第71話 宴会の夜③

 誰もいなくなった部屋に二人きりで残され、ごくり、とミレニアは息を飲む。


(介抱――って言ったって……な、何をしたらいいのかしら……)


 かつて得た薬師としての知識から、人間がどうして酩酊状態に陥るのかのメカニズムは知っている。二日酔いを防ぐ酒の飲み方や、逆に悪酔いしてしまう食べ合わせ、二日酔いになってしまったときに症状を和らげる薬草や食事も知っている。

 明確な症状があれば、対処療法として光魔法で治癒することも出来るだろう。吐き気があるとか、頭痛があるとか、症状を訴えられれば、癒してやれる。酒の分解を促すために、水を与えてやることも出来るだろう。

 だが――何も訴えることなく、ただベッドで懇々と眠り続けている男を相手に、何をしたらよいと言うのか。


「と……とりあえず……こ、呼吸は……」


 実は、ミレニアは――泥酔した男という存在を、これほどまじまじと目にしたことがなかった。

 それもそのはずだ。貴族社会で酒を嗜むとなれば、大抵は上品な食事会や舞踏会といった社交場だ。

 そうした場にミレニアが顔を出していたのはギュンターが健在だったころ。つまり、幼女と言っても差し支えない年齢のころだ。出席するとしても、最初の少しの間だけで、大人たちが深酒をするような時間帯まで参加したことはない。

 家族との日常の食卓と言っても、まさか険悪な仲の兄らと共に食事をすることなどあるわけもなく、唯一の家族らしい交流があったギュンターも、ミレニアとの時間を過ごすときに酩酊することなどありはしない。食事や寝る前に軽く嗜み、少々良い気分になる程度だった。

 それ以外の者となれば従者たちだが、彼らと会うのは基本的に彼らが職務中のときだ。酒を飲んでいることなどあるはずがない。

 革命後に帝都を旅立ってから、数多くの奴隷たちと寝食を共にしたことで、酒に酔う男たちを見ることが増えたのは確かだが、酩酊状態になるほど酒に飲まれた者は、他の従者たちが気を回してミレニアに近づけないようにしていた。

 翌朝の二日酔いの対処や、健康診断時に酒との上手な付き合い方を教えてやることはあっても、現在進行形で酩酊している男を目の前にして二人きりにされたのは、人生で初めてなのだ。


「えっと……呼吸は、大丈夫そうね……体温も……うん、妙に冷えたりはしていない。ジルバの口ぶりだと、吐いたりはしていなさそうだから、単純に許容量を超えてしまって酔っ払って眠っているだけなのかしら……」


 とりあえず、命にかかわるような深刻な状況ではなさそうだと判断し、ほっとする。


「意識がないから、水を飲ませることは難しいし……アルコールの分解……酸素?呼吸をしやすくしてやればいいのかしら?」


 ぶつぶつと呟きながら、ベッドにぐったりと横たわっている青年が纏っているマントの留め金を外す。ロロは、建築現場に出るとき以外は、いつも護衛兵の装束を纏ってばかりだ。


(もう皇族どころか帝国すら無くなってしまったのだから、皇族護衛兵の装束こんなものに拘る必要もないでしょうに……全く、これ以外の服を持っていないのかしら?せっかくどんな服も着こなせる外見を持っているのに)


 下に着こんでいる黒いシャツも、一番上の釦までしっかりと止められているあたりに、彼の護衛兵としての矜持が現れているようだ。

 クス、と思わず笑みを漏らして、そっとミレニアは上から二つほどの釦を開けてやる。大人の男性の衣服を乱すという行為には少し気恥ずかしさが伴うが、これは介抱の一環なのだと自分に言い聞かせた。

 釦を開けて、空気を取り込みやすいように胸元を寛げてやると、チャリッ……と小さな音がして、見覚えのある宝飾が服の中から零れ落ちてくる。


「――ぁ……これ……」


(――まだ、身に着けていたのね)


 かつて『貴女の色』と青年が表現したそれは、いつか死出の旅時の伴にさせて欲しいと言って、彼が生まれて初めて自分の給金で、自分のために購入した翡翠の首飾りだった。

 鎖の部分だけが真新しいところを見ると、切れそうになるたびにこまめに鎖を付け替えては、毎日飽きもせず大切に身に着けてくれているのだろうと容易に想像ができて、ほっこりと胸が温かくなる。


「ふふ……」


 たったそれだけの事実が、彼がどれほどミレニアを愛し大切に想っているかを如実に語ってくれる。

 最近の悩みが酷く矮小なものにすら思えて、ミレニアはそっと穏やかに眠る青年を見た。


(そういえば……ロロの寝顔なんて、は、初めて、見るわ……!)


 眺めているうちにドキドキと勝手に走り出す心臓は止められない。

 当たり前だが、ロロと一緒に眠ったことなどない。唯一のチャンスだったと思われる革命の夜すら、ミレニアの方が早く寝てしまい、ロロが眠っているところは見られなかった。

 護衛兵という彼の役割を考えれば、例え深夜であっても主を前に眠りこけるなどという失態は犯さないだろう。まして、勤務態度がどの奴隷よりも勤勉と評判の男なのだ。昼間に居眠りをするようなこともない。

 ミレニアの寝顔はもう何百回と見られているというのに、ミレニアがロロの寝顔を見るのは、これが人生で初めてだった。


(し、知っていたけれど、とんでもなく長い睫毛ね……!こうして改めて間近で見ると、鼻もすごく高い……くっ……どうして男の癖にこんなにきれいな肌をしているの……!相変わらず、ムカつくくらい完璧な顔面ね……!)


