第62話 乗り越えるべき壁⑤

 パタン……と扉が閉まると、部屋は静寂に包まれた。


「……馬鹿ね……私……」


 ギシ、と背もたれに凭れかかりながら、誰もいなくなった部屋で、ミレニアは天を仰いで瞳を閉じる。

 重く息苦しい後悔の念が、部屋中に余すことなく充満しているようだった。


(余裕がなさすぎる……あんなの、ロロからしたら、堪ったものではないでしょう)


 ぎゅっと目頭に力を入れて、押し寄せる後悔をやり過ごす。

 心に余裕がある時ならば、「お前は本当に私が大好きね」と揶揄することだって出来る。

 どれほど求婚を断られようが、他の男との結婚を望まれようが、ロロの紅い瞳を見れば、すぐに彼の本心がわかる。

 寡黙で余計なことは一切言わない彼の口が仕事をしない分、あの瞳はとても雄弁だ。

 ミレニアを見る視線一つで、ロロがこれ以上なくミレニアを愛していることはすぐにわかる。

 そうでなくとも、不意に零れ落ちた言の葉や、ふとした瞬間の仕草や行動で、彼が口では何と言おうとも、ミレニアを心から愛していることは察することが出来た。

 それだけで、十分だと思っていた――のに。


「全く……どれほど子供なの、私は……」


 笑い飛ばそうと思った声は、意に反して弱々しく震えて消えた。唇まで震えてしまい、ぎゅっと歯で下唇を噛みしめる。

 例え天地がひっくり返ったって、ロロが情熱的に愛を囁くことなどないとわかっているし、緊急時でもなければ身体に触れることすら忌避するような男なのだ。

 きっとそれは、どこまで言っても変わらない彼の本質。

 仮にロロがいつか根負けしてミレニアと結婚したとしても、ハグもキスも、彼に求めるのは酷だろう。


(それなのに、私は自分の弱さと向き合うのが怖くて、ロロに縋った……応えてくれるはずなど、あるわけないと知っているくせに――)


 ふるっ……と小さく瞼が震える。漆黒の長い睫毛が、頼りなげに震えた。

 心に余裕が無くなった瞬間に顔を出す、とっくの昔に決別したと思っていたはずの幼く弱い自分。

 家族の愛に飢えて、必死で手を伸ばして、藻掻いて、努力して、背伸びして――どれほど求めても、誰にも応えてもらえない寂寥に呆然と立ち尽くす、か弱く頼りない幼子の姿。


「十六にもなって……何を……」


 旧帝国であれば、既に嫁いで子供を身籠っていてもおかしくない年齢だ。

 そんな歳になって、一体何を求めているのか。自分自身が可笑しくて呆れる。


(望んでも仕方のないことを望むことほど、愚かなことはない……それよりも、手に入らない前提で、どう障害を乗り越えていくかを考える方が、よっぽど効率的……)


 頭ではわかっている。

 どれほど夢に見ようと、『幼いミレニア』が望んだ”家族の愛”はもう、彼女が望んだ形では決して手に入らない。


「ふ……誰よりも私を”主”として見ようとする男よ……?望む方が、馬鹿げている……」


 仮にこれから先、ミレニアが再び手にしていた全てを失ったとしても、そんな”ただのミレニア”を、ロロは『至上の主』と呼ぶことだろう。

 ミレニアが、ミレニアであればいい。彼は、例え世界がどうなっていても、ミレニアを敬い、特別視し、存在を全肯定してくれる。

 だが――そんな彼が求めているのは、どこまで行っても主従の関係だ。

 何も持たなくなったミレニアのことすら主と頂き、この世の全てを敵に回しても、ただ一人、死ぬまでミレニアの傍を離れぬと誓う。

 これほど『騎士』の称号が似合う男はいないだろう。

 そんな彼に――『幼いミレニア』が望んだ、誰の目にも明らかな愛情表現を強いることは出来ない。

 ミレニアが求める行為は、互いが対等な立場で愛し愛される関係で発露されるものであり――それは、ただ、ミレニアの脆弱な心が、勝手に「自分は確かに愛されている」という実感を欲した結果でしかないのだから。


「だから……私は……」


 強く、あらねばならない。

 答えがない道を力強く歩み、後ろに続く民を輝かしい光の差す未来へと引き連れて行かねばならない。

 ――望んでも手に入らぬものを切望し、堪え切れずに手を伸ばしてみた結果、拒絶されて傷ついている暇などないのだ。


「大丈夫……想定の、範囲内……私は、大丈夫……大丈夫よ、ミレニア……」


 ぎゅっと首飾りを握り締め、震える声で何度も唱える。

 ミレニアの八つ当たりを受けて、苦悶に顔を歪めてそっと視線を外したロロの顔が浮かんで、ぎゅぅっとさらに力を籠めると、掌に冷たい飾りが食い込んで、小さな痛みを発した。

