第58話 乗り越えるべき壁①
「ネロ。光魔法遣いたちに指示を出して、テーブルを回らせて。話を聞いて、疲労が酷そうなら、軽く魔法で回復を。重度の体調不良や精神疲労が見られるものがいたら、私に知らせて頂戴。私は右奥から順番に回るわ」
こんもりと雪が乗ったフードを外し、パタパタと入り口で身体を叩いて積もった雪を落としながら、ミレニアはともに入ってきた従者に指示を出す。横殴りの吹雪だったため、頭だけではなく、身体の側面にも雪が張り付いていた。
外が吹雪になったのを見て、現場の作業が中断されたことを知ったミレニアは、急いで手元の仕事を一区切りがつくまで終わらせ、こうして労働者たちが集まる食堂へと足を向けたのだった。
(定期的な面談を組んでいるし、薬師の資格を持った者たちの定期健診を行って、その報告も貰っているけれど、やはり顔を出せるときはしっかりと一人一人の様子を見なければ)
休憩時間でもあるこういうタイミングは、労働者同士の意外な関係が垣間見えることもある貴重な時間だ。誰と誰が仲が良いだの悪いだの、そうした情報は面談だけでは拾いきれない。
こうして一堂に労働者が会すのは珍しいため、書類作業を後回しにしてでも出向くべきだと判断したのだ。
傍にいた何名かが、ミレニアに気付いて立ち上がろうとするのを手で制し、食事や談笑を続けるように言う。ぺこり、と会釈をして各々の時間に戻っていくのを満足げに見てから、ミレニアは足を踏み出そうとして――
「あら。……足音もなく、一体どこから現れたの?」
「姫の、お姿が見えたので」
いつの間にか目の前の床に膝をついて控えていた見覚えのあるシルバーグレーの旋毛に苦笑する。
「今、護衛は必要ないわ。お前も休憩中でしょう。食事をとっていたのではないかしら?私に構うことなく、食事に戻っていいわよ」
他の労働者に言ったように下がるように告げる。――ロロの交友関係がどんなものなのかは、単純に興味がある。
基本的に、あまり他人に興味を示さない男だ。誰が相手でもそつなく交流するし、仮にそりが合わないとしても、諍いを起こしたりすることはなく、なるべく会話や接触が起きないようにと必要最低限以外は相手を避ける。
そんな彼が、この不意に手に入れた自由時間に、一体誰と食事をとって、どんな談笑をするのか、想像もつかない。純粋に、知りたいと思う。
しかし、主のそんな思惑に反し、目の前の旋毛はふるふる、と拒否の意志を示すように横に振れた。
「食事は既に終えました。休憩だと言うのなら、姫の傍に控えさせていただきたく思います」
仮に食事を終えていなかったとしても同じことを言っただろう。
相変わらずの奴隷根性に、ミレニアは呆れたように嘆息した。
「お前……今すぐ”休憩”という単語を辞書で引きなさい。本業の休憩中に、別の業務を差し込んでどうするつもりなの」
「以前も申し上げました。俺にとって、姫の傍に控えることは、もはや仕事ではありません。……休憩が、自由なことをしてよい時間だと言うのであれば、どうか、お許しください」
「もう……私が、過重労働を強いる鬼上司のように見えるでしょう」
「そのような誤解が生じるようであれば、一人一人弁明して回ります」
「まったく……まぁ、いいわ。そこまで言うのなら、好きになさい」
小さく嘆息して許可を出し、足を踏み出す。ミレニアが通り過ぎた後、ロロはいつも通りの定位置にピタリと影のように張り付いた。
(――久しぶりだ)
跪いた脇を通り抜けるときに、スカートの裾からふわりと香る、花のような柔らかな香りも。控えたときに視線の下にある小柄なミレニアの旋毛も、漆黒の艶やかな美しい髪も。労働者と会話を交わす鈴を転がす美声も、左後ろから時折垣間見える女神のような笑顔も。
懐かしささえ感じるそれらに、ここ数か月のミレニア不足が急速に満たされていくのを実感する。
