第65話 目に見える愛②

 午前中の仕事を終え、昼食が出来上がるまでの中途半端な時間が空いたため、ミレニアは労働者たちが集う食堂へと足を延ばす。

 昨夜、少し降雪があったようだが、朝になると綺麗に晴れ渡っていた。気温は相変わらず肌を刺すような冷たさを誇っているが、もう冬の労働現場に慣れてしまった彼らにとっては温かい部類に入るらしい。


(今日は、魔法を使ったおかげで体調もすこぶるいいわ。午前中の仕事も捗ったし、労働者たちを少しでも労えるなら、なるべく顔を出したい……)


 高く昇った太陽に照らされ、少し解け始めている積雪の表面を歩くと、ざくざく、とブーツの裏が音を立てる。ここへ来てから、雪道を歩くコツもかなり習得した。

 食堂の扉を開けると、半分ほどの席が埋まっていた。昼休憩は、調理人たちの負担も鑑みて、現場ごとに時間制で順番に取るようにしているが、今の時間帯が一番混み合っているようだ。


「よぉ、ニア。どうしたんだ?」


「少し時間が空いたから、皆がどうしているのか気になって。今日も元気に働けているかしら?」


「おう、心配しなくても、どいつもこいつも元気が有り余ってやがるから安心しな!」


 テーブルの間を縫って、一人一人の顔を見ながら、雑談を交わして歩いていく姿は、男くさい集団の中にあっても、花から花へと蜜を集めて回る蝶のようだ。親しみやすい笑みを浮かべて、クスクスと上品な笑い声を上げながら、可憐な蝶は軽やかに食堂を歩き回る。

 ある一列の中盤あたりに差し掛かった時だった。


「お、その辺滑るから気を付けな」


「へ?」


 野太い声が忠告したのを聞くのと同時――つるっと踏み出した足が滑る感覚があった。

 誰かが入り口で落としきれなかった雪の塊が中途半端に溶けて水たまりになっていたせいだろう。全く意識を向けていなかったミレニアのブーツの底は、摩擦抵抗を無くした表面をするりと綺麗に滑り、少女の身体が後ろに傾く。


「きゃ――」


 思わず、小さな悲鳴を上げて尻餅をつきそうになった瞬間、トッ……と何かが倒れ込もうとする背中を支える。

 抜群の安定感を誇るそれに驚いて、思わず体重を預けたままのけぞるように上を見ると、見慣れた顔がいつも通りの涼しい顔でこちらを見下ろしていた。


「ロ――ロロ――!?」


「お気を付けください」


 一体、いつの間に背後にいたのか。気配も音も一切感じさせない護衛兵は、当たり前のような顔でいつもの定位置から逞しい右腕一本でミレニアの背中を軽く抱き留めるようにして支えてくれたらしかった。


「お……お前、どうして――!」


「……昼食を、取ろうと」


 すぃっと左下に視線を落としながら言って、そっとミレニアの身体を起こすのを助ける。


「食堂に来たら、姫のお姿が見えたので、後ろに控えておりました」


「いつから!?」


「…………」


 一瞬返答に困ったのか、押し黙ってしまった護衛兵の代わりに、笑いながら近くの男が答える。


「ハハッ、ニアが食堂に入ってきてすぐくらいじゃねぇか?」


「き……気づかなかったわ……」


「……また、仕事をするな云々と、叱られるかと思ったので」


「ぅ……叱る、なんて人聞きの悪いことを言わないで。お前が休まないのが悪いのよ」


 もごもごとミレニアは歯切れ悪く言い返す。

 今日は休日なのだからミレニアのことなど構わないでいい、と伝えたいところだが、彼が後ろに控えてくれていたことで、うっかり背中からスッ転びそうだったところを助けられたのは事実だ。


「言いつけの通り、午前中は、姫のお傍から離れておりました。休息は十分です。……午後からは、お傍に控える許可を頂けますか?」


「ぅ……」


「邪魔は、しません。視界にも入りません。物音も立てません。……どうか、お傍に」


 口下手なはずの彼の言葉は、端的だがその分、妙に圧が強い。

 紅い瞳に心配の色が覗いているのを感じ取り、ミレニアは困ったように眉を下げた。

 きっと、昨日のやり取りを未だに気にかけているのだろう。


「……本当に、ちゃんと休めたの?」


「はい」


「夜も、ゆっくり寝られた?」


「……はい」


 こくり、と頷く。

 勿論――嘘だった。

 部屋に戻ってベッドに横になったところで、今この瞬間、ミレニアが悪夢にうなされ泣いているのではと思えば、まんじりともせず夜を過ごした。

 ロロには、何十回と同じ時間軸を過ごした記憶がある。

 兄弟たちに陥れられ、<贄>として無残な死を望まれていた一年間――執務室で寝落ちた少女を部屋に運ぶとき、彼女がうなされ、涙を流しながら夢の中で助けを求めるのを、何度も見た。

