第54話 北の大地へ②

 ずいっと目の前のテーブルにこれ見よがしに差し出された一枚の書類を受け取り、ルーキスは特大のため息を吐いた。

 手にするそれは、ミレニアと取り交わしたブリアにいた奴隷たちの対価を、全て無事に支払い終えた、という証明書に他ならない。


「全く……まさか、本当に、耳を揃えて全てを支払いきるとは……それも、あんな方法で」


「一行を束ねる責任者として、一度口に出したことは守ります。……純粋な剣闘による収入以外にも、人が沢山訪れたことで、ブリアとしても想像以上の経済効果があったでしょう。文句を言われる筋合いはありません」


「はぁ……とはいえまさか、救世主サマご本人まで観覧に訪れるとは思いませんでしたよ……」


 まさかのVIP顧客の登場に、ルーキスもエーリクも、当日は蒼い顔であちこちを走り回って対応に追われていた。


(だって、ネロが、勝手に文を出していたのだもの。まぁ、国中に噂が広まってお祭り騒ぎだったようだから、何もしなくても話は露見していたでしょうけれど)


 とはいえ、『特別観覧席』と名付けられた、過去に一度帝都の闘技場でも入ったことのある一席に、クルサールと押し込められた時間帯は最悪だった。

 ミレニアはこれが最後となるであろう剣闘場でのロロの雄姿を一瞬たりとも見逃したくないというのに、クルサールが横からあれやこれやとうるさく話しかけてきて、挙句の果てに何度も口説いてくるのだ。

 最終的に、一国の王に向かって、「うるさい!」と一喝する羽目になってしまった。

 今や皇女という身分でも何でもないミレニアに一喝されるなど、信者が聞けばハラハラしてしまいそうだったが、そんな少女の一喝すら愉快そうに笑って受け入れるクルサールの心は、さすが神の声が聴けると触れ回っているだけあって酷く寛大だと言わざるを得ない。ミレニアにとっては少しくらい堪えてほしいところだったが。


「いいでしょう。認めますよ。今日から私も、貴女の配下に加わります」


「あら。もう引き継ぎは終わったのかしら?」


「はい。誰かさんが、十二分に時間をくださったおかげで、ね」


 ミレニアが剣闘を最大限に盛り上げるために設けた準備期間を指しているのだろう。相変わらずの慇懃無礼な態度で、ルーキスは嘆息しながら渋々認めた。


「それで?私は最初に、何をすればよいのですか?……この私を引き抜くのです。しょっぱい仕事を与えられるくらいなら、さっさとブリアに戻りますよ」


「えぇ。そのことだけれど――お前を見込んで、今私が抱えているとっておきの、”最重要難課題”の解決を任せたいと、思っているの」


 妙に深刻な顔で切り出したミレニアに、「ほぅ……」と蛇の瞳が怪しく光る。

 どうやら、ミレニアが『最重要難課題』とまで表現する出来事がどんなものか、興味を惹いたのだろう。


「お前のその性格を見込んで、一か八かの博打をしたいと思ったのよ。――やはり、蛇には蛇を当てるのが一番なのではないか、と思って」


「蛇……?」


 ルーキスの眉が怪訝そうにひそめられる。

 はぁ、とミレニアはため息を吐いた後、神妙な顔でそっと切り出した。


「お前、”商売女”しか相手にしない、と言っていたわよね?……どうかしら。かつて、伝説の性奴隷として一世を風靡した――帝都で一番の”商売女”を抱いてみたいと、思わない?」


