第67話 目に見える愛④

 プツリ、と糸が切れた操り人形のように机に突っ伏し、固く瞳を閉じた主を見て、そっ……と掴んでいた左手を解放する。

 先ほどまで淡い蛍のような光を纏っていたその左手は、ミレニアが意識を失うのと同時に虚空へと光を霧散させてしまった。


「申し訳ありません。……御髪に触れます」


 返答がないのはわかっているが、声をかけてそっと漆黒の髪を束ねているリボンを引っ張り、解く。

 魔法をかけられた後にゆっくりと寝られるように、とレティが敢えて解きやすい髪形に結い上げたのだと報告を聞いていた。

 シュル……と小さな音と共に華やかな紐が解かれても、ミレニアは気づいた様子もなく、寝不足で少し蒼い寝顔を晒し、すー……と穏やかな寝息を響かせていた。

 はらり、と重力に従って髪が散り、突っ伏した机に力無く広がる。

 混じり気のない漆黒は、艶やかな柔らかさでミレニアの青ざめた寝顔を覆い隠した。

 それは、紅玉宮にいたころ――定められた自分の”死”をひたと見据えたまま、張りつめた顔で生きていたころの少女を彷彿とさせるものだった。


「…………」


 少し考えた後、ロロはそっとミレニアの髪に触れる。

 絹のような手触りのそれに触れる機会など、やり直した何十年という記憶の中でも数えるほどしかない。

 汚い奴隷の手で、女神の美しい髪に気安く触れることなど、決して許されないからだ。


「姫……」


 少女の眠りを妨げないように細心の注意を払いながら、そっと髪をかき上げるようにすると、うっすらと隈の浮かんだ整った横顔が現れる。

 微かに眉間に皺が寄っているのは、無理な体勢で寝ているせいなのか――いつか少女が言っていた、”夢見”の悪さのせいなのか。


『怖い――……』


 先ほど、眠りに落ちる瞬間にこぼれた言葉が耳の奥で蘇る。

 いつだって、弱音をこぼさない主が、震える声で吐露した言葉。

 ――眠っているときくらいしか本音をこぼしてくれないのは、何年経っても、何回やり直しても、変わらない。


「……失礼します」


 小さく呟いて、そっと少女の身体に手をかけ、かつての宮で何度もそうしたように、優しく小柄な体を抱き上げる。

 もはや、少女もそうして運ばれることに慣れてしまったのか、いつも、抱き上げるとほんの少し腕の中で身じろぎをして、寝やすい体勢を取っているようだ。

 深い寝息は変えぬままに、甘えるようにして顔を胸のあたりに摺り寄せる仕草は、普段の我儘を言わない少女からは想像できないほど幼く頼りない。

 我知らず心臓が駆け足になっていくのを感じながら、ロロは少女の身体を抱えて寝室へと歩き出す。

 途中、廊下で働いている従者たちとすれ違い、驚かれたが、彼らにも事情は周知されていたのだろう。ミレニアがロロの腕の中でぐっすりと眠っていることを認めると、皆一様にほっとした顔を見せていた。

 彼らの一人を捕まえて、ルーキスにミレニアの仕事を引き継ぐように伝言を残し、寝室の扉を開く。

 ――この地へ来てから、護衛任務に就くことも、寝落ちた彼女を運ぶこともなくなったせいで、この部屋の中に入るのは初めてだった。

 部屋の中に設置された寝台に近づくと、他の従者たちが気を利かせたのだろう。近くの暖炉には随分前に火が入れられていたようで室内はほんのり温かく、ロロがミレニアを寝かせやすいように既にシーツが捲られていて準備は万端だった。

 そっと華奢な身体を寝台へと降ろすと、ギッ……とスプリングが小さな音を立てる。


「……ん……」


 甘い声を上げて、身じろぎするミレニアに、そっと毛布を掛けてから、暖炉へと視線を遣り火の勢いを増す。

 触媒の有無を問わず炎を発現させられるロロの魔法は、薪の調整を考えずに済むため、この部屋にいる間中ずっと、ミレニア一人に集中することが出来るだろう。

 寝かせたときに、再び顔にかかった髪をそっと指で退ける。雪のように白い肌とのコントラストが目に焼き付くようだった。


「ゆっくりお休みください」


「ん……んん……」


 ぎゅ……とミレニアの形の良い眉が顰められ、苦悶の表情が浮かぶ。

 手近な椅子を枕元に持ってきて傍から覗き込めば、額には、少しずつ玉のような汗が滲み始めていた。


(一体、どんな夢を見ているのか――……)


 少し躊躇った後、そっと額に浮かんだ汗を手で拭ってやりながら、考える。

 ミレニアの不眠の理由は、間違いなくこの夢見の悪さだろう。

 そして――きっと、昨日のロロへの八つ当たりの根幹にある悩みも、この夢見が影響しているはずだ。


(だが、全く心当たりが無い……強い?家族?姫は、一体何を悩んでいらっしゃるんだ?)