 大丈夫。

 ――大丈夫。

 あれは、いつもの彼の、隷属意識から来る反応。

 決して――――決して、嫌われたわけじゃない。


 ――誰にも愛されていないわけじゃ、ない――


 ◆◆◆


 しばらくすると、侍女の一人が風呂の時間だと呼びに来た。

 ロロが退室してしまってからどれくらいの時間が経ったかはわからないが、思ったよりも仕事は進んでいない。どうやら、あまり集中出来ていないようだ。

 ミレニアにしては珍しく、呼ばれたその場で作業を切り上げ、侍女に続いて部屋を出て――


「ひゃっ!!?」


 扉を出たすぐ脇のところに、音も気配もなくぬっと直立で控えていた長身に驚き、思わずのけぞるようにして声を上げる。


「ロ――ロロ……!?」


「はい」


「お、お前――か、帰ったのではなかったの!?」


 驚愕のあまり、バクバクと心臓が駆けているのをなだめながら尋ねる。

 あまりに驚きすぎて、先ほどのやり取りの気まずさなど忘れて問いかけてしまった。

 ロロは、すっ……と瞳を左斜めのいつもの位置へと伏せる。


「……もしも呼ばれたら、いつでもお傍に行けるように、と」


「へっ……?」


 ぱちぱち、と翡翠の瞳が何度か瞬かれる。

 そう言えば――退室する間際、そんなことを言っていたかもしれない。


「そ……そう……でも、もう大丈夫よ。今日は下がっていいわ」


 どうやら、ミレニアが必死に頭を切り替えて、仕事に没頭して忘れようと取り組んでいた少なくない時間を、この寒い廊下で直立不動のまま黙って控えていたらしい。

 コミュニケーション能力に難があることは知っていたが、さすがに前後の文脈で部屋に帰れという意味だと分かるだろう、と思ったのは買いかぶり過ぎだったようだ。

 今度は明確に指示を出し、侍女を伴って風呂場へ向かおうとすると――


「……お供しても……?」


「へ!?」


「外で、控えております」


「なっ……!?」


 二の句を告げず、思わずぽかん、と逞しい長身を見上げてしまう。

 さすがに、今度はミレニアの言葉の意図を汲めなかったとは思えない。

 まじまじと見上げられたロロは、何かを考えるように視線を伏せて、そっと口を開く。


「決して貴女の日常の邪魔はしません。どうか、お傍に控える許可をください」


「お前……何を馬鹿なことを言って――」


「――俺は」


 怪訝な顔で拒否しようとしたミレニアを遮り、ロロは呻くように声を漏らす。


「俺は、貴女に、あんな顔で立ち去れと言われて――貴女のお傍を、離れることは出来ません」


「――――……」


「あれから、何度も考えてみましたが――やはり、貴女が何をおっしゃっていたのか、俺にはわかりかねます」


 微かに綺麗な顔が歪んで、辛そうな表情が浮かぶ。

 主が、何かに追い詰められ、普段と異なる様子だったことは誰の目にも明らかだった。

 必死にぶつけられた言葉を一つ一つ思い出し、なぜ彼女がそんな状態に陥ってしまったのかを推察しようとしたものの、結局ロロにはわからなかった。

 最近のミレニアがどんな仕事を抱え、誰とどんな会話をし、どんな問題に頭を悩ませていたのか、毎日仕事の定期報告の僅かな時間しか取れなかったロロにわかるはずもない。推察しようにも材料が少なすぎるのだ。


「ですが……それでも、あんな顔をした貴女を、独りにしておくことは出来ない」


「ぇ――」


「護衛として、貴女を守るためじゃない。俺が、ただ、貴女の傍にいたいから――それだけでは、お傍に控えることを許しては頂けませんか……?」


 ドキン

 飾り気のない真っ直ぐな言葉で懇願され、心臓が不意に飛び跳ねる。

 隣で聞いていた侍女も、美男子が切ない瞳で突然告白めいた発言をしたせいで、思わず頬を染めていた。


「ぁ……か、勝手にしなさい……!」


「はい」


 胸中の動揺を悟られぬように、ふいっと顔を背けて歩き出す。

 すっと音もなく、視界の外――いつもの定位置に、ロロが影のように寄り添って歩き出したのを感じた。

 振り返らなくても、ずっとそこにいるのを感じる。

 戯れに振り向けば、いつものようにすぐに視線が絡むのだろう。


(それで、いいのよ。これで、十分――私は、これで、十分――……)


 愛の言葉を囁くことがなくても、手を触れることがなくても。

 ――これが、ロロの、精一杯の、愛の形。


(過ぎた物を望むこと自体が、馬鹿馬鹿しいことなのだから……)


 ミレニアは、心の中で何度も唱えながら、決して一度も後ろを振り返ることなく、風呂場へと向かうのだった。

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