 ◆◆◆


 数日後――ミレニアは、涙目になりながら、ある宿屋の一室の扉の前にいた。


「姫。……やはり、俺が行って――」


「だ、だだだ駄目よっ……み、皆、私を頼ってくれたのだものっ……い、一行の風紀を取り締まるのも、私の役目だわっ……」


「いや……あれは、頼ったというより……ただ、泣き言を言っただけというか……」


 半眼で呻きながら、ロロは嘆息する。


「あ、あああああの……こ、これ、声をかけても――だ、大丈夫なのかしら?」


「大丈夫もクソもありません。貴女は相手の状況など一切鑑みることなく、問答無用で、ただ一言、”黙れ”と一喝するだけでいい」


「で、でもでもでもっ……な、何か、獣みたいな声が――」


「……気にしないでください。馬鹿どもが馬鹿なことをしているだけです」


 オロオロとする主に、ロロは額を覆って呻くように言う。

 どうして、清廉潔白な泉に住まうはずの女神に、こんな爛れ切った声を聞かせる羽目になっているのか。自分が不甲斐なくて仕方がない。


 数日前、ミレニアはルーキスに頼んだのだ。

 彼女が抱えている『最重要難課題』――”夜の女王”ラウラの攻略を。

 ルーキスに頼んだことはシンプル。

 金貨での報酬ありきでの協力を要求してくる関係性を改善せよ。――金貨の代わりに、ロロを差し出せ、と脅すように言ってくるようなことも金輪際無くしたい。

 そのためなら、何をしてもかまわない、と言った。


(ルーキスほど弁が立つ男なら――と思ったのがきっかけだったのよ。勿論、ほんの少しだけ、戦場で敵を水攻めにして笑っていそうだと表現したあの性格は、末期の被虐趣味を抱えたラウラともマッチするのではと過ったことは否定しないけれど、でも――でも、まさか、本当にこんなことになるなんて、思いもしないじゃない!)


