌われる要因となったと聞いても頷けるほどの、本能的な恐怖を呼び起こすその瞳を前に、ミレニアは眉を下げて困った顔をすると、何一つ臆することなくそっと右手を長身の青年の左頬へと伸ばした。


「ロロ。――ルロシーク」


「――!」


 歌うような声と共に、小柄な体で緩く背伸びをするようにして伸ばされた嫋やかな繊手は、褐色の肌に刻まれた、永遠に消えることのない奴隷紋へと柔らかく添えられる。

 美しく温かなその掌が触れると、ミレニアはふわり、と女神のような笑顔を浮かべた。

 ドキリ、と心臓が鳴って、思わずロロは身を引く。

 穢れを知らぬ真っ白な美しい手を、汚してしまう恐怖に慄いた。


「まぁ。……駄目よ、逃げないで。さぁ、いつものように瞳を見せて」


「っ……」


 柔らかく笑んだまま追い縋って再び頬に手を掛けられ、息を詰めて硬直する。


「ふふ。……あぁ、やっぱり――お前の瞳は、何よりも美しいわ。永遠に見ていられる」


「っ……お戯れを……お放し下さい。御身が穢れます」


「まぁ、駄目よ。言ったでしょう?お前は私の物なのよ。ずっと、ずぅっと、ね?……ふふ。私には、私が好きな時に、好きなだけこの瞳を覗き込んでもいい権利があるはずだわ」


 鮮やかで美しい澄み切った翡翠の瞳をうっとりと緩めて、じぃっと下からまっすぐに見つめてくる視線にロロはたじろぐ。

 ドクン、ドクン、と心臓が鼓動を速める音がした。


「お前の瞳は、どんな時も美しくて大好きだけれど――あまり、思い詰めたような昏い影を落としているのは、見たくないわ」


「っ……」


「何度だって言ってあげる。お前は私の宝石よ。世界で一番美しい宝石。この美しい紅玉の瞳が――私を愛しそうに見つめてくれるときが、一番大好き」


 嬉しそうに頬を上気させながら、はにかんだように笑うミレニアに、言葉にならない感情が溢れだしそうになる。


「だからいつも、私を見ていて。お前は口下手で、寡黙だから――言葉の代わりに、この瞳で、私に”愛している”と何度だって伝えて」


「っ……姫――……」


「私の許可なく、昏い過去に捕らわれては駄目。復讐などという生産性のない行為も許しはしないわ。お前はただ、ずっとずぅっと私の傍で、愛しそうに私を見つめていてくれればいいのよ」


 ふふっと悪戯に笑ってから、そっと愛しそうに奴隷紋が刻まれた頬を撫でる。

 腹の底から噴き出すように、堪え切れない灼熱の塊がロロの身体中を駆け巡り、ピクリと指先が反射的に動くのを理性で抑え込む。


(あぁ――いつから、だろう)


 この、視界に収めることすら眩しい純白の存在に――汚れた身でありながら、”触れたい”という衝動を覚えるようになったのは。

 愛しくて、愛しくて――堪え切れなくなって。

 眠る少女に口付けをした。髪を撫でて、優しく身体を抱き上げた。

 そのたびに心臓が暴れまわり、許されぬと知りながら、もっと、もっとと欲が出た。


 女神のような彼女に触れることなど、分不相応だとこれ以上なく頭では理解しているはずなのに――


 ――今も、少女の小柄な身体を、衝動に任せて抱きしめたくて堪らない。


「ふふ。そう、それでいいのよ」


 周囲を竦み上がらせる殺気を振り撒いていた青年の瞳に、確かな灼熱が宿ったのを見て、ミレニアは満足げに笑う。

 女神の翡翠に捕らわれた紅玉は、もはや殺気を振り撒くようなことはしない。

 先ほどまでの縮み上がるほどの威圧感が鳴りを潜めたかと思うと、見つめ合うようにして恋人同士の甘い空気が漂い始めたことに困惑した案内役の男が、おろおろとしているのを視界の端に捉えながら、ミレニアはうっとりと目の前の紅玉を見つめた。


 いつだって、この瞳は特別だ。

 世界一美しい宝石を見つめる時間は、誰にも邪魔をされたくない。


 『ミレニアが愛しい』と雄弁に語る灼熱を宿した紅玉を前に、時を忘れそうになったその時――


「まったく……いつまで経ってもいらっしゃらないので、何事かと思えば……二人の世界に浸るのは、後にしていただいてもよろしいですか?」


 二人を引き裂くように飛んできた声には、呆れたような響きが混ざっていた。

 その瞬間、目の前の紅玉が鋭さを増し、ぐいっと手を引かれたかと思うと身体を入れ替え、黒衣の背に庇われる。


「ロロ!」


 一瞬の出来事に驚きながらも、慌てて制止の声を上げると、ロロは何とか剣を抜くのだけは踏みとどまったらしい。今にも抜剣しようとした体勢のまま、ギラリと光る紅い瞳が、射抜くようにして目の前の青年を睨み据えた。


「クルサール……!」


「……相変わらず、私はとても嫌われているようですね」


 かつて『謁見の間』と呼ばれた部屋から出て来たらしい金髪碧眼の美青年は、困ったような笑顔で肩を竦めたのだった。

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