第48話 蛇のような男③
奴隷小屋を出たとき、既に世界は黄昏に包まれており、薄闇を払うようにして家の中に明かりがともされていく。
ゆっくりと東の空から顔を出したのは、丸い月。巨大なそれは、欠けたところが一つもなく、今日が満月であることを示していた。
「ロロ。お前は、どう思う?」
「……どう、とは」
「話をした奴隷たちのことよ」
ミレニアは、考え込むように俯きながら傍に控える従者に水を向ける。
「そうですね……剣闘奴隷には、北方地域出身の者が多かった。物心つく前に拐された者もいましたが、かの地域のことをよく覚えている、という者もいました。彼らは、仲間に引き入れる方が後々役に立つのでは」
「まぁ、そうね。今日あまり会えなかった労働奴隷や性奴隷たちの中にも、北方出身の者はいると言っていたから、仲間にするには心強いでしょう。祖国のことを覚えている者たちは、言語もまだ覚えていると言っていたから、ラウラに大金を払ってまで無理に頼む必要が無くなるのは助かるわ」
ラウラと競うようにミレニアが教えるにしても、ミレニア自身には他の仕事が山積みで、それだけに従事するわけにはいかない。
どうしてもラウラに頼ることが多くなることは目に見えていたため、成功報酬として最終的に彼女に支払う対価は莫大になると覚悟していたが、もしもブリアで仲間にした奴隷たちがミレニアの代わりに言語を教えてくれる役割を担ってくれるならば、ラウラに頼る負担が減る。最終的な金額も減り、その分を他へと回すことも出来るだろう。
(本当は、言語習得にだけ労力を割くのではなく、地域住民との交渉や、開拓現場で自然と戦うことになるときの対処法なんかにもうまく力を借りたいところだけれど……少なくとも、ロロを差し出すというラウラの要望を突っぱねる準備が出来たのは良かったわ)
心の中で安堵のため息を漏らす。愛しい男を他の女の元へやるなど、ミレニアにはどうしても耐えきれない。
(新しい国では、王国のように一夫一妻制にしましょう。そもそも、世襲制で家業を継ぐという風習すら無くすのだから、後継ぎを生むための一夫多妻制は必要ないでしょう。――ロロと結ばれたとして、結婚後にロロが他の女を愛すなんて、絶対に嫌)
公私混同した決意を胸の中でしっかりと固める。
今は「姫」「姫」と慕ってくれるこの美丈夫が、旧帝国の貴族社会に生きる男たちがそうだったように第二、第三夫人を囲って夜毎別の女の元へと言ってしまうのを見送るなど、ミレニアには決して我慢が出来ないだろう。むしろ、よく姉たちは夫のそんな所業を許していたものだと感心すらする。
「それより気になったのは、ルーキス・バチェットの人物像よ」
「あぁ……奴隷の多くが、名前を出していましたね。それも、良い印象を持っている者たちが殆どでした。奴隷の扱いに関しては、昔から余程尽力していたようです」
「えぇ。昼間にエーリク殿のところを後にしたときは、顔も見たくない食えない男だと思っていたけれど、今は少し違う印象だわ」
「……と、言うと?」
思案顔の主に聞き返すと、ミレニアは少しうつむいたまま押し黙る。考えを整理しているらしい。
寡黙な月が、煌々と道行く二人の影を照らし出した。
「……ずっと、ね」
「?」
「気になっていたの。あの男の、綺麗すぎる”標準語”が」
やっと口を開いた主の言葉の意味を理解できず、ぱちぱち、と紅い瞳が瞬きを繰り返す。
「最初は、あの嫌味ったらしい振る舞いと食えない態度、堂々と対価を要求している守銭奴っぷりから、あの訛りの一切ない綺麗な旧帝国の標準語も、まるで皇城に普段から出入りしていた生粋の貴族たちのようだと思っていたのだけれど――もしかして、本当は、訛りを意図的に消すために必死で旧帝国の言語を覚えた結果なのではないかと思えてきたのよ」
「訛り……?」
「今日、北方地域の出身だと言う人間に沢山会ったでしょう。その時、感じなかった?――彼らは皆、癖の強い訛りのあるこちらの言葉を使っていたわ」
「!」
言われてみればその通りだった。
冷たい外気から喉を守るため、口をあまり大きく開かず短音が主体となって構成されているという北方地域の言語体系と、旧帝国の言語は発音の仕方からして異なる。
北の出身者は皆、多かれ少なかれ言語習得に苦戦したのか、旧帝国領内ではあまり聞かれない癖の強い訛りのある言語を使っていた。
「そう考えていくと、今まで見えていたことが全て違う見え方になってくるわ。まず最初に――」
「お待ちください。……姫。どちらに向かっていらっしゃるのですか?」
自分の考えを口にしようとした主を引き留めるような声がかかる。
ミレニアは、きょとん、とした顔で振り返った。
「どこ――って?」
「宿とは方角が正反対です。ここから先の一画は――貴女が出歩くにはふさわしくない場所だ」
ぐっと眉根を寄せて、深刻な顔で訴える。
満月が煌々と闇夜を照らす中――皆が寝静まっていくのに反発するようにして、一晩中、眠らない一画。
今を盛りと夜に咲き誇る美しい花々が、春を売る街並だ。
「こういう場所は、得てして治安も悪い。そもそもが奴隷小屋の傍なのです。姫のような御方が足を踏み入れていい場所じゃない。早く立ち去るべきです」
「また、お前はそんなことを……」
呆れたようにミレニアはため息を吐く。
「今日は、性奴隷たちに殆ど話を聞くことが出来なかった。彼女たちの殆どは既に仕事に出ていたからだわ。であれば、私が直接そこに赴くのが早いでしょう?滞在費だって馬鹿にはならないのだから、少しでも早く物事を進めて行かなければ」