手を伸ばせばすぐそこにある女神の存在を感じ、トクトクと心臓が音を立てて駆け出した。
――愛しい。
――――愛しい。
「おぉ!ニア、元気か!?」
「まぁ、ガルったら……こんな時間からお酒を飲んでいるの?」
がっしりした身体つきの壮年の元剣闘奴隷が、酒臭い息で下品な笑い声と共に大きな声でミレニアに話しかける。
ロロの眉がひくり、とほんの少しだけ不愉快そうに寄った。
「寒くて堪んねぇからよ!身体あっためるにはこれが一番だ!」
「もう……雪が止めば、業務再開をする可能性もあるのよ?ほどほどになさいね」
「おう!」
ガハハ、と笑い声をあげる奴隷紋が刻まれた頬は赤らんでおり、彼が相当気分がよくなっていることがわかる。
(ここ最近、こうして予期せぬ悪天候で無理やり作業を中断されることが増えているわ。思い通りにいかない作業や、屋内に無理に押し込められる閉塞感に、たまには、開放的になりたい気持ちの者も多いでしょう。奴隷時代には嗜好品など口にすることもなかったでしょうし……多めに見てあげることも必要よね)
労働奴隷たちは、従事先で稀にそうした嗜好品を目にしたり口にしたりすることもあったようだが、見世物奴隷と呼ばれる性奴隷や剣闘奴隷は、徹底的にそうした機会とは無縁の世界に生きていた。
そのため、菓子や酒、葉巻といった、主に口にする嗜好品にのめり込む奴隷が多いと聞いている。
ミレニアは、健康被害が出たり他者に迷惑を掛けたりするほどでなければ、そうした嗜好品を嗜む心も人生には大切だと考え、特に禁止するようなことはなかった。
「……そう言えば、お前」
「はい」
ふと振り返ると、いつも通りの紅い瞳とすぐに視線が絡む。
――どうやら、今日もまた、気配を消したまま懲りずにじっとミレニアへと無言で視線を注いでいたらしい。
その事実に気付いて微かに心を浮つかせてから、ミレニアは口を開く。
「お前は、ああいう嗜好品を口にしないわよね」
「……酒のことですか?」
「酒に限らず、甘味や葉巻や――そういう、口に入れる嗜好品のことよ」
「……特に、必要性を感じないので」
今日は似たようなことを聞かれる日だ。
「飲食物に関しては、腹に入れば同じです。敢えて好んで何かを食する必要がありません」
「必要はあるでしょう……ちゃんと栄養バランスを考えて食べなさい。お前は、身体が資本なのだから」
「はい」
やけに従順に頷く従者にクスリと笑って、ミレニアは再び前を向く。
とてもロロらしい回答だ。
「お前は本当に無感動な男ね。お前が寝食を忘れるほど何かにのめり込むところを、一度見てみたいと思うわ」
「そのようなこと……姫をお守りするのに支障が出るほどのめり込むものなど、あり得ません」
「もう……お前は本当に、もう少し柔軟な生き方を身に着けなさい」
せっかく、『自由の国』を作ろうとしているのだから――
相変わらずの男に苦笑しながら、ミレニアは足を進めるのだった。
◆◆◆
それは、酷く懐かしい風景だった。
キラキラと降り注ぐ陽光は、網膜を焼いて眩しく煌めく。
父が、亡き母のために整えたという庭園は、春の盛りを迎えて一斉に花開き、辺り一面に香しい匂いを振り撒いていた。
この世に顕現した楽園のごときその中で、幼いミレニアはベンチに腰掛けて分厚い本を開き、読書を楽しむ。
――これは、夢だ。
脳裏で誰かが囁く。
だが、それでもいい。
今は、この、春の陽光に包まれる温もりの中で、幸せだけを享受していたい。
「お父様!」
視界の端に映った見知った人影を見つけ、ミレニアは顔を上げた後パッと瞳を輝かせる。
「おぉ、ミリィ。元気にしていたか?」
沢山の護衛を引き連れた父が、目尻をとろんと蕩けさせながら、こちらへ近づいてくる。
ミレニアは本を閉じてベンチを降り、愛しい父に駆け寄った。
今よりも随分と低い視線。小さな歩幅。
僅かにもどかしさを感じるが、愛しく懐かしい実父が記憶の中と変わらぬ笑顔で笑っていてくれるのは、心の中を春の陽気に負けぬほど温めてくれた。