 酒で血色がよくなり、赤らんでいる褐色の肌でも、間近で見るきめの細やかさには舌を巻く。肌の手入れなど何一つしていないだろうに、狡い男だ。

 ミレニアの前で無防備な寝顔を晒すなど、普段のロロからは考えられない。これ幸いと、ミレニアは全力で好みの顔面を凝視して目に焼き付ける。叶うなら、この寝顔を肖像にしてほしい。


「ふふ……いつもの美しい瞳が見られないのは残念だけれど――寝顔これも、いつまででも見ていられるわ」


 ベッドに肘をついて、上機嫌につぶやく。


(一体、どんな夢を見ているのかしらね……)


 穏やかな寝顔は、きっと悪い夢を見ていないのだろう。

 彼が見る悪夢は、きっと、魂をすり減らすような、地獄のような夢だ。――どうか、酒に酔って見る夢くらいは、幸せな夢であってほしい。

 そう願っていると、想いが届いたのか、その唇が、そっと動く。


「――姫――……」


「!」


 驚いて、パチリ、と目を瞬く。

 すー……と再び静かな寝息が響き、今のが彼の寝言だったと気づいて、ミレニアは頬を赤く染めた。

 酒に酔ったロロが見る夢は、どうやら自分が出て来る夢らしい。


「もう……お前は、本当に私のことが、大好きね」


 照れ隠しで、ついいつものように嘯くと――


「はい」


「!!?」


(えっっ!!!?『はい』!!?『はい』って、言ったの!!?今!!!?)


 思わず男の顔を二度見するも、美の神もびっくりなほど整った彫刻のような顔の美青年は、未だに固く瞼を閉じて、穏やかな寝息を立てている。

 どうやら、ミレニアの言葉に無意識で返事をしたようだ。


「ぅ……ふ、ふふふ……」


 これは――

 ――ちょっと、もう少し、見てみたい。


(やだ、駄目、ニヤニヤが止まらないわ……!)


 きっとこれは、彼の口から、普段は押し殺している直接的な想いを聞く、千載一遇のチャンスだ。

 もしかしたら、この無感動な男から、人生で初めてちゃんとした愛情表現をしてもらえるかもしれないという期待が、むくむくとミレニアの中で沸き起こる。


(そ、そうよ……思い返せば、私、一度だってロロにちゃんとした愛情表現をしてもらったことがないわ!直接的な言葉も、人生で初めての口付けだって、あのデビュタントの夜の、半分夢の中だった一回きりなんだから!)


 むむむ、とミレニアは唸る。

 昔読んだ恋愛小説では、初めての口づけは甘酸っぱい味がすると書いてあったのに、残念ながらミレニアが経験したのは、ふわっとしたマシュマロのような柔らかな何かが、幻みたいに触れた――ような気がする、という程度のあやふやなものだった。

 直前まで夢の世界にいたのだから当然と言えば当然なのだが、その感触の正体がわからず戸惑っているうちに、『お慕いしています』と囁かれた言葉で、脳みそはもっと混乱しきってしまった。

 正直、あの夜の出来事は衝撃的過ぎて忘れられないのは事実だが、脳みそが混乱しすぎていたせいで、口付けも告白も、何もかもの記憶があやふやだ。

 叶うなら――もう一回、ちゃんと、ミレニアが起きている状態で、彼の本当の気持ちを聞かせてほしい。


(お、想いが通じ合った口づけは、最高に幸せで、砂糖菓子のように甘い味がするって、小説には書いてあったもの……!きっとロロは、最後に観念して結婚してくれたとしても、素面のままじゃ愛を囁いてなんてくれないから――今日、ここで、ロロの飾らない本心を聞けたら、きっと、結婚式の口づけは、あの夜みたいに味も感触も訳が分からないうちに終わってしまうことなく、生涯の記憶に残る甘く素敵な口づけになるわ!)


 幼いころにそうした書物にあまり触れて来なかったせいか、心の中で少女趣味を爆発させながら、ミレニアはロロの額に手をかざす。


(光魔法は、対処療法としては万能といってもいい……ということは、きっと、眠気だけを吹き飛ばしてやれば――!)


 万が一を考えて、なるべく、本当に、心の底から、細心の注意を払って、蟻を摘まむような微弱な魔力を練り上げる。

 パァッと淡い光が掌から放たれると、すぅ――っと切れ長の瞳が微かに開き、見惚れる長い睫毛を押し上げて、うっとりとする紅玉が現れた。


「……姫……?」


 ドキン


「お……おはよう、ロロ。気分はどうかしら」


 寝起きで少し掠れた低い声に動揺した内心の緊張を悟られぬよう心掛けるも、声は強張っていた。


(ど、どうしよう……狙い通り、起きてはくれたけど、万が一酔いまで醒めてしまっていたら、もう二度とロロから気持ちを聞けない……)


 ぎゅっと祈るような気持ちで青年を見つめていると、けだるげな様子で数度、ロロが瞬きをする。


(ぐ……何よ、この色気は。殿方の寝起きってこんなに色っぽいものなの……!?)


 鼻血が出そうだ――などと考えていると、ロロは横たわった状態のまま、そっと腕を伸ばした。


「?」


 ぱちり、と目を瞬くが、ロロは気にした様子もなく、無造作に手を伸ばし――


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