「ですが――」
「職業に貴賎はない。私は、そういう国を作りたいと思っているのよ。夜の街に関わるものを、遠ざけたりするのは違うでしょう」
ミレニアはまっすぐな瞳で堂々と理想を語る。
ロロは、眩しいものを見るかのように、微かに目を眇めた。
「治安が悪くたって危なくなんかないわ。私には、お前がいてくれるのだもの」
「それは――」
「お前が、どんなものからも私を守ってくれるんでしょう?」
にこり、と疑うことのない笑顔を向けられれば、閉口するしかない。
「第一お前は、過保護過ぎるわ。私だって、もう成人した一人前の女性なのよ」
押し黙ったロロに構わず、ミレニアは堂々と夜の街へと足を踏み出す。
月明りが、怪しげな雰囲気を醸す町並みへと続く石畳を照らしていた。
「そ、そりゃあ、貴族令嬢の結婚前の閨教育は、嫁ぐ日の半年から一年ほど前に開始するのが普通だから、ヴィンセント殿の時は始まる前に破談になってしまったし、クルサール殿のときはレティに頼むわけにもいかなかったから、具体的なことは知らないこともあるかもしれないけれど――で、でも、薬師の知識もあるのだもの。コウノトリを信じているようなお子様ではないわっ!」
「……はぁ」
ぐっと拳を握り、紅い顔で訴える主に、呆れた顔で生返事を返す。
――どうやら、十分すぎるほどにお子様らしい。
「……やはり、帰りましょう。貴女には、こんな爛れたいかがわしい世界は早すぎるようです。話なら、俺が代わりに聞いてきます」
「なっ!?」
「そもそも、男女二人組で店に行き、目当ての女を呼び出せるかどうか怪しい。夜は店の繁忙期です。客でないなら帰れと言われる可能性の方が高いでしょう」
「ぐっ……」
ぐうの音も出ない正論に、ミレニアは一瞬言葉に詰まる。
奴隷商人は金に貪欲だ。稼げない奴隷をそのままにしておくことはない。性奴隷として従事していても、金を生めない奴隷は労働奴隷にしたり金持ちの家に口先三寸で売り込んだりしてしまう。革命が起きた時点で性奴隷として従事していて、さらにその後も娼館で働くような性奴隷たちは、見世物でも人気を博した者たちだろう。
当然、娼館においても人気は高く、彼女らの貴重な時間を奪うことを、店の主は良しとしない。
「俺が一人で行けば、客として女を指名することが出来ます。金を出すなら相手も文句はないはずですから、簡単に接触することが――」
「な、なんですって!?駄目よ、そんなこと!」
くわっと目を剥いて振り返ったミレニアに、一瞬瞬きを速くした後、彼女が何を心配しているかすぐに思い至り、「あぁ」とロロは付け足す。
「金は、俺個人の懐から出しますので、一行の軍資金が減る心配は――」
「そんなことを心配しているのではないわ!この馬鹿!」
全く見当違いのことを言い出す従者を力いっぱい詰る。
ぱちぱち、と目を瞬いた後、ロロは怪訝な顔でミレニアを見返す。
「もしや……俺が、話を聞くついでに相手を抱くのでは、と?」
「ぅっ……」
小さく言葉に詰まったミレニアに嘆息して、ロロは呆れたように告げる。
「あるわけがない……貴女が、おっしゃったのです。そうした汚れた行為をしたら、生涯二度と俺を傍に置くことはないと」
「そっ……その通りよ!」
「ならば、しません。貴女のお許しが出るまで、女を抱くことはないと約束します」
「で、でも――いつかのラウラのように、薬を盛られたりしたらどうするの!?」
ロロの意思とは関係なく、ことに及ばれる可能性もある――と言い募るミレニアに、呆れたように返す。
「初めてやってきた顧客に、勝手に薬を盛るような店はないでしょう。悪評が立ちます。店側にメリットがない」
「お、お前とことに及べるというのは、それだけでとんでもない価値があるとラウラは言っていたじゃない――!」
「あれは……少し、特殊な例です。あのド変態を基準に物事を考えないでください」
ラウラには、ロロが特別に気に入られているだけだ。全く嬉しくないことだが。
鼻の頭に皺を寄せて不機嫌そうに呻いた後、ロロはもう一度口を開く。
「とにかく、姫は一度宿に戻ってください。貴女を送り届けたら、書類に書いてある奴隷たちの働き口を見て、いくつかの店を回って話を聞きます」
「ま、待って、やっぱり私も――」
手練手管に長けた夜の蝶たちの巣窟に、これ以上なく美しく魅力的な雄々しい獲物を放り込む勇気が出ず、ミレニアは往生際悪く言い募ろうとして――
ふと、言葉を切る。
「……姫……?」
突如目を見開いて固まった主に疑問符を返したあと、ロロもその翡翠の視線を追う。
その先には、怪しげな門構えの大きな娼館。
扉が開いて、中から客らしき長身痩躯の男と、きゃいきゃいと黄色い声で媚びながら纏わりつく複数人の女たちが出て来る。
煌々とした月明りに照らされ、男の顔も、女たちの顔も、夜の闇に紛れることなくはっきりと認識することが出来た。
「あれは――……」
「おや。……まさか、皇女殿下がこのようなところに足を運ばれるとは」
ロロが口を開くよりも先に、向こうもこちらに気付いたようだ。
しな垂れ掛かる女たちをそのままに、長身の男が、細長い糸のような目を細めて、揶揄するような声を出す。
「ルーキス・バチェット……」
ミレニアのどこか呆然とした声が、月夜にぽつりと響いて消えた。
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