 起きているときは決して零さぬ弱音を、夢の中で吐露しては恐怖に震えて泣いていた少女を抱きしめ、立ち尽くした夜は、昨日のことのように覚えている。

 どれだけ傍にいても、普段は助けを求めてもらえない無力感と――夢の中で助けを求める先として己の名を呼んでくれた少女への、堪え切れない愛しさと。


「……そう。それなら、良いわ。好きになさい」


 ミレニアは苦笑に近い笑みで許可を出す。

 付き合いの長いロロの嘘に気付かないわけではないだろうが、ここで問答をしても平行線だと悟ったのだろう。


(――ロロは、”強い”から)


 彼は、自分がこうだと決めたことを決して揺るがせはしない。

 そのためには睡眠どころか命すら削ってしまいかねない。――誰にも頼らず、己の信念を達成するまで、強く強く歩み続けられる人間だから。


「心配しなくても、昨夜は私もゆっくり寝られたのよ。お前に話を聞いてもらったせいかしら。スッキリしたようだわ」


「……はい」


 隈の消えた顔で晴れやかに笑うミレニアに、ロロはいつも通りの無表情で答える。

 ロロもまた――ミレニアの嘘に気付かぬわけではないだろう。

 だが、それを暴く無粋をするような男でもなかった。

 その後も、蝶のように食堂を渡るミレニアの後ろに影のように付き従いながら、ロロはぼんやりと今朝のルーキスの言葉を思い出していた。


 ◆◆◆


 昼食後、すぐに執務室に舞い戻ったミレニアは、光魔法で一時疲労を忘れたせいか、いつも以上に真剣な顔で仕事をこなす。

 しばらくして、ようやく一つの仕事を終えたらしいミレニアは、手元に書き上げた書類をしげしげと眺めて確認した後、満足げに頷き、手元のベルを鳴らす。


「喉が渇いてしまったわ。お茶を用意してくれるかしら」


 ほどなくして現れた侍女に申し付けると、呼ばれた女は静かに頭を下げる。顔を上げたときに、チラリとロロの方を視線で伺うので、ミレニアの死角からロロは微かに頷いて合図を送った。

 ――魔法を練り込んだ茶を用意させる指示だ。


「ふー……随分と集中出来たわ。これで、宴会の前半戦に関しては問題ないでしょう。今日中に、後半の宴会に関しても決め切ってしまわねば……」


 大きく息を吐いてふかふかの背もたれに身体を預け、ミレニアは目頭のあたりを揉みながらつぶやく。

 どうやら、朝にかけた疲労回復の魔法の効力が切れかけているらしい。


(好都合、だな)


 茶に練り込む光魔法は、なるべく強くかけろと指示をしてある。一瞬で寝落ちないと、下手をすればミレニアが自身で眠気解消の魔法をかけてしまう。少し強めにかけるくらいでちょうどよいはずだ。

 この計画の一番の障害は、何と言ってもミレニア自身の魔法による覚醒だ。わずかでも疑念を持たれれば、その可能性は高くなる。

 疲労回復の魔法の効果が切れかけている今なら、睡眠の魔法の前兆で眠気が襲ってきても、疲労のせいかもしれないと誤解されやすくなるだろう。すぐに魔法で対処をするという手には出ないはずだ。


「お前も、宴会には出てくれるのでしょう?」


「……必要なものであれば」


「長たちと、商人と職人たちの宴会には出て頂戴。女たちの宴会は――会の進行を見て、必要そうなら出て行ってもらうけれど、合図がなければ裏方に徹していて」


「はい」


「一番最初は商人たちの宴会だから。一番最初の、一番重要な会だから、お前はあまり宴席など興味がないと思うけれど、仕事と割り切って参加してくれると嬉しいわ」


「それは、構いませんが……俺のような宴席に水を差しかねない男が同席することで、相手に悪印象を与えないでしょうか……」


 ロロは、決して口が上手いわけではなく、ノリが良いわけでもない。

 職人や長たちの宴会のコンテンツは、多少真面目なものも取り揃えているようだが、商人たちの宴会に関しては完全に接待に近しい飲み会となる予定だった。ある程度の真面目な話は、定期的にこのエリアに彼らが訪れるときに交わされているため、徹底的に関係性を築くことに振り切るのだろう。

 商人の目利きでも満足するような極上の酒や料理を用意して、女たちの煌びやかな舞を披露すると聞いている。

 酒も食事も女も、何一つ興味を示さないロロが、そんな席で相手を喜ばせる話の一つも披露できるとは思えない。ただ、黙って話を聞くくらいしかできないだろう。


「大丈夫よ。ほら、半年ほど前のブリアの騒ぎを覚えているでしょう。莫大な経済効果をもたらしたと言われているあの騒ぎを、ここの商人たちも聞き及んでいて、すごく興味を持っているらしいの。最高級の物品を流行の絶妙な流れを読んで取り扱い、頭を使って貪欲に儲けを出す彼らが、見世物なんていう無形の商材であれほどのもうけを出したカラクリが気になっているそうよ。お前に直接話を聞いてみたいらしいわ」


