第63話 乗り越えるべき壁⑥
風呂から出て来ると、予想した通り、入って行った時の位置から微動だにしていなかったらしいロロは、再び何も言わずに後ろをついて行く。
何一つ言葉を発しない男に、周囲の人間は訝しんでいたようだが、ミレニアはいつものことだと気にせず自分の部屋へと足を向けた。
部屋の中に入ると、ロロは何も言わず礼をして、再び扉の外に控える。
侍女がミレニアの寝支度を手伝い終え、下がるように命じると、出ていくときにビクッと大きく肩を跳ねさせて驚いていた。
――まだ、いるのだろう。
「はぁ……」
侍女が出て行った後も、何かを話しかけるでも、扉を叩くでもない男に呆れたため息をついて、ミレニアはするりと寝台から身体を滑らせた。
夜に書類を読むとき、身体を冷やさぬようにと枕元に用意された厚手のショールを取って、ぐるりと体に巻き付け、扉へ近づく。
キィ……と音を立てて戸を開けると、ロロが廊下ですぐに礼を取った。
「……お前、いつまでそこにいるつもり?」
「いつまででも――」
「やめなさい。こんな寒い廊下に佇んで、風邪でも引いたらどうするの」
「温石は持っています。俺はそれを無限に温められ――」
「もう、そういう問題ではないでしょう」
呆れかえって、ため息すら出ない。
額に手を当てて、ふるふると頭を振りながら告げる。
「私、もう寝るわ。今夜、お前を呼ぶことはないから、下がりなさい」
すると、ロロはほんの少し紅い瞳を揺らした。
「ですが――夢見が悪いと」
「だから?」
「……お傍におります」
「お前ね…………」
呆れて、今度は特大のため息を吐く。
ロロは、ぎゅっと拳を握り締めた後、躊躇うようにゆっくりと口を開いた。
「昔の――夢を、ご覧になるとおっしゃいました」
「え?あぁ……まぁ、そうね」
先ほど八つ当たりをしてしまったことが気まずくて、視線を逸らして肯定すると、ロロはぐっと掌を握る。
「……大丈夫です」
「え?」
「どんなことがあっても、必ず、御身をお守りします。貴女はもう――貴女の命も、貴女の大切な者の命も、二度と理不尽に奪われることはない。……俺が、必ず命を賭して守ると、誓います」
「――――」
まっすぐな誓いの言葉に、思わずロロを見上げる。
心配そうな光が宿った、紅玉の瞳がミレニアを見ていた。
(あぁ――そういうこと……ロロにとって、”眠れなくなるほどの悪夢”と言えば、それなのね……)
彼の紅玉の奥に渦巻く仄かな闇を感じ取り、ミレニアはそっと胸に手を当てる。
きっと、彼の脳裏には――何十回と繰り返した、地獄のような悪夢の日々があるのだろう。
「”強い”お前でも、苦手なものはあるのね」
「姫……?」
きっと、ロロにとって、あの日々を夢に見ることは、耐えがたい苦痛なのだろう。
だからこそ、ミレニアのことをこんなにも心配した顔つきで覗き込んでくる。
「……大丈夫。革命の日の夢を見るわけではないわ。自分が殺される夢を見たわけでもないから、安心して」
苦笑して告げると、ほっとロロが安堵に少しだけ力を抜くのがわかる。
ミレニアは、ロロと違って、彼が過ごしたと言う無数の時間軸の記憶がない。しかし、魂に刻まれた記憶は存在していると言う。
ロロは、その、魂に刻まれた悪夢が、何かの折に思い出されているのではないかと案じたのだろう。
(そう言えば――最近、あまり、この瞳を見つめていないわ)
ふと、そんなどうでもいいことを考える。
夜の闇に沈みかけた屋内でも、吸い込まれそうなほど美しい、宝石のような紅い瞳は、出逢ったときと何一つ変わらずミレニアの心を惹きつけた。
「見るのは、もっとずっと昔の夢よ。ずっとずっと――お前と出逢う、ずっと前」
「!」
愛に飢えた幼子が、守るべき民たるロロ達奴隷を、”口を利く道具”だと蔑む夢――とは、口にする勇気が出なくて、それだけにとどめた。
ぎゅっ……と胸元を握り締め、ミレニアはロロを見る。
いつもの紅玉が、こちらをじっと見ていた。
「今なら――お前が、”家族の愛”がわからないからと、私の求婚を断った理由が、何となくわかるわ」
「姫……?」
「未知のものを理解し、体現しろ、と言われるのは――怖い、ものなのね」
ふ……と漏れた吐息は、力無い笑みと共に消える。
寒気に触れて、白く靄がかかったそれを見て、ミレニアは肩に掛けたショールを引き上げ、ロロに告げた。
「心配しなくても大丈夫よ。これは、私が独りで乗り越えねばならないこと。そもそも、お前に相談してどうこうなる問題でもないのだもの。――先ほどは、不安に駆られるあまり、お前に八つ当たりをしてしまってごめんなさい」
「そのようなことは――!」
「でも、本当に大丈夫だから。……だから、今日はもう、下がりなさい」
ミレニアの顔に浮かぶのは、有無を言わせぬ女帝の笑顔。
これ以上は踏み込んでくるな、という明確な意思表示に他ならなかった。
「……八つ当たりなどと、思っておりません」
「ロロ」
「仮にそうだとしても、気にせずいくらでも、気が済むまで好きに振舞えばいい。――そのために、俺はここにいる」
「ルロシーク」
なおも言葉を重ねるロロに、ミレニアの静かな声が飛ぶ。
ぐっと悔しそうに歯を噛みしめた後、ロロは静かに礼を取る。
「約束してください。――必ず、本当に苦しくて堪らなくなった時は、助けを求めると」
「えぇ、わかったわ。……ふふ。安心なさい。お前を差し置いて、お前以外の誰かを先に頼ったりはしないから」
いつかのやり取りを思い出したのか、茶化すような声が笑う。
「さぁ、早く帰りなさい。よく休むのよ?……おやすみなさい、ロロ」
「はい。お休みなさいませ」
ロロは、もう一度深く頭を下げた後、そっと踵を返す。
少女が、ロロが帰るまで扉の前から動こうとしなかったからだ。
結局、何一つ少女の力になれなかった無力感を噛みしめ、ロロは静かに夜中の廊下を自室へと戻っていった。
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