第64話 目に見える愛①
今朝の支度に訪れた侍女は、レティだった。
いつもと何も変わらない様子で寝起きの髪を櫛で梳かす菫色の瞳の少女に、ミレニアは鏡越しに語りかける。
「ねぇレティ」
「はい」
「朝――何か、変わったことはなかった?」
「変わったこと……です、か……?」
主に問われている意味が分からないのか、困惑したような声が返ってくる。
その様子に、本当に心当たりが無いのだと悟って、ミレニアは緩く首を振った。
「大丈夫。何もないならいいのよ。変なことを聞いてごめんなさい」
「は、はぁ……」
あまり納得してはいないようだが、優秀な侍女はそれ以上突っ込んで事情を聴いて来ない。
ほっとミレニアは隠れて息を吐いて、鏡の中の己へと視線を戻す。
(ロロのことだから、早起きをして――というか、私が寝た後の夜中でも――部屋の前で控えているのでは、と思ったけれど……どうやら杞憂だったみたいね。さすがに、あそこまではっきり拒絶されれば、諦めたのかしら)
どこまでも過保護で心配性な従者の顔を思い浮かべれば、頬は苦み走った笑みを勝手に作る。
鏡の中の自分は、白い肌に目立つ隈を抱えていて、今日もまたしっかりと眠れなかったことが丸わかりだ。
(あとで、魔法をかけて誤魔化そうかしら……流石に、ロロにこれ以上心配をかけるわけにもいかないものね)
あの男は、ミレニアのことが気がかりで堪らなくなると、本当に、急に信じられないくらいのポンコツになる。
明日には再び建築現場に戻るのだ。危険と隣り合わせの現場で注意散漫にさせるくらいならば、例え空元気だとしても魔法で顔色を良く見せて、安心させるように振舞った方がよいだろう。
(昨日、八つ当たりをさせてもらった……それだけで、十分、ロロには助けてもらったわ)
現実的に何か問題が解決したわけではないけれど、改めて己の弱い心が浮き彫りになって、真摯に問題と向き合う覚悟を決めるきっかけになった。
そう思うことにして、ミレニアは静かに瞳を閉じて、ぱぁっ……と魔力を解き放ち、連日の睡眠不足でたまった疲労を束の間回復させるのだった。
◆◆◆
一方、ミレニアの予測を裏切ったロロは、日の出とともに目当ての部屋を訪れ、扉をノックしていた。
『チッ……クソが。誰だ、こんな早朝に……』
扉の向こうから異国のスラングが聞こえた後、少ししてからいつも通りの張り付けたような笑顔の男が現れた。
「おや、騎士殿。どうされましたか?」
「お前に尋ねたいことがあって来た」
北の言語を理解するようになってからは、もはや二重人格にしか思えないルーキスの性格には何も触れずに、ロロは自分の用件を切り出す。
「こんな朝早くに……?時計が読めないほど学がないわけでもないでしょうに」
ふぁ、と面倒くさそうに欠伸をかみ殺しながら皮肉を言うルーキスには構わず、ロロは口を開く。
「姫が今抱えている案件は何だ」
「はぃ……?」
「今、姫が抱え、頭を悩ませている案件は何だ、と聞いている」
「何――と言われましても」
朝一で何を聞かれるかと思えば、とても緊急とは思えない要件で思わず拍子抜けする。
「いかんせん、やることは山積みですからね。同時進行でいくつも進めているところです。何、と聞かれても一つではないので、なんとも」
「では、心当たりを全て教えろ」
「はぁ……?」
ひくり、とルーキスの眉が少し不機嫌そうに跳ね上がる。どうやら、あまり朝が強いタイプではないらしい。
いつもの糸目を微かに開いて、不愉快な声で言葉を紡ぐ。
「正直、ニアのタスク処理の能力もスピードも、とても人間業とは思えません。貴重な休日まで主の力になりたいという健気な姿勢は感心しますが、貴方が手助けできるようなことは何も――」
「違う。――逆だ。休ませたい」
ぱちり
ルーキスの細い目が見開き、数度瞬かれる。
ロロは視線を左下に落とし、拙い言葉を紡いで、考えを口にする。
「姫の体調が芳しくない。特に、寝不足が深刻だ。……姫は、普段からハードワークを物ともしない働き方をするが、本人の体力もまた、驚くほど少ない。普段から運動など全くしない方だから、デスクワークしかしていなくても、長時間、それも連日働いていると、ある日突然プツリと糸が切れたように倒れかねない」
「ふむ……まぁ、確かに、あの線の細さと根の詰め方は、少々危ういと思い始めていたところです」
毎日、最もミレニアと顔を合わせているのはルーキスだろう。さすがに、少女の体調は気がかりだったようだ。
