第50話 蛇のような男⑤

 青白い光が、昼間のように空から降り注ぐ。

 大きく真ん丸な円を描く黄金の月の下、耳が痛くなるほどの静寂が場を支配していた。


「――おっしゃっている意味が、わかりませんね」


(あら、意外。ここで白を切るのね)


 たっぷりと沈黙をはさんだ後、やっと告げられた言葉に、ミレニアは胸中で呟く。

 しかし、これはチャンスかもしれない。

 頭の中で予期せぬ返しに当初描いていた流れから修正を図りつつ、ミレニアはそっと口を開く。


「ご自身のことなのに、わからないのですか?――その、流暢すぎる綺麗な抑揚のない標準語は、北の訛りを隠すためでしょう?」


「まさかその程度の憶測で、そんな突拍子もないことを――」


「それだけではありません。……番号しか持たなかった奴隷たちに付けられた名前。かねてより奴隷の地位向上に誰より尽力していた貴殿こそが、彼らの枷を外し、名前を付けたのだと聞きました」


「それが、何か?奴隷たちの管理も領内の財政を任されている私の仕事です。名づけなど、あくまで仕事の一環で適当に――」


「彼らの名前は皆、帝国ではあまり見ない響きが多かった。――北方地域では、我々が聞けばまるで愛称のように感じられる、短い音の名前が当たり前のようですね?」


「――……」


 蛇が一度口を閉ざす。

 ミレニアは、畳みかけるように言葉を紡ぐ。

 ――これは、一気に攻め立てるべき局面だと睨んだ。


「今日出逢った奴隷に聞きました。そもそもブリアは北方地域との商売が盛んで、よく彼の地から商人がやってくると言うこと。親の商売についてブリアに来たが、領内で奴隷商人の拐しに遭って奴隷にならざるを得なかった、という者とも会いました。彼らは一様に、言語の強い訛りと色素の薄い肌を持っていましたね」


「それで、私が妙に綺麗な標準語を喋るのは訛りを消すためだ、と?こじつけも甚だしい」


「それだけではありません。貴殿の瞳――よく見ると、漆黒ではないですね。少し灰掛かった色味をしている。そして、その薄い褐色の肌。……代々公爵家に仕えてきた家系とあれば、純粋な帝国貴族であるはず。そのような瞳や肌の色をしたものが生まれるとは思いません。とすると、その髪も染めていらっしゃる可能性があります」


「それこそ、こじつけです。帝都から殆ど出たことのないオヒメサマはご存じないかもしれませんが、ブリアは帝国領の中でも北に位置しています。肌の色が帝都の民に比べて薄いのは当たり前です。何より、ドミトリー家の当主たるエーリク殿すら、あの肌の色なのですよ。私の肌が薄いからと言って――」


「そうですね。――では、今この場で顔を洗って、同じことが言えますか?」


「――――……」


 男の流れるような主張がぴたりと止む。

 ミレニアは、革命の翌朝、ロロに聞いた”別の時間軸”の話を思い出していた。

 その時間軸では、陶器のように白く滑らかなミレニアの肌を、ラウラに調達してもらった”夜の女”たちが使う化粧で褐色に塗り偽った、という。


「娼館通いがご趣味なようですわね?――贔屓にしている女性から、化粧の流通経路を聞き出すことくらい、訳はなかったのでは」


「……皇女殿下ともあろう御方が、どうして娼婦の化粧事情にまでお詳しいのでしょうか?品位を疑います」


「職業に貴賎はない、というのが、今の私の信条です。女性が美しくなるための化粧事情に興味を示せば、詳しい者に尋ねることも厭いません。それで品位が下がるなんて、馬鹿馬鹿しい価値観だわ」


 ぐっと胸を張って言い切ると、すぃっと細い瞳が視線を逸らす。

 どこから反論し、煙に巻くべきかを考えているのだろう。

 男に考える時間を与えては厄介だ。反論の糸口を探される前に、一気に畳みかけるべく、ミレニアは言葉を続ける。


「貴殿が北の出身だという仮説を持てば、色々なことが別の角度から繋がってきました。――まず、貴殿は”我が主”などと言って”大恩ある”と表現する公爵家の当主であるエーリク殿が心酔しているエルム教には否定的らしいですね?」