 ルーキスに聞いても、ミレニアが何かに特別思い悩んでいる様子はないと言っていた。――それもそうだろう。従者の前で弱い一面を見せることを徹底的に嫌う女だ。

 ならば、ミレニアが置かれた状況と、彼女がこぼした言葉から、推察するしかない。

 ――この件に関しては、ロロを頼ることはない、とミレニアは確かに明言したのだから。


(俺では力にならないと思っているのか……?姫のためなら、どんなことでも――)


 ぐっと拳を握るも、その想いは届かない。

 少女の言葉にならないSOSを察して、助けになりたいとどれだけ手を伸ばしても、彼女は手を振り払って叫ぶのだ。


『優しくしないで!っ――どうせお前は、私を抱きしめてもくれないくせに!』


「――――……」


 あのとき、力いっぱい振り払われた己の手を見下ろす。

 大きな翡翠の瞳にうっすらと涙の膜を張って、吊り上げた眉で強くロロを詰った少女は、すぐに失言をしたと気づいて、瞳を揺らした。

 だが、あの言葉はきっと――彼女が普段、押し殺している胸の奥底にある、本音のような気がする。


「……抱きしめる、などと……」


 そんなことは、出来るはずがない。

 不安に駆られ、涙を浮かべたミレニアが、縋るように抱擁を求めたとして――ロロには、それに応えることは出来ない。

 少女が求めているのは、心からの安寧を与えてくれる、家族の抱擁で。

 ――ロロが与えられるのは、醜く歪んだ、虫けらの愛情でしかない。


「申し訳ありません……」

 

 ミレニアが眠っている時しか、感情を発露できないのは、ロロも同じだ。

 彼女の意識がない状態でしか、彼女を腕に抱くことも、口付けをすることも、想いを告げることも、何も出来ない。

 醜く穢れた奴隷に好かれているなどという事実を、清い少女に認識などさせたくない。

 何十年と積み重ねた執着に近い重たい愛情を――澱のようにどろどろとした、この醜い感情を、光輝く清廉潔白な世界で生きる少女にぶつけるなど、ロロには到底できなかった。


『いつもの冗談よ。そんな顔をしないで』


 そんなロロの葛藤に、気づいているのかいないのか。

 いつもの強気な様子を押し込め、寂しそうな顔で告げた言葉が過る。

 ――あんな顔を、させたいわけではない。

 だが、彼女が求めるものを、提供してやることも出来ない。

 

「ぅ……ぅぅ……」


 無力感に苛まれていると、ミレニアが強く眉根を寄せて、身じろぎしながらうなされ始めた。

 ハッとして額に浮かんだ汗を拭ってやるも、苦悶の表情は少しも和らぐことはない。


「お父様……」


(――お父様……?)


 食いしばった歯の隙間から漏らされた寝言に、疑問符を上げる。

 尊敬する大好きだった亡き父を懐かしむ夢なのか、と考えるが、それにしてはミレニアの表情がおかしい。


「違う……お願い……私……」


「姫……?」


 蒼い顔で、ぎゅっと毛布の端を握り締めながらミレニアは呻く。


「……て――」


「?」


 うわごとのように、何度も繰り返される何かの音を聞き取れず、ロロはそっと身体を屈めて耳を寄せる。


「誰でもいいから――”私”を、愛して――」


「――――……」


 それは、まるで少女が、決して誰にも聞かれないように細心の注意を払いながら――それでも口に出せずにはいられない、切なる願いのようだった。

 はらり……と、閉じられた瞼の淵から、漆黒の長い睫毛を濡らして一滴の涙が零れ落ちる。

 毎晩、こんな風に泣きながらうなされていたのだろうか。


「姫――……」


 躊躇いながら、そっと指を伸ばして、零れ落ちた聖なる雫を拭う。


(亡くなった父親の夢――家族の愛――宴会をきっかけにした人材の交流――男女の色恋――姫が悩んでいるのは、新しい国家で生まれる、家族の形……?)


 断片的な情報を繋ぎ合わせ、一つの仮説に辿り着く。

 幼い時から家族の愛情に飢え、誰よりも家族の温かさを欲し、実の兄らに死を望まれても最後まで彼らを憎むことは出来なかった少女の境遇を思い出す。


「お願い……ロロ――」


「――……」


 花弁が零れ落ちるように、再びもう一滴、透明な雫が頬を滑った。

 ぎゅっと拳を握り締め、ごくりと喉を鳴らす。

 ゆっくりと気持ちを落ち着かせるように深呼吸をした後、ロロはそっと手を伸ばし、ミレニアの手を取る。


「姫……」


 口からこぼれた声音は、酷く熱っぽい響きを伴った。

 だが――今なら、言える。

 ミレニアが眠っている時だけは――ロロも、感情を、吐露することが出来るから。


 取ったミレニアの手を引き寄せ、そっと指先に唇を落とす。


「――お慕いしております。心から」


 許される気持ちではないと、知っている。

 普段は、決して外に出さないと誓っている。

 だが、それでも――この気持ちが変わることは、生涯あり得ない。


「貴女は、愛されている。俺が生きている限り、いつだって、ずっと――誰よりも」


 少女に触れた唇が熱い。

 ドクドクと心臓が脈打ち、堪え切れない灼熱が暴れまわる。

 まるで、騎士が永遠の忠誠を誓うようにして、ロロは誰にも聞かれることのない心をそっと声に乗せたのだった。

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