不機嫌を少しひっこめて、顎に手を当てて真面目に何かを考え始める。
ロロは焦燥感に駆られるようにぐっと拳を握り締め、言葉を重ねた。
「今日一日――せめて、半日、数刻でもいい。ゆっくりと眠って体調を回復させる余裕はあるか」
「そうですね……今、ニアが一番頭を悩ませているのは、すぐそこに迫った北の原住民たちとの連続する宴会についてでしょうが、だいぶ形になっていますし、何とかなるでしょう。彼女は完璧主義者なので、常に最良を求めて自分で自分を追い詰めているだけです。現時点で既に十分すぎるクオリティを提供できる素地はありますし、今日一日くらい、私が巻き取って何とかすることも出来るでしょうね。……本人は嫌がると思いますが」
「そうか。……では、そのように」
用件だけを言って、早々に踵を返そうとしたロロに呆れて、ルーキスは声をかける。
「あのプライドの高いオヒメサマを、どうやって説得するおつもりで?」
「何としても眠っていただく。寝室に閉じ込めてでも――」
「そんなもの、寝室でこっそり書類を読み込むのがオチですよ。貴方はあのワーカホリックを嘗めている」
やれやれ、と首を振ってルーキスは嘆息する。
「何でも自分でやらないと気が済まない性分なんでしょう。何より、根っからの皇族気質です。常に気を張り続けていて、従者に心配をかけるような素振りは一切見せない。いつだって迷うことなく正しい道を選び取り、あの華奢な身体が信じられぬくらい、小さな背中に膨大な民の期待を背負って力強く人々を導き歩く、”強い主”です。……主としてはこれ以上ないくらいに最良の方ですが、まぁ、女としての可愛げは無いですね」
飄々と嘯くルーキスに、ロロの視線が鋭くなり、不機嫌が露わになる。
紅い瞳から無言の非難を浴びて、軽く肩をすくめながら嘆息し、言葉を続ける。
「とはいえ、ついうっかり忘れそうになりますが、まぁ、まだ十六歳ですからね。確かに、私も彼女の有能さに甘えすぎていたような気がします。相手がエーリク坊ちゃんだったら、三か月前には無理矢理簀巻きにして寝台に転がしていましたね。今日一日くらい、無理矢理休ませる案には賛成です。……ですが、説得したり、寝室に閉じ込めるごときではぬるい。あの手の完璧主義者には、有無を言わさず無理矢理に休ませねば」
ぎゅっとロロの眉根が寄る。
それを見て、ルーキスの瞳が愉快そうに輝いた。
「お望みとあらば、あの高慢なオヒメサマに、私の芸術的かつ最高に興奮する緊縛技術を――」
「ぶっ殺すぞ」
何一つ包み隠さない怒気を容赦なくぶつけて変態の言葉を黙らせる。
簀巻きにして寝台に転がしてでも休息を取らせたい気持ちは賛成だが、世界一の宝に等しいミレニアをそのように扱うのは、ロロの奴隷根性が決して許さない。
ましてこの男に縛りを任せたが最後、自由を奪う以外の、不埒な目的での緊縛行為が行われかねない。
女神たるミレニアを相手に、そんな行為で下賤な男が性的興奮を満たそうとするなど、万死に値する重罪だ。ルーキスが縄を手にミレニアに一歩でも近づいた時点で、専属護衛として問答無用で首を斬り落とす。
変態の思考に付き合わない解決策を少し考えた後、ロロは思い付きを口に出した。
「……魔法で眠らせるのはどうだ」
「光魔法、ですか?……彼女自身も相当な光魔法の使い手と聞きます。面と向かって魔力を放てば、気づかれて防がれてしまうのでは?」
「魔法は、物体にもかけられる。……儀式のために、水にだってかけられたんだ。姫が仕事中に飲んでいる茶にだってかけられるだろう」
「なるほど、良い案です。それなら、警戒されることなく彼女に魔法効力を発揮させられそうですね。理由を話せば、彼女の体調を心配する従者も多いでしょうから、侍女たちも快く協力してくれるでしょう」
「執務室で寝落ちたら、俺が寝室まで運ぶ。そのまま、魔法が解けるまで眠らせればいいだろう」
「……まぁ、良いでしょう。野暮なことは言いません」
フッ、と吐息で笑ってもの言いたげな視線をよこされるが、ロロは無表情で跳ね返す。
「朝は、侍女や光魔法使いに事情を説明して準備する必要があるだろう。午後になったらすぐに姫を眠らせられるように手配しておけ」
「かしこまりましたよ、騎士殿」
やれやれ、と呆れた声が聞こえた気がしたが、気にせずロロは踵を返す。
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