第52話 蛇のような男⑦

 ぴくり……と蛇の眉が跳ね上がる。


「おや。……その件については、昨夜、きちんとお断りをしたはずですが」


 顎に手を当てるルーキスは、口調こそ穏やかなものの、その声音には微かな苛立ちが含まれているようだった。

 ミレニアは、気にすることなく、ルーキスをちらりと視界に入れることすらなくエーリクの方を向いたまま話を続ける。


「えぇ。ですが、主人たるエーリク殿に話を通しておりませんでしたから」


「そんなもの――」


「どうでしょう、エーリク殿。……私、昨日一日考えまして、とても優秀な彼を、ぜひ私の右腕として連れて行きたいと思ってしまいましたの。北方地域の知識にも明るく、私が連れて行こうとしているブリアの奴隷たちからの信頼も厚い彼は、私の野望に欠かすことのできない人物です。どうか、考えてはいただけないでしょうか」


 エーリクは、驚きに目を見開いて固まっている。

 ルーキスは軽く眉を寄せて、不愉快を露わにしてから、主の代わりに口を開いた。


「何度懇願されても、私が貴女方について行くことはありません。第一、私がいなくなれば、ブリア領は回りません。先代当主が慈しんだ領地と民を、エーリク殿を、私が置き去りにこの地を離れるなどということは――」


「――構いませんよ。どうぞ、連れて行ってください、ミレニア殿下」


 言葉を遮ったのは、他でもないエーリク自身だった。

 今まで、おどおどと自信なさげに振舞っていたのが嘘のように、まっすぐな瞳でミレニアを見据え、はっきりと言い切っていた。


「なっ――!?」


 さすがにそれは予想外だったのだろう。ルーキスが驚愕の声を上げる。

 ミレニアもまた、声こそ上げなかったものの、同じ気持ちだった。

 ぱちぱち、と何度も翡翠の瞳を瞬く少女に、ふっ……とエーリクは優しく苦笑に近い笑みを漏らす。


「正直、右腕たる彼を失うことは我が領地にとって、深刻な痛手ですが――ルーキスの優秀さを、きちんと理解し、評価し、必要としてくださるのであれば、構いません」


「エーリク殿……」


「私にとって、幼いころから信頼を置いた、かけがえのない、大事な、大事な従者です。必ず、私以上に大切に扱うと約束してくださいね」


 少しだけ寂しそうに笑う顔は、己の言葉を撤回する気はない覚悟を感じさせた。


「お、お待ちください、エーリク殿……!私は、先代より託されて――!」


「ルーキス。――いい加減、お前を父の呪縛から解き放たなければと、ずっと思っていたんだ。私が不甲斐ないばかりに、お前にはずっと苦労を掛けた。そろそろ、お前は――お前の人生を、歩むべきだ」


 くるりとエーリクはルーキスへと向き直る。

 糸目が大きく見開かれているのを見て、苦笑に近い笑みが浮かんだ。


「全部、知っているよ。――知っているんだ、ルーキス」


「な、にを――!」


「お前の故郷が北にあること。お前が主と認めているのは、父ただ一人だということ。”神”という存在を信じておらず、それに傾倒する私や、領民を呆れて心のどこかで見下していること。奴隷たちのことをいつも気にかけ、王国の沙汰の中で彼らの扱いに困り、苦心しながらそれでも心を寄せて待遇を必死に考えていること」


「それは――」


「そして――――――お前が、左の上腕に、決して打ち明けることのできぬ秘密を抱えていることも」


「――!?」


 ひゅ――と息を飲む音が聞こえた。

 顔を青ざめさせ、言葉を飲み込んだ後――絶望を隠しもしない表情で、そっと蛇が口を開く。


「……旦那様が……打ち明けられたのですか……」


 ぐ、といつもの笑みをかき消し、苦悶に頬が歪む。

 それはある種、仕方のないことだろう。

 いつ打ち明けられたのかはわからないが――さすがに、今際の際になれば、領地運営の大部分を担うであろうルーキスの秘密を、次期当主たるエーリクに打ち明けるのも納得だ。

 頭ではわかっているが――それでもそれは、ルーキスに少なからず落胆を与えた。

 秘密を初めて暴かれたときに、当主は約束してくれたのだ。

 今後、決してこの秘密を誰にも打ち明けないと。

 番号で呼ばれ『口を利く道具』として生きた短くはない過去を全て無かったこととして、由緒正しいバチェット家の一員として、ドミトリー家の忠臣”ルーキス・バチェット”として生きていくことを、許してくれた。

 それは、たとえ彼の息子であるエーリクにも打ち明けることはない秘密だと、そう思っていたのに――


「いいや。逆だ。……そもそも最初に、私がお前の上腕にある焼き印に気付いたんだよ。それを、父上に打ち明けた。父は、それを確認したに過ぎない。やけに風呂に誘われたりしたときがあっただろう?……だが、安心してくれ。父は、口が堅い男だった。お前に約束したその日から、死の間際まで、決して誰にもその秘密を打ち明けることはなかったよ」


