第75話 宴会の夜⑦
ぱちぱち、と翡翠の瞳が瞬かれ、思わずロロを見上げる。
普段の鋭さが鳴りを潜め、酒でとろんと緩んだ紅い瞳は、彼が扱う炎を思わせる熱を湛えていた。
「奴隷だったことを気にしているの?私が創る国では、そんな
「それだけじゃない」
さらり、と無骨な指が夜空を閉じ込めたような黒髪の表面を滑り、そっとミレニアの両頬を包み込む。
「アンタは、昔から、恋愛とやらに夢と幻想を抱いているだろう」
「へっ!?」
唐突な指摘に、思わず声が裏返る。
片目を眇めて、苦い顔をしながら、ロロはミレニアの両手で包んだ顔を覗き込んだ。
「デビュタントのダンスだのエスコートだの……アンタの中では、抱擁や口付けの一つすら、まるで特別な出来事のように言ってのける。皇女としての誇りだの矜持だのと偉そうに語っておきながら、恋愛に憧れて、目を輝かせては、それが唯一の”未練”なのだと言う始末だ」
「ぅ゛……」
(それは、恋愛出来れば誰でもいい、というわけじゃなくて、”ロロ”との恋愛が成就しなかったことが未練だと言う意味だったのだけど――)
改めて口にするのは気恥ずかしく、反論は口の中に消えて行った。
第一、抱擁や口づけを特別視して幻想を抱いていることは否定できない。
完全に子ども扱いされ、侮られている気配に、ミレニアは口をとがらせた。
「し、仕方ないでしょう。私が昔からよく読んでいた本は、帝王学だの帝国史だの――そういった小難しいものばかりだったんだもの。同世代のお友達と言えるのは、レティくらいだったし……息抜きにこっそり読む恋愛小説くらいしか、知識を得る方法がなかったのよ」
子供っぽく言い訳がましいことをゴニョゴニョと口の中でぼやく。
すると、魔法の効力が切れてきたのか、トロンとしていた瞳がより力無く緩み、瞼が重そうに下がってくる。
「まぁ……そういうことだ」
「どういうこと!?」
「俺には、アンタが憧れているような”家族の愛”も――”恋愛”も、よくわからない」
「あぁっ……!待って、眠らないで!」
そのまま、すぅ――と瞳を閉じて再び眠りの世界に飛び立とうとしたロロに、縋るように声をかけて額に手をかざし、焦って魔法をかける。
ぱぁっ……と小さく淡い光が弾けて、一度閉じられた瞳がゆっくりと開かれた。
「お前、私を好きだと言ってくれたでしょう!?あ、”愛している”とまで言ってくれたのに――”恋愛”がわからないって、どういうことなのよ!?」
再び魔法によって強制的に覚醒させられ、ぱちりと開かれた瞳は、酒に酔って潤みを増しているような気がするが、眠気の影は見えない。
「だ、第一、あ、憧れていたら何が悪いと言うの!?こういうのに、”正解”なんてないでしょう!?もしもお前が思う”恋愛”と私が思う”恋愛”が違うなら――それこそ、お前が思う”恋愛”を教えてくれればいいことだわ!」
先ほど、ロロ自身がミレニアの悩みを晴らしてくれた言葉を思い出し、ずぃっと顔を近づけて必死に言い募る。
酒のせいで眼の縁を赤らめたまま、ロロは至近距離から必死な形相で訴えるミレニアをじぃっと見つめた。
「……俺は、今まで、女と”恋愛”なんぞをしたことはない。俺には、アンタに教えられるような何かがあるわけじゃない」
「嘘!だって、ラウラとは――」
「あんなのは昔から、ただ性欲処理の観点で利害が一致しただけの爛れた関係だ。ラウラに限らず、他の女も同じ――アンタが思い描いているようなモノじゃない」
「せっ……!!?」
さらり、といつもの無表情であけすけなことを言われて、ミレニアは目を白黒させる。ぼふん、と顔が真っ赤に染まった。
そんなお子様な反応を見せたミレニアに、ロロははぁ、と大きくため息を吐く。
呼気には、酒の臭いが濃密に漂っていた。
「だから、言っている。――俺には、アンタに触れる資格なんぞない」
「しっ……資格って何!?お、お前がもし本当に、その……女性と、せ、せせせ性欲を解消するためだけの関係しか持ったことがなかったとして――だ、だからといって、私に触れるとか触れないとか、そんなのは関係ないでしょう!」
唾を飛ばしながら紅い顔で訴えるミレニアに、ロロはぎゅっと眉根を寄せる。
話が通じないことに対する、微かな不愉快を感じているのだろう。
だが、ミレニアとしてはここで訴えをやめるわけにはいかない。
「お前が言うところの、そういう、その――”爛れた”関係を持った女たちへ抱いた気持ちと、今の私への気持ちは、違うんでしょう!?」