「……まさか。この王国に住まう者として、神を信じぬ者など――」


「そういう白々しい嘘はいりません。私の周りには、敬虔な信者もいますから、本当にあの宗教を心から信仰しているかどうかはすぐにわかります。彼らは、不安を感じたときや、真摯に何かを訴えるとき――癖のようにすぐに胸元にある”聖印”に手を伸ばします。……今日、私の前でエーリク殿がやって見せたように」


 ハッとルーキスは小さく息を飲む。

 今、こうしてミレニアに畳みかけられるように責め立てられている状況で、信者であれば、きっと、すぐに聖印に手を伸ばしたはずだった。


「そういえば、ヴァルが興味深いことを言っていましたね。貴方が”大恩”を感じているのは、ドミトリー家でも、エーリク殿でもなく――”先代”なのだと」


「黙れ――」


「今日、エーリク殿も言っていました。貴殿は”先代”――おじさまの頃から仕えていた忠臣で、エーリク殿の教育係に任命したのも、おじさまだったと。教育係、ということは、エーリク殿の幼少期から仕えていたと言うことでしょうが――不思議ですわね。私、父が存命の時代に何度も公爵邸に伺ったことがあるのですが、エーリク殿の教育係という方の存在を見たことがありませんわ。貴殿のような癖の強い方、一度目にしたら必ず覚えていると思うのですけれど」


「黙れ――!」


 蛇が、少しずつ色を無くしていく。額には、じっとりと玉のような汗が浮かんでいた。

 ミレニアが、どこを終着点として話を進めているか、察しがついたのかもしれない。

 そろそろ、引導を渡してやるべきかもしれない。ミレニアは、しっかりと男を見据えて口を開いた。


「今までの仮説と情報を整理すると、一つのことが見えてきます。貴殿は、北方地域の出身の可能性があり、それを偽っている。この地域には、北方地域出身で奴隷に身を窶す者がいて、貴殿は奴隷を昔から酷く気に掛け、革命が成った後のこの世の中に蔓延る”神”の存在を、多くの奴隷たちと同様に、全く信じていない。主であるエーリク殿が心酔しているにもかかわらずそれを信じていないのは、恐らく貴方が恩を感じ、”主”と心から認めているのは、先代当主だった”おじさま”だけだったから。……そして、その昔、私がブリアを訪れていたころに姿を見なかったのは、まだ言語習得が十分ではなかったのか――皇族の前に出すにはと思われていた存在だったからのか」


「っ……!」


 ぐっ……と奥歯を噛みしめる。

 研ぎ澄まされた刃のようにきらめく月光が、降り注いでいた。

 ミレニアはそっと、最後のカードを場に出す。


「これらが示す結論は一つ。ルーキス・バチェット。貴方は――――その昔、商人によって拐しに遭い、この地に縛り付けられた元、奴隷。……違いますか?」


 しん……

 まるで雪が降り積もった深夜のように、全ての音が夜の中に吸い込まれて、途絶える。

 どれくらいその静寂を聞いていただろうか。

 随分と経ってから、うつむいていた男が口をゆっくりと開いた。


『だから、満月の夜は嫌いなんだよ。昔っから、吐き気がするようなクソみてぇなことばっかり起きやがる』


「まぁ。それが本来の口調なの?随分と乱暴なのね」


 書物で学んだ綺麗な文法からはだいぶ崩れたスラング交じりの北の言語に、ミレニアは驚いて目を開く。

 由緒正しいバチェット家の一員、という仮面を脱ぎ捨てたらしいルーキスは、チッ……と口汚く舌打ちをしてから、顔を上げた。

 そこに、いつもの張り付いた笑みは無かった。


「概ね、貴女がおっしゃる通りですよ。親についてこの領地に来た時――今日みたいな、満月の夜でした。宿に強盗団が押し入り、その場にいた大人たちを惨殺して、金品を強奪していきました。クローゼットに隠れていた私だけが生き残り――言葉もわからない見知らぬ土地で、子供に何が出来るわけもない。街を彷徨っているところをあっさり奴隷商人に捕まり、左腕に焼き印を押されて、奴隷小屋行きです」


