第60話 乗り越えるべき壁③

 ジジッ……と燭台が小さな音を立てる。そんな物音すら響くほどに、この土地の夜はとても静かだ。

 既にとっぷりと日は暮れて、労働者たちも皆食事を終えて風呂に入っているころだろう。身体の芯から冷えた身体を温め、疲労を癒す大浴場は、日々の癒しとなっていると、どの男も口を揃えている。

 刻々と迫る北の原住民を招待しての宴会の日程を前に、ミレニアは書類と睨めっこを続けていた。

 これは、本格的な民族交流の第一歩となるはずだ。

 集落の長たちを招く会は勿論、女たちを招く会、商人を招く会、職人を招く会――ルーキスの提案で、複数回開催されることになったそれらは、どれもそれぞれに重要な意味を持っていて、失敗は許されない。

 女たちを招く会では、今後の人口増加を図るに当たり、異国の人間同士でも友情や恋愛を育む土壌を作れるかどうか。保守的な風土を持つ女性たちの心を開くためには何をすればいいか、心を砕いた。

 商人たちは、既に好意的な態度を示している者が多いが、利害には厳しい者たちだ。ブリアを筆頭に、子供らを旧帝国に奴隷として拐されたこともある苦い過去の確執もあるだろう。いかに懐に入り込み、信頼を得て、集落の懸け橋になってもらえるか考えつくさなければならない。

 職人たちは、保守的な風土の中でも特に排他的な考えの者が多いと聞く。彼らの気質を理解したうえで、円滑な関係を築くために、彼らが楽しめる催しを作らねばならない。


「はぁ……」


 限られた予算の中で、最良の物を――と考えるにつれて、頭痛の種が増えていく。

 ため息を漏らした途端、コンコンと扉が叩かれ、ミレニアは顔を上げた。


「姫。今、お時間を少しよろしいでしょうか」


「まぁ。もうそんな時間なの。……いいわ。入って、ロロ」


 もはや、この土地でミレニアを『姫』と呼ぶのはロロしかいないと言ってもいい。

 聞きなれた低い声音に、いつもの現場報告が来たのだと察したミレニアは、慌ててささっと髪を撫でつける。

 どれほど忙しくしていても、想い人には少しでも美しい自分を見てほしいという淡い感情は無くならない。


「失礼いたします」


 カチャリと扉を開けて、見慣れた長身が入ってくる。

 今日も一日、朝から晩まで肉体労働の最前線で働いていただろうに、ピクリとも動かない顔面は相変わらず涼やかだ。


「お前の休日は明日だったかしら?しばらく連勤が続いているでしょう。特筆すべきことだけ報告をしたら、早く上がりなさい。ゆっくりと寝て、きちんと体力を回復させて」


 現場では、ちょっとした不注意から、労働者が木材や石材の下敷きになる事故なども起きている。すぐに光魔法遣いが駆けつけられたことで、幸い大事に至った者はいないが、ミレニアのように専門知識がない人間が漠然としたイメージで魔法を行使すれば、綺麗に完治せず中途半端な回復となり、後遺症となって何かしらの症状が残ってしまうこともあった。

 少しでも事故を減らすには、事前にリスクを想定して討てる手は全て打っておくことが大事だが、それ以上に労働者がこまめに休憩を取り、一人一人の危機管理意識を高めることが第一となる。

 ただでさえ隷属意識の逞しいロロのことだ。管理義務を負う者が、気を回し過ぎるくらいがちょうどよい。

 もしも、ロロが建設現場で大掛かりな事故に巻き込まれた――などという報が入ったら、ミレニアはきっと、それがどんな重要な会議の途中でも、蒼い顔で飛び出してしまうだろうから。


「お言葉をそのまま返します。……姫こそ、きちんと休息を取ってください。この気候で、寝間着のまま毛布もなしに寝落ちたら、揺すっても声をかけても起きない貴女は、最悪凍死しかねません。……翌朝、俺の心臓を止めたいのですか」


「ふふ……お前があまりに心配するから、最近はちゃんと風呂に入ったら真っ直ぐ部屋に帰っているでしょう?寝室で布団に入ってから、残りの書類や書物を読むようにしているのよ。いつ寝落ちても良いように、ね」


 そのためにわざわざ、火の魔法使いに頼んで蝋燭に通常の何倍も明るい火を出す蝋燭を作ってもらったのだ。

 ロロのように、触媒などなくても炎を顕現させられるほどの強力無比な魔法使いではなく、日常を豊かにするレベルしか使えない侍女の一人に頼んだため、蝋燭が燃え尽きれば火が消えるという大原則は変わらない。

 火が消えるまでのわずかな時間と思えば、いつも以上に集中力が増して効率が上がり、火が燃え尽きたら諦めて作業を切り上げて寝ることにしているため、不意に寝落ちることも凍死する心配もなくなった。