「俺は、ただ、いつも通り戦っただけです。儲けのからくりを造り出したのは、姫であり――」


「――というのは、表向きの理由でね」


 困惑したように口を開いた従者を遮り、ミレニアは肩をすくめる。


「商人と、職人と、長たち。――招待状を送った彼らから、軒並み同じ文言で、お前を参加させてほしいと依頼があったのよ」


「……?」


 怪訝そうな顔でロロは主を見る。

 ミレニアは困った顔で言葉を続けた。


「曰く――娘たちが未だに熱を上げているから、どんな男か見せてくれ、ですって」


 言葉を聞いた途端、ぎゅっとロロの眉間に深いしわが刻まれる。

 ――明らかな、不機嫌を示す皺だった。


「そんな顔をしないで。招待状の中でそんな風に依頼されたら、むやみに突っぱねるわけにはいかないわ」


「俺に、何を期待しているのですか……?相手の前で、相手の娘をこき下ろせと……?」


 ぐぐぐ、と眉間にさらに皺が寄る。

 ロロにとって、ミレニア以外の”女”など、それが誰であっても、等しく面倒な存在以外の何物でもない。「お前なんぞに娘はやらん」と言われても、頼まれたって欲しくないと吐き捨てるだけだ。仮に「ぜひうちの娘を」などと薦められても、絶対零度の態度で突っぱねる。


「そうはいっていないわ。ただ――勿論、いい顔をしろだなんてことも言わない。私が目指すのは、自由恋愛の国だもの。お前が嫌だと思っているのに、結婚やお付き合いといったものを強要することはないわ」


「では、不機嫌を全開にして断っても?」


「全開にはしないで。冷静に断りなさい」


 極端すぎる対応を述べてくる従者に頭を抱えて、ミレニアはフルフルと顔を振る。


「当たり障りなく断ればいいのよ。そうした声をもらうことはありがたいことだけれど、互いを良く知らない相手と結婚することは出来ない、とか――」


 そして、チラリ、と悪戯っぽい視線を送る。


「――自分には既に結婚を誓った相手がいる、とか」


「――――――……」


 滅多に仕事をしない表情筋が、これ以上なく苦く歪められた。

 ミレニアと結婚し、家庭を築くなど御免だ、と明確に読み取れる表情だった。


(やっぱり、お前はそういう顔をするわよね)


 ふ、とミレニアは笑みを刻む。

 苦笑のような――少し、寂しそうな、複雑な笑みだった。


「いつもの冗談よ。そんな顔をしないで。――ただ、嘘を言うとややこしくなるから、必ず誠実に断りなさい」


 ふ、と視線をロロから外すようにして手元の書類に戻し、ミレニアは指示を出す。

 いつもならいくらでもこのネタで彼を揶揄う気力があるが、最近の自分には、どうやらそんな心の余裕はないらしい。


「商人たちの宴は、開催が最初だし、彼らは人脈が広いから……お前が上手く断りさえすれば、宴会後に集落に戻り、すぐに噂を広めてくれるでしょう。第二回、第三回の職人や長たちの宴会では、初回ほど面倒なやり取りは減ると思うわ。勿論、最後の女たちの宴会でも、ね。……だから、最初の宴だけ、お前には仕事と割り切って頑張ってほしいのよ」


 机の上の書類の束を手に取り、トントンと机の上で揃えながら苦笑して告げる。


「この宴会が上手くいけば、今は物資の交流がメインの彼らと、人材の交流も叶えていきたいと思っているわ。仕事の話で盛り上がるのはもちろん、男女の色恋だって始まればいいなと思っているのよ。そうやって、人の交流が生まれて、経済が活性化して、コミュニティや家族が出来て――」


 ふ、とミレニアは言葉を切る。


「……姫……?」


「……皆が幸せに、なってくれればいいと、思うのよ」


 ぽつり……と零れ落ちるようにつぶやかれた言葉は、明るい未来に向けた希望ではなく、今にも押しつぶされそうな不安が満ち満ちているようだった。

 そこにあるのは、今朝、彼女の側近であるルーキスが漏らした”強い主”という表現からはかけ離れているように思える姿。


「ひ――」


 コンコン

 少し迷った末に声を掛けようとしたタイミングで、扉が叩かれる。どうやら、魔法が練り込まれた茶の準備が整ったようだ。

 ミレニアの許可で侍女が入ってきて茶の準備を始めると、言葉をかけるタイミングを失ってしまう。

 静かに、歳若い侍女が緊張した様子で茶の準備を進めていくのを眺めていると、ミレニアがふと口を開く。


「……どうしたの?お前、体調でも悪いのかしら。なんだか動きがぎこちないわ」

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