第78話 世界で一番①
意識の覚醒と共にゆっくりと瞼を押し開くと、見覚えのない天井が、自分を見下ろしていた。
「……?」
疑問符を上げながら、ひとまず体を起こそうとすると、頭に鈍い痛みが走った。
「っ……」
思わず顔を顰めてから額に手を遣る。ぎゅぅっと眉間にこれ以上なく皺が寄った。
「クソ……なんだ、これは」
呻く声は、妙に掠れている。喉が酷く乾いてカラカラだ。
一度頭痛に気付いた途端、痛みは絶え間なく酷くなる一方で、心臓が鼓動を刻んで血管が拡張と収縮を繰り返すたびに、いっそ割れてしまうのではないかと思うほどの激痛が襲ってくる。
何とか体を起こして寝台の縁に腰掛け、項垂れるようにして頭を押さえながらじっと痛みをこらえた。
(何だ……?ここはどこだ……宴会はどうなった……?)
ズキンズキンと苛む頭痛の合間で記憶をたどるも、酒宴が始まった途端にむせ返るような濃厚な酒の香りが充満して不愉快だったことと、妙に商人たちに絡まれて面倒くさかったこと、ジルバが無理矢理に盃を煽らせたこと――くらいまではおぼろげに記憶にあるが、そこから先が、ブラックアウトしてしまったようにして全く何の記憶もない。
(第一、なんで半裸なんだ……)
痛みをこらえて目を開けば、自分の身体が目に入る。
宴会に参加したときは、確かにいつもの黒マントを纏っていたはずなのに、いつの間にかマントは取り払われ、一番上までしっかりと止められていたはずの釦は軒並みすべて外されている。
眠っているうちに暑くなって脱いでしまったのだろうか。
(――……この、真冬に……?)
痛みを堪えながら周囲を見渡せば、部屋の内装に見覚えがある。備え付けられた暖炉に火を入れたのは自分だ。
ここが仮眠用の個室であることはすぐに理解したが、いくら絶えず火がともされている暖炉があるとはいえ、暑さに耐えきれず服を脱ぐほどではないだろう。
恐らく、酒に酔って意識を飛ばしたのだろう、というのは状況的に何となく想像できるが、人生で初めての経験すぎて不可解なことが多い。
視界に映る世界で、理解不能なことはまだあった。
(……酒に酔うと、役に立たなくなる奴が多いんじゃなかったのか)
絶え間なくハンマーで頭蓋を殴られているかのような感覚の狭間で、どこかで過去に得た知識を引っ張り出し、元気よく自己主張をしている息子を恨めし気に見る。
朝だからというには元気が良すぎるそれは、卑猥な夢でも見たのかと思うほどで、目頭のあたりを抑えながら口の中で舌打ちをする。
「チッ……クソ、光魔法遣いはどこだ……」
宴会に参加した者は、翌日の労働を免除されていた。
つまり、今日のロロは、丸一日休みをもらっていることになる。
休みを得た自分がいるべき場所は、ただ一つ――常に、ミレニアの傍だ。
それなのに、こんな体たらくでは少女の前に立つことが出来ない。
二日酔いの症状を魔法で和らげられるかどうかなど知ったことではないが、何もしないよりはマシだろう。
今すぐ横になりたいほどの倦怠感と吐き気と深刻な頭痛に抗いながら、何とか己を叱咤して――
コンコン
「ぁの……ろ、ロロ……起きて、いるかしら……?」
「姫――!?」
扉の向こうから恐る恐る、といった様子で飛んできた声に、ハッと意識が一気に覚醒する。
返事をする前に、ガチャリ、とドアノブが回る。おそらく、こちらが起きているとは思っていないのだろう。
少女が入ってくる気配を察し、すぐさま立ち上がろうとして――
(っ、待て、今、立ち上がって本当に大丈夫か!?)
何せとんでもない所が自己主張しているのだ。
おまけに今は、いつも身体を覆い隠しているマントもなければ、シャツの前すら全開で、怒張している部分をうまく隠しおおせる気がしない。
ざぁっと一瞬色んな事が頭をめぐって血の気が引く。
「あら、起きていたの」
「っ、申し訳ありません、姫。不敬をお許しください。すぐに治めるので――」
寝台に腰掛けたまま前かがみで頭を伏せて真剣に許しを請うロロに、ミレニアは苦笑する。
「まぁ、無理をしないで。きっと、酷い二日酔いになっているでしょう。頭痛も吐き気も、そうたやすく治るものではないわ」
「いえそちらではなく――いえ。何でもありません」
思わず正直に口走りそうになったのを押しとどめて、ミレニアの勘違いをそのままにしておく。
(やめてくれ、今俺に近づいてくれるな――!)
何十年と拗らせ続けた感情は、生涯彼女に振り向いてもらえなくても後悔はないと思うほどに肥大化している。
見ているだけでいい。傍にいられるだけでいい。視界になど映らなくていい、気安く触れられるなどと思っていない。
だから――何回やり直した人生でも、少女に必要以上に近づき、身体に触れられる滅多にない機会は特別で、そのたびに五感全てを使って脳内の深いところに刻みつけてきた。
近づくたびにふわりと香る、花の香りのような柔らかな匂いも。季節ごとの指先の冷たさも。寝落ちて力を失い、柔らかで線の細い小柄な身体も。絹のように滑らかな漆黒の髪の手触りも。菓子を食べさせろと言われて指で不意に触れてしまった唇の湿った柔らかさも。
眠る少女に一度だけ唇で触れた、温かさも――
何より、たった一度だけ見てしまった、少女の一糸纏わぬ裸体まで同じ強烈さで記憶に刻み込んでしまったのは何故なのか。
「っ……」
(何故、今更、そんな記憶がよみがえってくる――!?)