 蒼い顔で、ミレニアはぎゅっと唇をかみしめて俯く。

 中からは、まるで獣のような激しい睦み声が、真昼間だというにもかかわらず、廊下にまでうるさく響いていた。

 ルーキスは、まさかの――夜の女王をその身体で篭絡する、という手法に出たらしかった。

 結果、朝から晩まで卑猥な声や物音がひっきりなしに響き渡る羽目になり、同じ宿屋に宿泊していた者たちは、皆で涙目でミレニアに宿の変更を訴えたのだった。


「と、ととととりあえず、声をかけてみるわ……!」


 従者たちの泣きそうな顔を思い出し、なけなしの勇気を振り絞る。

 扉の向こうで繰り広げられているのは、ミレニアにとって、完全なる未知の世界の出来事だ。

 我知らず手足が震え、声も震えそうになるのをごくり、と喉を鳴らすことで何とか抑え込む。


 コン コン


 精一杯の勇気を振り絞り、ミレニアは粗末な木製の扉を叩いた。

 ピタリッ……と獣たちの声が止む。


「ぁ……み、ミレニアよ。お前たちっ……その……ここ数日、同じ宿に宿泊している者たちから苦情が出ていて――」


『ハハッ……だ、そうだぞ。お前の浅ましい声が、宿中に聞かれているらしい。どうだ?ククッ……なんだ、雌犬の分際で、一丁前に羞恥を感じているのか?』


 扉の向こうから聞こえてきたのは、スラング交じりの口汚い北の言語だ。そのとたん、またもや獣のような声が辺り一帯に響き渡る。


「ぅ……ぅぅぅぅ……」


「姫。ルーキスは一体何と――あぁ、いえ。大丈夫です。何も聞きません」


 内容を問おうと少女の顔を覗き込むも、真っ赤になって俯いてしまった様子に全てを察してロロは己の発言を撤回する。

 そのままずいっといつもの定位置から足を踏み出し、少女を背に庇うように前に立った。


「ロロ……?」


「姫は優しすぎるのです。今のアイツらは汚らわしい肉欲に支配された知能のない獣だと思ってください。人として扱ってやる必要などないのです」


「で、でも――」


「姫は、そこで待っていてください」


 嘆息してから、ロロはスッと手を掲げ――


 ダンダンダンッ


「ひゃ――!」


 扉を叩き壊しかねないと思うほどの勢いで、木製の扉を強打する。

 その音だけで、「五月蠅い」「静かにしろ」という意思が伝わるような、容赦のない叩き方だった。

 首をすくめて耳を塞いだミレニアも当然だ。さすがに、再びピタリと室内の獣の喘ぎ声も止まる。


「貴様らが何に溺れようが知ったことじゃないが、姫の手を煩わせるな。耳を汚すな。あまり五月蠅いと、このまま部屋ごと丸焼きにするぞ」


 低く唸るような声で、ロロの口から容赦のない脅し文句が飛び出る。

 そのまま、問答無用で扉を開けようとして――鍵がかかっていることに気が付き、チッ……と盛大な舌打ちが飛んだ。


「開けろ。いつまでも猿みたいなことをしている暇があったら、さっさと出立の準備にかかれ。今すぐ服を着て出てこないと、この扉をぶち破るぞ」


 ダンッともう一度拳を叩きこみ、苛立ちをあらわにした脅し文句が再び口を吐く。

 一気に増えた一行の人数を賄うため、馬も馬車も荷台も荷物も増え、出立の準備は慌ただしかった。一刻も早く出立したいという想いだけはあるのだが、事務処理や新しい仲間へのルールの徹底など、やることが山積みでなかなか進んで行かない。

 ブリアの中でも顔が利くルーキスが主導してくれれば、もう少しスムーズに物事が進むだろうが、いかんせんここ数日、ずっとラウラとこの部屋に閉じこもって悦楽を享受する爛れた生活をしているのだ。

 ロロとしては、さっさと出てきて本来の仕事をこなせ、ということだろう。


「ふふ……残念ですね。ですが、この発情した雌犬が、離してくれないのですよ。ミレニア殿下は、最高の任務を与えてくださった――今まで、一般人相手では私の性癖を受け止めきれぬと、商売女ばかりを相手にしてきましたが、これほど容赦なく責め立てても応えてくれる極上の女と出逢えるとは、思ってもみませんでしたよ」


 どうやら、最低な形でのマッチングが起きてしまったようだ。

 ミレニアは己の差配の迂闊さに額を覆う。


「私も、他の職務をこなしたいという気持ちはやまやまなのですが――くく……おや。どうしました?もしや、ロロ殿が、貴女が言っていた”理想の男”なのですか?なるほど……彼の扉越しの怒声でこれほど昂るとは、はしたない。まさか、この状況下で、私に加えて過去の男と同時に責められる想像でもしたのでしょうか?身体は正直――」


「クソが!!!」


 恍惚とした声で卑猥な言葉が垂れ流され、女神の耳を汚すことに我慢が出来なくなり、ロロは罵りながら扉を思い切り蹴破る。

 バンッ!!!と強烈な音がして、鍵が吹っ飛び、扉が大きく内側に開け放たれ――


「「――――!」」


 ――――――バタンッ!


 中の光景が視界に飛び込んできた瞬間、ロロは中に踏み込むことなく即座に扉を閉めた。


「え……えっと……ろ、ロロ……?」


「……何か、見ましたか」


「えっ……と……一体、中で、何が起きて――」


「……見ていませんね?」


「どうしてラウラが、四つん這いで床に――」


「見ていません」


「ルーキスが、持っていたのは……あれは……鎖――?」


「見ていません」


「ラウラの、首に――」


「見ていません。貴女は何も見なかった。よろしいですね」


 ぐるり、と無理やり回れ右をさせて、ロロはミレニアをその場から連れ出す。


「今すぐネロの元へ行って、ここ半刻ほどの記憶を闇魔法で忘れさせるように命令してください。良いですね。貴女は、何も、見なかった。ここに来ることもなかった。全てはなかったことになるのです」


「え……っと……」


 一瞬だけ見えた気がした室内の様子があまりに衝撃的過ぎて、ぐるぐると混乱しているらしき少女を無理やり連れだす。


 ――何はともあれ。


 難攻不落の夜の女王を満足させる、新しい”理想の男”が現れたことは、間違いがないようだった――

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