第73話 宴会の夜⑤

 ぎゅっと目の前のシャツを小さく握り締め、ミレニアは意を決して口を開いた。


「私……ずっと、怖かったの……」


「怖い?」


「えぇ。夢を……見て……」


 ぐっと無意識に拳に力が入り、手が白くなる。

 震える吐息を吐き出し、気持ちを落ち着かせながら、ゆっくりと気持ちを吐露していった。


「お父様に、教えを乞うている頃の夢を見るの。あの頃の知識は、今も私を助けてくれているし、私を慕ってくれる従者は、きっと、お父様が叩きこんでくれた私の中の主としての矜持を慕ってくれているのだと思うわ」


「あぁ」


「だけど、夢の中でお父様は……お前たち奴隷のことを、”口を利く道具”といって、当たり前のように蔑むのよ」


「――――……」


 それは、当たり前の事実だった。

 旧イラグエナム帝国において、奴隷とはそういう身分だった。さらに、皇族ともなれば、その前では一般市民でさえ顔を上げることを許されないほどの絶対的存在だったのだ。

 ギュンターの思想がどうの、という前に、国家としての当たり前の通念として、その認識がまかり通っていたのだから。


「夢の中で、私は、これが夢だと頭の隅で理解しているの。十六歳の、今の私の意識が、どこかにあると言うことよ。それなのに――夢の中で、私は、お父様に愛してほしくて、お前たちを”口を利く道具”だと言い切るお父様に、へらへらと笑いながら同調してしまうの」


「…………」


「目が覚めてから、とっても嫌な気持ちになるわ。そんなこと、欠片も思っていないはずなのに――”愛されたい”なんていう子供じみたエゴのために、大切な仲間であるお前たちを貶める発言をする自分が、情けなくて、悔しくて、罪悪感に駆られて最低な気持ちになるの」


 ぽつり、ぽつり、とミレニアは想いを吐き出していく。

 ぎゅっと瞳を閉じて、コツンと額を目の前の逞しい胸に預けた。


「皆が求めているのは、お父様から教わった知識をブレンドした、今の私――皇女という立場を取り払い、『自由の国』の建国を目指している、”ただのミレニア”が導き出した、今まで誰も見たことがないような、新しい道筋よ。私の決定には、たくさんの人間の幸せが係っていて、失敗は許されない。……商業の発展に関しては、過去の成功事例を組み合わせればできる。お父様の知識と、膨大な大陸史が、限りなく正解に近い道筋を教えてくれるわ。だけど――この、新しい国で新しく築かれる”幸せな家族”の作り方だけは、どんなに考えても、わからないの」


 はぁっ……と吐き出した吐息は、情けなく震えていた。

 唇を噛み、ぎゅっと引き締めてから、再びそれを開く。


「皆が期待を寄せる”ただのミレニア”の本質は――人の顔色を窺って、ただ、誰でもいいから誰かに無償の愛情を注いでほしいと願い、心にもないことを言ってしまう、弱くて情けない、子供みたいな女なの」


「誰でも……?」


「えぇ。誰でもいい。皇女としての私ではなく、新国家を目指す一行の主でもなく――互いに何の利害関係もない、対等な立場でありながら、そんな”私”を愛してほしいと――”家族”のように愛してほしいと、思ってしまう女なの」


「……」


「一度でいいから私も”家族の愛”が欲しいと渇望して、それさえあれば、こんな私だって、”幸せな家族”を作るための施策も法律も施設も、何もかもを自信をもって導き出せるのではないか――そんな馬鹿げた幻想を抱いては、もう今更、手に入るはずもないそれを欲して、夢に見て、泣いて、恐怖する……とても小さく弱い、子供みたいな女なのよ。……元首としては、失格だわ」


 ふ……と握っていた拳から力が抜ける。

 弱い自分を認めるのは、勇気がいる。勇気を振り絞った疲労が、ドッと肩にのしかかった。


「……だから私は、お前が羨ましくて仕方がなかった。同じく”家族の愛”を知らない、と言うくせに、そんなものに縋らなくてもまっすぐ立って、己の道を迷いなく選び取れるお前が。仮に誰にも愛されなくても、人生の選択も決定も、一切迷わないお前が」


 ぎゅっと目頭に力を入れると、泣きそうに、声が震えた。


「唯一特別に思っているはずの私の愛情すら、自分の人生には要らないと言い切れる、お前が」


 ミレニアには無理だった。

 愛した相手には、出来れば愛情を返してほしい。特別な相手には、自分も特別に思ってほしい。

 だが、そうしないと自分の道すら不安になる自分は、酷く未熟だと言われているようで――


「……よく、わからない」


 本心を吐露した少女の身体を抱きかかえたまま、ロロは首をかしげる。


「アンタは、さっきから、元首としてどうの、主としてどうのと言って、失敗は許されないだの、自信をもって道を選ぶだの言っているが――それが、アンタの望んでいる未来なのか?」