 驚いて、ルーキスは顔を跳ね上げる。

 エーリクは、少し困った顔で己の忠臣を見つめた。


「すまなかった。私はお前に、一つ、嘘をついていた」


「嘘……?」


「あぁ。父が危篤だと知らせて、お前が帰ってきたとき――既に父は意識不明の重体で、まともに話が出来る状態ではなかった。だから、全てが終わった後――お前に、父の最期の言葉を、伝えただろう」


「はい……私に、『ブリアと、息子を頼む』、と――」


「すまない。……それは、嘘なんだ」


 すっと瞳を閉じて、真摯に頭を下げる。

 三大公爵家の現当主たるエーリクが、元奴隷の身分であるルーキスに、それと知っていて頭を下げるなど、決してあり得ぬことだった。


「父の最期の言葉は、息子である私に向けての言葉だった。ただ一言――『ブリアと、ルーキスを頼む』と」


「――!」


「……ブリアを託されたのは、私だ。父は、お前にそれを課したりなどしなかった。父はいつも、己を殺してひたすらに父に仕える姿を心配していた。――お前と来たら、父が戯れに『死ね』と言えば、笑顔でその首を掻っ切って死にそうなほどだったから」


(……まるで、ロロね……)


 いつぞや、左後ろに控える男と似たような問答をしたことを思い出し、ミレニアも苦い顔をする。

 ロロや、ルーキスの滅私奉公っぷりは到底理解できないが――きっと、先代当主の気持ちは、ミレニアにもよくわかる。

 ――そんなことを、してほしいのではない。

 大切な従者だからこそ、己の脚で、己の人生を力強く歩んでほしい。

 自分の顔色を窺ったりすることなく――己は己だと言って、好きなように人生を歩んでほしいのだ。

 その結果が、自分の元を去る、という判断だとしてもかまわない。

 ――それが、彼の真の幸せだと言うのであれば、それは主にとっても望外の喜びなのだから。


「父がもう助からないと覚悟したとき――私は、お前がとても心配だった。父がいなくなってしまったら、お前も後を追って死んでしまうんじゃないかと、思ったんだよ」


(……本格的に、ロロと同じじゃない……)


 もし自分が死んだら後を追いそうだ、と告げたら真顔で「当たり前です」と即答した黒衣の従者を思い出し、先代公爵やエーリクに同情する。


「だから、偽りの言葉をお前に伝えたんだ。お前は、父の最期の命令だと言えば、きっと何が何でも完遂しようとすると思った。私とブリアの行く末を見届けるために、長く生きてくれると思った。私は――どんなことがあっても、お前に生きていてほしかったから」


「…………」


「だが、すぐに後悔したよ。お前は、どれほど時間が経とうと、決してエルム教の教えを受け入れることは出来なかった。このまま、死ぬまでこの国で暮らすには、生き辛いだろう。だがお前は、『旦那様の命だから』と言って、全ての感情を封じ込めてしまう。自分が言い出した偽りの言葉が招いたこととはいえ、そんなお前を見ているのは、辛かった。――それが、今、こうしてお前が生き易い故郷に帰してやれる機会に恵まれると言う。私は、喜んでその背を送り出そう」


 ふわり、とエーリクが優しい笑みをたたえる。

 裏表のない、誠実さの詰まった飾り気のない笑顔。


「きっと、お前は私がちゃんと領を治められるのか心配しているのだろうが――大丈夫だ。もう、私も大人になった。偉大な父の背中を見て、他でもないお前に教育されて、育ってきたのだ。至らぬことも多いだろうが、そろそろ独り立ちをしなければ」


 先代のような圧倒的なカリスマを纏う有能な当主ではないかもしれないが――人民の心を掴む、穏やかな領主がそこにいた。


「惑ったときは、神に問うよ。お前も、聖典を読んで『まるで君主論のようですね』と認めていただろう。……心配しなくても、大丈夫だ。本当に困ったら、文を出す。お前にも、殿下にも。――私を助けてくれる人々は、意外とたくさんいるんだ」


 柔らかな笑顔は、まるで陽だまりのようだった。

 幼いころから、ルーキスの秘密を知っていたという彼は、今日この瞬間まで、それをおくびにも出さなかった。

 それは、先代当主と同じ――奴隷紋の有無で、彼自身は何も変わらないと――ルーキスはルーキスであり、ただ信頼に足る忠臣の一人なのだと認めていたからに他ならない。


「……貴方の、そのお人よしは、時に武器になりますが、弱点にもなります。有事の際には非情になることも必要なのだと、必ず肝に銘じてください」


 ルーキスは俯いて呻くように言う。

 非情な決断が出来ない当主は――その代わりに、全てを受け入れる、他にはない器の広さを持っている。

 その懐の深さは、きっと、これから先の彼を助けることだろう。


「あぁ。わかった」


 長く傍に控えてくれた唯一無二の忠臣が、新しく自分の人生を一歩踏み出す気配を感じて、エーリクは心から嬉しそうに微笑んだのだった。

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