「……ほどほどになさってください。万が一家事にでもなって、部屋が丸焼きになれば、どちらにしろ俺の心臓が止まります」


「もう……本当にお前は過保護なのだから」


 控えめに苦言を呈す従者を前に、クス、と苦笑に近い笑みを漏らす。どこまでも過保護な彼の本質は、いつまで経っても変わらない。


「それで?報告を聞くわ。私も時間が惜しいから、手短にお願い。ね?」


 慈愛に満ちた笑顔で促され、ロロは手にした書類に静かに視線を落とす。

 ミレニアのこれは優しさだ。ロロの体調を慮り、ミレニアの忙しさを口実にして、早々に退出させようとしている。


「どの現場も、予定していた作業から遅れているところはありません。所々早まっている箇所もありますが、目覚ましく進んでいるわけでもなく、各現場に差異はあまりないと言えます。……冬に入ってから、この地の天候に合わせて描き直したスケジュールは正確だったと言えるでしょう」


「そう。……皆の知識を総動員した結果ね」


 ロロの報告を聞いて、ふ、とミレニアは満足そうに笑う。

 冬と呼ばれる季節――旧帝国ではまだ秋と呼んでいたころだったが――になり、想定していたよりも悪天候が続いて作業に遅れが出たため、ミレニアはすぐに動いた。北にルーツを持つ人間や、休憩に訪れる商人たちを捕まえて、冬の天候の特徴を徹底的に洗い出し、それを建築の知識を持つ現場監督官に伝え、当初の予定に固執することなく柔軟にスケジュールを引き直したのだ。

 結果、成果を焦って無理をすることもなく、建設現場は円滑に回ることとなった。


「事故や怪我人、深刻な体調不良者などはいないかしら?」


「はい」


「それは何よりね。良かった」


 ほっとミレニアの頬が安堵に緩む。

 工期など、いくらでも遅れていい。――大切な仲間たちが、毎日元気で幸せに生きていくことの方が、何百倍も大切な事なのだから。

 統治者としては甘いと言われるかもしれないが、それでもミレニアは、その気持ちをいつまでも大切にしたいと思っていた。


「それが聞けただけで十分だわ。他に気になることが無いようなら、今日はもう下がりなさい。……お前、また烏の行水で済ませたでしょう。私は遅くなっても構わないから、何よりまずはゆっくりと身体を休ませろといつも言っているのに――」


「明日は休みなので、問題ありません。一日で疲れを取ります」


「もう……良いわ。言っても聞かないお前だもの。好きになさい」


 呆れたため息を吐くミレニアに、ロロはすぃっと視線を下げる。

 ミレニアは、わかっていない。

 ゆったりと風呂に浸かる何十倍も、ミレニアの顔を見て、声を聞けるこの時間の方が、ロロの疲労を癒してくれる。

 風呂の時間を極限まで短縮するのは、ミレニアを待たせないようにという奴隷根性からではない。

 ただ、ロロが、一秒でも早くミレニアの顔を見たいがためでしかない。


(もう少し――この部屋にいさせてもらえないだろうか)


 きゅっと眉根が少しだけ寄る。

 申し出ても、呆れて追い出されるだけだとわかっている。普段ですらそうなのに、連勤明けで休みを目前にしたロロを、この部屋に不当に控えさせることなど、ミレニアは決して良しとしない。

 何より、理由がない。

 外敵の存在しないこの環境下で、護衛は必要ない。侍女もフットマンも沢山いて、わざわざロロが担うような仕事はないだろう。

 ロロがここに留まりたい理由はただ一つ――ミレニアの存在を、一秒でも長く感じていたいだけ。


(最近、ただでさえ、お顔を見ることが減っているんだ。もう少しだけ、お傍にいさせてほしい――)


 ぎゅっと拳を握り締め、腹の底からせり上がりかけた灼熱をぐっと飲み下す。

 出口を求めて、普段押し殺している感情がぐらぐらと沸騰するような錯覚。

 この女神に、奴隷の自分を愛してほしいなどと、過ぎた願いは持っていない。

 だが――叶うならどうか、傍に、置いてほしい。

 気配を消して、視界に入らないと約束するから――どうか、同じ空間で息をして、少女がくるくると表情を変え、活き活きと日々を生きるのを、そっと陰から見守りたい。

 その欲求は、こんな、たった数回の会話の往復だけではとても満たされなかった。


「ロロ……?どうしたの?何か、心配事でもあるの?」


 眉を微かに寄せて視線を落とした微かな変化だけで、ミレニアはすぐにロロの異変に気付く。

 気遣わし気な声に、ドクンと胸が脈打ち、灼熱が暴れまわるのを抑え込んだ。


「いえ……」


「そう?それならいいけれど……何かあったら、すぐに言いなさいね」


 女神のように微笑むミレニアに、ぐっと唾を飲み込み、意を決して望みを告げようと口を開く。


「では、どうか明日は――」


「護衛任務に就きたい、というのは駄目よ。休みの日に仕事をすることは許さないわ」


「俺にとっては――」


「屁理屈を言っても駄目。現場監督官も皆、お前の勤務態度と成果には、呆れて舌を巻くほどなのよ?明日は丸一日、ベッドから出ずにごろごろしたとしても、ちょうどいいくらいだわ」