「ぇ……?」


 思わず顔を上げると、酒に酔っているせいか、少しぼんやりとした紅玉がいつもの無表情を湛えてじっとミレニアを見下ろしていた。


「『自由の国』っていうのは、誰が偉いだの、誰が王だの、そういうのを取っ払って、国民と元首の間にすら上下関係を無くした国家なんじゃなかったのか?」


「――――」


 ぱちり、と翡翠の瞳が瞬く。

 こてん、とさらに首をかしげて、ロロは言葉を続ける。


「他国と利害関係が生じるのは、まぁその通りだとは思うが――自国の民との間に、上下関係はないんじゃないのか?仮にアンタが描いた、理想の”幸せな家族”とやらを作り、維持するための施策に失敗しても、誰も責めない。気に食わなければ、次の――投票?か何かで、元首をアンタに選ばなければいいだけだ」


「……ぁ……」


「アンタが決めたことが全て正しくて、アンタに従っているだけなら、主と従者という関係だろうが――そういうのを無くしたいと思って、アンタはこの国を作りたいと思ったんだろう」


「そ……そう、ね……」


「わからないなら、聞けばいい。第一、国民の大半が元奴隷なんだ。国民だって、”幸せな家族”とやらを明確に描ける奴の方が少ないだろう。……だったら、皆で話し合って、皆が納得する方法を、新しく考えればいい。アンタが独りで責任を負って、何もかもを決めなきゃいけないわけじゃない。……冬が来てからの建築現場のスケジュールは、そうして造っていただろう。同じようには出来ないのか?」


「――――……」


 パチパチ、と何度も翡翠の瞳が瞬かれる。

 確かに、予想もしていなかった北の天候を前に、全員の安全を確保しながら、着実に作業を進めていく未知の計画を立てねばならなかった時、ミレニアは必死に対話を重ねた。

 この地域の天候の知識を持った人間に話を聞き、労働者に話を聞き、それを支える女たちや、物資調達の人間にも話を聞き、予算のやりくりのためにルーキスとも何度も会話した。出来上がった予定が本当に現実的かどうかを確かめるため、商売の休憩として訪れた北の商人たちすら捕まえて、教えを請うた。

 ミレニアが独りで引いたスケジュールではない。

 全員が知恵を出し合い、意見を出して、互いの利や妥協点を探りながら、全員で作り上げたそれは、見事な精度で進捗しており、どこからも文句が出ていない。


「アンタを慕っている国民は、アンタが元首だから慕ってるわけじゃない。勿論、主としての資質は申し分ないから、そこを認めているのは事実だろうが――アンタの、本質的な心根を慕ってるやつらが殆どだろう」


「本質的な……心根?」


「――アンタは、俺たち奴隷を、”口を利く道具”として扱わない。最初から対等な、一人の人間として扱ってくれる。俺たちの人権を尊重して、俺たちの幸せを心から願ってくれる。その理想のためなら、アンタ自身が辛い思いをするくらいなんてことはない、とすら思っている。……俺のことをとやかく言えないくらい、よっぽどアンタも、自己犠牲精神は強い」


 呆れたようなため息とともに告げられた言葉に、驚いてロロの整った顔を見つめる。


「今、仮にゴーティスやクルサールが武力をもって攻めてきて、アンタの首を要求したとしたら、全員が最後の一人になるまで徹底抗戦するだろう。アンタの命令なんぞなくても、だ」


「!」


「どうせアンタは、自分の首一つで民が救われるなら、とか言って、すぐに降伏することはわかってる。だからこそ、たとえアンタをどっかに幽閉してでも、俺たちはアンタを守り、全員徹底抗戦する意思を固める。……アンタが優秀な元首だからじゃない。老若男女問わず、アンタの本質的な人間性に惚れてるから、皆、こんな僻地までついてきて、文句も言わず開拓作業をしてるんだ。アンタが語る未来を信じて、命を賭けられるんだ」


 ロロは、当たり前のことを口にしている、というような淡々とした口調で告げていく。

 じん……とミレニアは胸の奥が熱くなるのを感じた。


「心配なんかしなくても、アンタは既に上下関係のない対等な立場で、愛されている。民の中には、アンタを愛称で呼んで敬語すら使わない奴も多いだろう」


「で、でも――でも、彼らは、私の弱くて情けない所は知らないわ」


 ぎゅっとミレニアはロロのシャツを再び握り締め、うつむく。


「仮にお前が言う通り、対等な立場で今まで私を慕ってくれていた者だって、私が見た夢の内容や、下らない幻想や悩みを聞けば、きっと、幻滅するわ。こんなはずじゃなかったと言って、去っていくかもしれない――」


「……だったら、何なんだ?」


 ロロは、瞬きを速めて問いかける。


「お、お前は、誰にも愛されなくても、強く生きていけるからそう言えるのよ――!」


 絶句しながら、思わず反論すると、ロロは少し視線をさまよわせる。ミレニアの言葉を頭の中で考えているようだ。

 酒でぼんやりとしているであろう頭で、ミレニアの言葉を反芻したロロは、しばらくしてもう一度視線をミレニアに固定する。


「確かに俺は、誰かに愛してほしい、なんて思ったことは人生で一度もない。……勿論、アンタにも」


「ほ、ほら――!」


 自分で言っていて哀しくなる。

 ほんの少しの寂寥と共にぎゅっとシャツを握ると、ロロは無表情のまま続けた。


「関係ないだろう。――アンタが誰を愛したって、俺の気持ちは変わらないんだから」


「――――へ……?」

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