「当たり前だ」
少しムッとした顔で言い切られ、ほっとする。
「い、いいわ。勿論、少し――いえ、正直を言うとかなり――過去の女たちとの関係は気になるけれど、私と出逢う前のことに関して、とやかく言うのはやめてあげる。これから先の人生で、私一人だけを愛してくれるなら、構わないわ」
「?……過去も含めて、女に対して”愛しい”なんて感情を持ったのはアンタしかいない」
「っ……そ、そう……ならばなおのこと、私は構わないから、思う存分、好きに触れればいいわ!」
当たり前のような顔でさらりと愛情を吐露され、サッと頬を染めながら、羞恥を隠すように強い言葉で許可を与える。
出逢った頃から、ずっとだ。
ずっと――ずっと、ロロはミレニアに手を触れることを忌避する。
だが、困ったことに、ミレニアは、ロロに触れられるのが大好きなのだ。
寝落ちたときに、大事な宝物を抱きしめるように抱えてくれる逞しい腕も。夢と現のはざまで頬ずりする厚い胸板も。落ち込んだ時に、慰めるように優しく頭を撫でてくれる温かな掌も。
緊急時には、どんなに恐怖と絶望に包まれていても、彼に抱き締められるようにして助けてもらえた時はいつだって、泣きたくなるくらいの安心感がある。
滅多にないそれらの機会を、ミレニアは、もっともっと増やしてほしいと常々思っていた。
(酔っ払ったときに、こんなにも沢山私に触れてくるということは、きっと、普段も本心では、もっと触れたいと思っているということよね……?)
寝台の中で抱き寄せてくる腕は、恋人同士の甘さを含んでいる。
酒に酔って熱っぽい瞳も、その奥には平常時に時折幻のように垣間見える彼の灼熱がくすぶっているようだった。
まるでそれは、普段は押し殺されている彼の本音が漏れ出ているようで――
「……?……触れて、いいのか?」
「ええ、いいわ」
「……思う、存分?」
「えぇ。いいと言っているでしょう」
きっと、こんなことを言っていても、明日の朝、正気を取り戻したロロは再びミレニアに触れることを躊躇う男に逆戻りしてしまうだろう。
だから、きっと、彼の本音を暴けるのは、今日だけ。
普段、彼が押し隠している、『ミレニアに触れたい』という感情を暴けるのは、今日、この瞬間だけなのだ。
(ふふ……普段、一体ロロは、あの澄ました顔の下で、どんなことを思っているのかしら)
むくむくと興味がわいて、キラキラと翡翠の瞳が期待に輝く。
(私を失うかもしれないと不安に思って、身の安全を確認するように触られたときのように、本当はべたべたと全身、身体中に触れたいのかしら?それとも、意外と、「どうしてそんなところ!?」と聞き返したくなるようなニッチな場所に触れたかったりするのかしら)
彼が普段考えている『触れたい』が、どの程度の熱量で、どういう箇所に、どんな風に触れたいと思っているのか。
鉄仮面の下に隠されている本音を暴きたくてうずうずするミレニアの瞳を、ロロはじぃっとしばし見つめると、そっと片手を伸ばす。
「……わかった」
(頭!?頭、なの!?)
そっとミレニアの後ろ頭に手を伸ばしながら酒で少し掠れた声で言われた言葉に、ドキドキわくわくが止まらない。
ロロが、どこをどんな風に触れるのか――そんなことばかりを考えていたせいだろうか。
それとも、いつだって絶対の安心感を与えてくれる青年が、ミレニアを裏切るようなことをするはずがないと、無意識に信頼していたせいだろうか。
ぐっと後ろ頭を支えるようにしながら顔を上げられ、その完璧な顔面が目前に迫っても、『また瞳を覗き込みたいのだろうか』くらいにしか、思わなかった。
(――あれ……?)
初めて違和感を持ったのは、目の前の愛しい紅の瞳がすっと閉じられ、瞼の裏に隠れてしまったとき。
瞳を覗き込みたいなら、彼が目を閉じる理由はないはずだ。
「――――――」
どうして、と問おうとした言葉は、声にならなかった。
(ぇ――……?)
戸惑いの声すら、上げることは叶わない。
目の前に、長く美しいシルバーグレーの睫毛があるが、近距離過ぎて焦点が合わない。
唇が、しっとりと濡れた何かによって、塞がれている。
睫毛と睫毛がくっつきそうな距離感で、ミレニアは、その聡明な頭脳がフリーズするのを感じていた――
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