「本を読んでいたのか?今日は、何を?」
「近代帝国史の本よ。特に、お父様の成し遂げた偉業については、沢山知っておきたくて」
「おぉ……なんといじらしく愛らしい娘か」
ぐりぐり、と大きな手で小さな頭を撫でられて、ミレニアは頬を綻ばせる。
――愛されている。
――――自分は、確かに、愛されている。
たとえ、十二人の兄たちには、これ以上なく疎まれていたとしても――
「お父様が一気に帝国領を広げられたのは、剣闘奴隷の軍事投入が大きかったのね!先のエラムイド侵攻でも、彼らは目覚ましい働きをしたと書いてあったわ」
早口で、興奮しながら、覚えたばかりの内容を父に話しかける。
この年齢で、ここまでよく理解していると、認めて、褒めてほしかった。
――兄らと比べても引けを取らないと、認めてほしかった。
「おぉ、もうそんなところまで学んでいるのか。ミリィは本当に――」
ふ、と父の瞳が細められる。
「――お前が、男でさえ、あったならなぁ……」
ズキン……
いつからだろう。
父のこの言葉に、寂寥を感じるようになったのは。
「ぁ……剣闘奴隷についても、調べたの!彼らは、お父様の侵略戦争で増えた戦争孤児らが殆どで、急激に数が増えたから、奴隷商人の力を制限するには口減らしをする必要があって――」
痛んだ胸に気付かれぬように、慌てて知っている知識をまくしたてる。
よく洞察している、お前になら国を任せても大丈夫だ――そう言ってほしくて。
(あれ――……でも――)
「供給過多になった奴隷を、戦力として活用しながらも、戦争を体のいい口実に口減らしとして――」
スラスラと出てくる言葉に違和感を覚える
これは、本当に自分が考えたことだっただろうか。
父に教わった内容を、自分で考察したように話しているだけではないのか。
(いえ、それでも構わない。私はただ――お父様に、褒めて、認めて欲しいだけ)
素晴らしいと目尻を蕩けさせ、頭を撫でて、抱きしめて欲しいだけだ。
紅玉宮の従者は皆、ミレニアを主として慕ってくれている。幼いミレニアを、まるで自分の娘のように大切にしてくれる従者たちばかりだ。
だが、彼らがミレニアの頭を撫でることも、小さな身体を抱きしめてくれることも、ありはしない。
ミレニアは神に見放されたこの国で最も神に近いイラグエナム皇族であり、彼らは貴族。その絶対的な地位の隔たりは、決して超えることの出来ない一線を明確に引いていた。
だからせめて、その線を唯一飛び越えてくれる父にだけは、いつも、
いつだって、自分は愛されているのだと、実感したかった。
「ミレニアはフェリシアに似てとても賢いな。姿形だけではなく、存在そのものが生き写しのようだ」
ズキンッ
胸が痛みを発する。
(あぁ――そうだった。いつもお父様は、決して"私"を見てはくれない)
脳裏で冷静な自分が囁く。
父が目尻を下げてミレニアを溺愛するのは、ミレニアが、かつて愛した女の面影を宿しているから。
いつだって、父は自分の後ろに、母の影を見ていた。
「お前が言う通りだ、ミレニア。奴隷は所詮"口を利く道具"――厳しい前線に配備したとて、どこからも苦情が出ることはない。有能な軍の本体を温存しながら着実に進軍出来るのだ」
ズキン
何か、胸が酷く痛むけれど――
「ええ、その通りね!さすが、お父様は素晴らしいわ!」
貼り付けたような笑顔で、ミレニアは媚びるように父を見上げる。
父は、正しい。
軍略も、国政も、全てにおいて完璧だった、偉大な王。
その父を否定することなど出来はしない。
(あぁ、否定などしないから――だから、どうか、お父様――)
自分の向こうに誰も見ないで。
笑顔で隠した本心を見つけて、"ただのミレニア"を丸ごと愛して――
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