 紡がれる帝国標準語は、相変わらず淀みのない丁寧な口調だったが、話の中身は酷く痛ましいものだった。

 

「魔法は使えたものの、あまりにも幼かったことと、当時からこのように痩せっぽっちだったもので、剣奴には出来ないと思われたのでしょう。労働奴隷として、地獄の日々が始まりました。――何せ、言葉もよくわからないものですから。従事先で、命令されている内容がよくわからずに迷惑をかけ、酷い暴行を受けることなど日常茶飯事です。……まぁ、それは、つい最近まで、北の出身の奴隷たちの日常だったわけですが」


 淡々と語られる哀しい過去に、ミレニアはそっと愁いを帯びた瞳を伏せる。

 何度聞いても、かつて奴隷として過ごした者たちの過去は、耳を塞ぎたくなる物語ばかりだ。

 しかし、それを聞くのは、ミレニアの宿命だ。彼らに自由を与えると約束をした以上、決して、その事実から目を逸らしてはいけない。


「ある夜、クソみたいな貴族の家に泊まり込みで従事させられていた時に、性奴隷でもないのに乱暴をされそうになりまして。まぁ、をするのに、鉄の枷など無粋なわけです。貞操の危機は、そのまま、逃走のチャンスとなりました。魔法で貴族の頭部を水で覆って窒息させ、必死に逃げ出しました。勿論すぐに追手がかかります。子供の脚で逃げ切るなど、絶体絶命――と思ったときです。先代公爵――”旦那様”と、出会い頭でぶつかりました」


 必死だった。恥も外聞もなく、とにかく全力で泣きながら助けを求めた。

 その晩、枷を外されていた彼の見た目は、公爵にとってはただの異国の幼い少年だっただろう。ならず者らしき大人たちに追いかけられ、怯えているとあれば、今にも奴隷商人に捕まりそうになっている哀れな少年だと誤解してもらえた。

 それから、公爵の庇護下に置かれた。何でもするからあの怖い大人たちの元に戻りたくないと震える少年を哀れに思い、公爵は信頼できる側近の男に預け、養育し教育を施すように伝えた。

 死に物狂いで勉強した。いつ追い出されるかわからない恐怖と、奴隷だったという事実がいつ露見するかわからない恐怖。

 万が一が無いように、夏でも長袖のシャツを着こんだ。風呂や水浴びといったものは徹底的に人の目を避け、焼き印が見られないようにした。

 すくすくと成長する優秀な子供に、公爵は、異国の出身であることも、生粋の貴族ではないことも気に留めず、温かく接してくれた。正当な評価を与え、愛する息子の教育係として任命した。

 ――嬉しかった。

 あの地獄のような日々から救ってくれた、命の恩人に認められ、その役に立てることが、何よりも嬉しかった。


「ですが、どっかの誰かが、公衆浴場などというものを造り出してくれたおかげで、とんでもない目に遭いました。ブリアにもそれは建設され――旦那様が、日ごろの労いだ、と言って、私を風呂に誘われたのです」


「!」


「風邪を引いただのなんだのと言って断れるのは数回です。結局、程なく不審に思われた旦那様に秘密を暴かれてしまいました」


 その時は、敬愛する唯一無二の主から、追放されることを覚悟した。

 ドミトリー家は、イラグエナム帝国の三大公爵家だ。時の皇帝とも親しい当主は、帝国貴族としての誇りを持っていた。

 視界に入れるのも汚らわしい奴隷だと言って、鞭で打たれ、殴られ、蹴られ、道端に捨てられても文句は言えないと思っていた。


「しかし――旦那様は、『昨日までと、お前が何か変わったわけではない。優秀な頭脳も、疑うことのない忠誠心も。お前は、ルーキス・バチェット。その事実に、代わりはないだろう』と言ってくださいました。周囲に私の秘密を漏らすこともなく、穢れた奴隷の子供を傍に置くことを許してくださった。……流石に、皇族の前に出すことは出来ない、と言われましたが、それ以外はそれまでと変わらず接してくださった。――だから私は、旦那様のためなら何でもします」