 言いたいことを先回りして全て封じられ、ロロは少し不満げに視線を伏せる。


「私は、お前をこんなところで失いたくないの。……ずっと、一生、傍にいてくれるんでしょう?」


「……はい」


 苦笑に近い笑みで告げられれば、頷かざるを得ない。

 ロロの返事に満足したらしいミレニアは、スッと白く細い手を従者へと伸ばす。


「さぁ、報告書を提出したら早く休みなさい。温かくして、風邪など引かぬようにね」


 ふわり、と綻ぶ笑みは、この世のものとは思えぬ美しさだった。

 完璧な微笑を前に、反論を封じられたロロは己の弁舌の拙さを呪いながら静かにミレニアへと近づく。

 手にした報告書の束を渡すとき――微かに指先が、触れた。


「……姫……?」


「?……なぁに?どうかしたかしら」


「いえ……もしや……体調が、優れぬのでは――」


 ぱちぱち、とミレニアは翡翠の瞳を何度も瞬く。


「いつもより、指先が――いえ、その……近くで拝見すると、お顔の色が、あまり優れぬように、見えます」


 一瞬、正直に指先の温度について口走りそうになったのを口の中で噛み殺して、何とか言い直す。

 気味が悪いだろうと取り繕っただけの言葉は、意図せず世界に飛び出た途端、真実となった。

 とっぷりと日が沈んでしまったこの時間、室内の限られた明かりの陰になっているせいだろうと気に留めていなかった顔色が、書類を手渡すほどの距離でミレニアを見れば、目の下あたりにうっすらと隈が出来ているのに気付いたのだ。

 途端に、ぎゅっとロロの眉間に皺が寄ったのを見て、ひくり、とミレニアは頬を引きつらせる。

 過保護が爆発する音が聞こえるようだった。


「また、過労で倒れられるおつもりですか――!」


「ちょ……ひ、人聞きの悪いことを言わないで!あの頃ほど無茶はしていないわ!」


 従者の呻くような苦言に、ミレニアは慌てて弁明する。一年ほど前、雪原で意識を失い、三日ほど目覚めなかったことを言われているのだろう。


「人のことをとやかく言う前に、貴女こそがしっかりと休息を取ってください……!俺の代わりなどいくらでもいるが、貴女の代わりなど、この世に存在しないのだから――!」


「そ、そんなことは……!いえ、でも……そうね。今、私が倒れたら、皆、困るわね……」


 咄嗟に反論しようとした少女は、すぐに言葉を飲み込んで、素直に苦言を受け入れる。


「当たり前です――!どれだけ休憩を与えられようが、貴女の体調が気がかりでは、俺は仕事に集中できません……!俺に注意散漫になるなと命じるなら、貴女は誰よりも体調管理を万全にしてください……!」


「ぅ……ご、ごめんなさい……」


 他の人間が同じことを言ったとて、軽く笑って流してしまうだろうが、さすがに長い付き合いだ。ロロの性格を嫌というほど知っているミレニアは、彼の言葉がどこまでも本気であることを知っている。


「こ、これでも一応、気を付けてはいるのよ?ただ、その……過去の経験から、疲労回復の光魔法は多発しすぎないようにと意識しているせいで、少し、最近の寝不足が顔に出てしまっているだけで――」


 顔を伏せて、ごしごしと瞳のあたりをこする。

 隈が浮かんだみすぼらしい顔を、まじまじと覗き込まれたと思えば、少しでも血色を良くして誤魔化してしまいたい。

 ――いつだって、愛しい男には、美しい自分を見てほしいから。


「寝不足というなら、少しでも深く眠れるように、睡眠の魔法をかけてください――!」


「だ、駄目なのよ。私が掛けると、魔力の強さのせいか、眠りが深くなりすぎて、翌朝全然目覚めなくなるの……!一度試したときは、とんだ寝坊助な女だと思われてしまったわ!」


「そんなもの、魔力を調整すれば――!」


「そんな器用なこと、出来ないわ!どれくらいがちょうどよい強さなのか、自分で試して翌朝また起きれなかったらどうするのよ……!」


「では、他の光属性の人間に頼めば――!」


「む、無茶を言わないで!不眠に悩んでいるなんて知られたら、従者に心配をかけてしまうじゃない!」


 蒼い顔で弁明した言葉に、ロロの紅い瞳が大きく見開かれた。

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