己の迂闊さに心の中で舌打ちして、脳内から全ての記憶を締め出す。昨夜ことは全く覚えていないのに、どうしてそんなことばかり覚えているのか。
「ロロ……?大丈夫?そんなに具合が悪いの?症状はどんな感じかしら」
可憐な声が響くと同時に、心配そうに小さな足音が近づいて来て、内心酷く焦る。
身体は染み付いたように、五感の全てでミレニアの存在を少しでも強く捉えようと、勝手に嗅覚は花のような香りを捉え、聴覚は麗しい声を吐息までも聞き漏らさぬように鋭さを増し、その存在を身近に感じるほどにドクドクと心臓が脈打つ。
脈打つ度に脳に激痛が走るのをこれ幸いと、痛みに意識を全集中した。
(どうして今日に限って急に――そんなに欲求不満だったか?)
ぐっと眉根を寄せて、痛みと吐き気の不快感に集中すると、やっと息子は平常心を取り戻してくれたようだった。
「……頭痛が」
やっとのことでボソリ、と呟くように症状を伝える。
普段であれば、体調不良などミレニアの手を煩わせることなく気合で跳ね返すべきだが、このいかんともしがたい頭痛だけは、専門家に頼らねばならないと観念した。
今、ミレニアの身に危険が迫るようなことが起きたとき、万全の態勢で彼女を守れないようなことでは、何の意味もない。
「まぁ。吐き気は、あるかしら?」
「……はい」
「ふふ、大陸一の武人にも、こんな弱点があったのかと、ジルバが笑っていたわよ」
可笑しそうに笑うミレニアの言葉に、苦い顔をする。
好きなだけ侮ればいい。かつての宿敵などより、女神が目の前に居るのに何故か今日に限って暴れ出した性欲の方がよっぽど強敵だった。
パァッ――
「これでどうかしら?」
女神のような慈愛に満ちた微笑みでかざされた手から、淡い光が弾けたかと思うと、ふっ……と症状が一瞬で引いて行った。
すぐに寝台から降り、膝をついて首を垂れ、今までの不敬を詫びながら頭を下げると、ミレニアは驚いたように目を見開いてから、クスリと笑った。
「まぁ。……ふふ、膝をつく前に、前を合わせてほしいわね。目のやり場に困ってしまうわ」
「っ……失礼しました」
言われて気づき、慌ててシャツの前を止める。視界の端――寝台の上に、無造作に放置されているマントに気付いて、それも手に取り、ぐるりと巻き付けるようにして身に着けた。
クスクス、と女神の可愛らしい笑い声が聞こえてくる。
いつも通りの格好に戻ったロロは、再び膝をついて控えた。
「申し訳ございませんでした。とんだ失態を……」
「失態……」
口の中で反芻したミレニアは、「ん゛ん゛っ……」とわざとらしく咳払いをした後、内心の緊張をごまかすようにして、口を開いた。
「失態、といっても……お前、昨夜のことをどこまで憶えているの?」
ドキドキと胸が高鳴る。緊張で、叫び出したいくらいだった。
「ジルバに酒を飲まされた記憶が、最後です。そのあと……俺は、どうやってここに連れて来られたのでしょうか」
「まぁ、そこから!?」
「?」
心底驚いたような声を上げたミレニアに、ロロは怪訝な表情のまま顔を上げる。
見ると、主は何やら引き攣った顔をしていた。
「酒を飲まされて、すぐさま意識を失ったのだと、思ったのですが」
「そ、それは――そうね。ジルバもそう言っていたわ」
「ということは、ジルバが意識を失った俺をここに運んできたのでしょうか?」
「そ、そうなんだけど……えっと……」
散々商人たちを相手に惚気たことや、この部屋でミレニア相手に情熱的に愛を囁いたことなどは、きれいさっぱり脳みそから消えてしまっているらしい。
複雑そうな顔をしたミレニアに、不穏な空気を感じ取り、ロロは言葉を重ねる。
「もしや、それ以外に、何か……?」
「ぅ、その、えっと――」
「商人たちはどうなったのでしょうか。酒の席で興覚めだと俺のせいで不興を買ってはいないでしょうか」
「いえむしろお前のおかげですごく盛り上がったと聞いているから、お前は本当に責務をしっかり果たしてくれたわ。今朝、彼らが帰っていくときも、散々、色々と言われたもの……」
「?」
部屋に窓がないために時間を把握できなかったが、どうやら思いの外眠りこけていたらしい。既に商人たちは見送り終えて、宴会会場もすっかり片付けられているのだろう。
「では、何を……?」
「い、いえ……その……お、覚えていないならいいの。いいのよ。えぇ」
(待ってくれ。なんでそこで頬を赤らめる)
うっすらと頬を桜色に染めて、気まずそうに視線を逸らしてしまった主の反応に、ざわりと胸の中がざわめく。
どう楽観的に考えても、それは流していい反応ではなかった。
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