 細い目が、ギラリと覚悟を持った強い光を放つ。

 ロロはそれを見て目を眇めた。――その感覚は、ロロにも身に覚えのあるものだったから。


「他でもない旦那様が、この領地の行く末を託し、息子を託した。……旦那様が病に倒れた途端の西の日照り騒ぎで、領地の中を西へ東へと飛び回り、公爵邸に寄りつくことも出来ぬ程必死になって――やっとのことで何とかやっていけそうな目途が立った頃に、旦那様の危篤の報を受けて慌てて帰れば、偉大なる父の不在の重責に耐えかねたお坊ちゃまが訳の分からない”神様”とやらに縋っていたときは、思わず目を覆いましたが」


 ふっ……と嘲笑のような笑みが口の端に浮かぶ。


「まぁ、とはいえ文句は言えないでしょう。何の腹の足しにもならない”神様”なんぞに縋っていようが、恩人の忘れ形見です。私は死ぬまで、旦那様への違えぬ忠誠を誓っています。……仕えるべき主が世を去ったとしても、その誓いは変わらない。旦那様が、死の間際に『息子とブリアを頼む』とおっしゃったのですから。その息子がどんなにぼんくらだろうが、意味の分からん宗教に傾倒していようが、関係ありません。私はこの地で、旦那様の残した最期の命令を、命尽きるまで完遂するだけです」


 そして、チラリと眼を上げ、ミレニアの後ろへと視線を飛ばす。


「そちらの御仁なら、私の気持ちも理解していただけるのでは?」


「――――……」


 ロロは静かにすぃっと視線を伏せる。


「とはいえ、少し困りましたね。噂には聞いていましたが、まさか貴女がここまで優秀だとは思いもしませんでした。旦那様が目尻を下げて、我が子のように慈しんでいた理由がわかります」


「……そう」


「どうでしょう。北方地域での新しい国の建設など諦めて、エーリク殿と再び縁を結んでいただけないでしょうか。今の私の目下の悩みは、あの朴念仁の相手探しなのですよ。全く、誇り高きドミトリー家当主としての自覚があるのかないのか……その点、貴女なら、何の憂いもありません。血統に関して文句がないのは勿論、あのお人よしのお坊ちゃまを内助の功で導いてくれるでしょう。新帝国がブリアを責めてこようと、血を分けた妹がいるとなれば新皇帝ゴーティスも手心を加えてくれるかもしれませんし、クルサール王に対しては、坊ちゃま自身が敬虔な信者故にいくらでも打ち手がある」


「……随分あっさり掌を返すのね」


「掌を返してなどおりません。私の行動原理は常に、旦那様に託された任務をいかにして完遂するか、だけです。最初は、貴女から金をむしり取りながら奴隷たちに生き易い居場所を提供してやるのが最善と思っていましたが――貴女を侮っていたようです。これは最大限の敬意ですよ。私がここまでの敬意を見せて対応するのは、旦那様と坊ちゃまを除けば貴女が初めてです」


 ニコリ、と糸目がいつものように細まり、読めない笑顔が張り付く。

 はぁ、とミレニアは大きくため息を吐いた。


「嫌よ。私は、新しい国を造ることに信念を持っているし――何よりもう、既に結婚相手を心に決めているわ」


「姫。俺は、そこの男の意見に賛成です」


「お前はちょっと黙っていなさい」


 後ろから飛んで来る言葉を振り返りもせずイラつきながら叩き落して、ミレニアは蛇のような男を見る。

 大きな翡翠の瞳に見つめられても、ルーキスは笑顔の仮面を少しも揺らがせなかった。


「……まぁ、いいわ。明日、エーリク殿を訪ねても良いかしら。実権を握っているのは貴方でも、公にはエーリク殿を無視するわけにはいかない。奴隷たちを連れて行くにしても、やはり、彼に許可を取らねば」


「勿論、構いません。最高級の見合い会場をセッティングしますよ」


「普通で良いのよ、普通で……」


 げんなりと額を覆ってつぶやく。

 きらきらと輝く月光だけが、その場を静かに見守っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る