第46話 蛇のような男①

 数刻後、ミレニアはロロを伴い、ブリア領内でかつて”奴隷小屋”と呼ばれていた区画へと足を向けていた。

 世界の肥溜めとも称されるそんな場所へミレニアを連れて行くことを、最初は酷く渋っていたロロだったが、まずは書類の中に書かれている者たちの意向を確認し、どれくらい本気なのかを探りたいと真摯な瞳で訴えられれば、決して檻には近づかないこと、ロロから絶対に離れないことを条件に渋々頷かざるを得なかった。

 ミレニアは、書類に記載されていた者一人一人と会話し、意向を確かめていく。


「次は、剣闘奴隷の区画ね」


 同行を希望する労働奴隷との面談を終えて、ミレニアは顔を上げる。

 突然訪れたために、労働奴隷の多くはまだ仕事から帰ってきておらず、性奴隷はこれから娼館での客引きがあると言って出かけてしまっており、実際に面談できたのは限られた人数だったが、それでも突発的な行動の結果としては上々だと言えた。

 意気揚々と向かおうとしたミレニアの前に、スッとロロが立ちふさがる。


「ここからは、より危険になります。今、クルサールが施行した法律のせいで、剣闘奴隷たちに枷は付けられていません。いつでも、好きに魔法が放てる状態です。奴らは、街に住居を用意できないせいで、仕方なく奴隷商人がこの地を去った後も住まいをここにしているだけです。何一つ安心することは出来ない。基本的に、上流階級の人間を侮り、憎んでいる奴らだということを、肝に銘じてください。――もしも何かあれば、必ず俺を盾にして隠れると誓ってください」


「もう……わかった、わかったわよ。本当に過保護ね、お前は」


 もう何度目になるかわからないやり取りに、げんなりしながら返事を返す。

 しかし、それでも護衛兵の曇った顔色は晴れない。


「……どうしても、ご自身で足を運ばれますか?俺が代わりに行って、話を聞いてくるのではいけないのでしょうか……」


「駄目よ。もし一行に加わるとなれば、苦楽を共にすることになる大切な仲間たちよ。大事な大事な仲間だもの。私は自分の目で見て、会話をして、相手を知っておきたいの」


 この件に関しては取り付く島もないミレニアにロロは無言を返す。ぎゅっと寄った眉根は、その身をとにかく危険に晒したくない過保護な護衛兵として明らかに不服であることを示していたが、彼女の矜持を誰よりもよく理解しているが故に、表立って反論も出来ないのだろう。


「そもそも……貴女のような御方が、こんな世界の肥溜めにも等しい穢れた場所に足を運ぶべきではないのです。空気すら淀んで、濁って、醜く汚れているここでは、貴女が呼吸をするたびにその清らかな肺を侵食していきます。貴女にこんな場所は相応しくない。あの高級な宿のように外界と隔離された煌びやかな世界こそ――」


「あぁもう、つべこべ言わずに連れて行きなさい!お前が行かないなら、私が先に行ってしまうから!」


「なっ――お待ちください!いけません、俺より前に立つなど――!」


 剣闘奴隷の居住区の手前に来てもぐだぐだとうるさい往生際の悪い護衛兵を置いて、ズンズン肩で風を切るようにして歩き出してしまったミレニアを慌てて追いかけ、背に庇うように前に出る。

 心臓が凍り付くかと思った。


「まずは、最初の男ね。かつての布の色は赤。クルサール殿によって奴隷解放宣言が成されたときに与えられた名前は――ヴァル?」


 手元の書類を確認したミレニアは、怪訝な声を出す。


「どうかしましたか?」


「いえ……先ほどの労働奴隷に与えられた名前を見たときも思ったのだけれど――改めて、他の奴隷の名前を見てみても、随分と適当に付けられているね、と思って……」


「あぁ……姫のように、一人一人を良く知り、名付けるのとは訳が違うでしょう」


「えぇ。どれもこれも、番号と同じくらい『呼びやすさ』だけを重視した音を並べて、何とか名前っぽい響きにしているだけ……いうなれば、お前の”ロロ”というのをそのまま本名として名付けた、みたいな形だわ」


 唸りながら、怖くなって奴隷たちに与えられていたかつての番号を確認するも、さすがに番号のごろ合わせ、という者はいないようでホッとする。この領地で適当に奴隷の名づけを担当した者にも、さすがに最後の良心はあったようだ。


「えぇと、ヴァルに現在与えられている仕事は……ぅ……やはり、労働奴隷よりも過酷な現場の採掘や鍛冶場での危険な業務のようね……」


「……剣闘奴隷は、目立ちますから」


 ぽそり、と目の前のロロが、振り返りもせず静かにつぶやく。

 ミレニアがかつて危惧したことは、恐らく現実となっているのだろう。

 たとえ法律を改正し、「明日から身分制度はない」「不当な差別をしたものには罰を与える」などという触れを出したところで、人民の心に植え付けられた差別感情までが綺麗に無くなるわけではない。

 労働奴隷や性奴隷は、左腕の上腕を服で隠せば、一般市民との違いが分からなくなるが、左頬にも生涯消えない焼き印を押された剣闘奴隷だけはそういう訳にはいかない。

 表立って懲罰対象とされているような、あからさまな暴力や不当な賃金の設定などを行うことはなくても、嫌悪感や本能的な恐怖心まで拭うことは出来ないだろう。

 結果、その屈強な身体を体のいい理由に、死と隣り合わせの人があまりやりたがらない過酷な業務へ優先的に斡旋されるのだ。


(怯んでは駄目よ、ミレニア。そういう者を救いたくて、そもそも私は最初に奴隷解放施策を考えたのだもの)


 この施策を考え始めたときの出発点は、「ロロが差別を受けずに自由に生きることが出来るにはどうしたらよいか」という所から始まっている。

 市井に交じった時に最も差別に晒されやすい彼らを救ってこそ、本懐を遂げられるだろう。


「……ん?あれ?ちょっと待って、備考欄に――」


「?」


 小さく書かれた文字を見つけて、ミレニアは思わず足を止める。背後の気配が立ち止まったのを知り、ロロもまた足を止めて振り返った。

 ミレニアは、その小さな頭をひねるようにして傾け、書類を凝視している。


「どうしましたか?」


「いえ……変なことが書いてあるの」


「?」


 ロロは近づき、少女の手元をひょい、と覗き込む。

 少女が指さす『備考欄』に書いてあったのは――


『副収入:見世物”剣闘”による観覧料』


「……ロロ。どういうことかわかる?」


「さぁ……奴隷商人がいなくなった今、剣闘を開催する主催者は存在しないはずです。第一、剣闘に私財をつぎ込むような上流階級のほとんどは、亡命するか革命で討ち取られたはずでしょう。主催者も顧客も存在しないのに、どうやって剣闘を開催するというのでしょうか……?」


「やはり、お前にもわからない?」


 はい、と返事をするロロにミレニアは困った顔を返す。

 帝都の奴隷たちは、皆ミレニアに付き従うか、市井に交じって生きていくことを選んだ。奴隷小屋も剣闘場も取り壊され、新しい住居として生まれ変わることが決まり、その建設は他でもない奴隷たちが請け負うことで新しい仕事を生んだ。今頃は、かつての空気が淀んだ薄暗い一画も、彼ら自身の手で新しく生まれ変わっていることだろう。

 てっきり、ここブリア領でも同様に、剣闘場は既に取り壊されていると思っていた。


「まぁ……ヴァルという名の男に直接聞いてみましょう」


 考えてもわからないことは仕方がない。

 ミレニアは早々に諦めて、再び威勢よく足を踏み出すのだった。

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