第43話 鋼鉄の街③

 さわさわと巨木の葉が爽やかな音を立て、身体を撫でるように柔らかな風が通り過ぎていく。


「帝都から遠く離れたここブリアは、全て情報を伝え聞くことでしか把握することが出来ず――ずっと、御身のご無事をお祈りしておりました。こうして再び見えることが出来た奇跡に、感謝いたします」


「まぁ……ふふ。私も、エーリク殿の息災をお祈りしておりましたわ。こうしてお茶をするのも、何年振りでしょうか。随分と懐かしい気持ちでいっぱいです」


 腰掛けて早々に頭を下げたエーリクに笑って、そっとティーカップを手に取る。

 ふわり、と香るのは柔らかで華やかな茶葉の香り。恐らく、香りの高い花弁を茶葉に使っているのだろう。


「素敵な香り……昔もこうして、華やかな香りの茶を出して頂いておりましたでしょうか。先代のドミトリー公爵は、こうした貴婦人が好みそうな貴族社会の慣習を嫌っていたような印象だったのですが」


 息子のエーリクの趣味なのか、と思い問いかけると、青年は苦笑しながらふるふると首を振る。


「私も、父も、こうした慣習には酷く疎いつまらぬ男です。心を豊かにする詩歌の代わりに剣と戯れて育ったような家系ですから、どうにも貴族社会のご令嬢方を喜ばせる会話の一つも覚えられず……おかげで、この歳になってもまだまともな縁談がまとまっておりません」


「まぁ」


「この茶は、そこにいるルーキスに頼んで、用意してもらったのです。私はこうしたことに疎いので、殿下に喜んでいただけるようなもてなし方がわからず……お気に召して頂けたようなら何よりです」


「ふふ。そこまで心を砕いてくださったとは。ありがとうございます」


 見てみれば、用意されている茶菓子も、可愛らしい色合いのものが多い。ミレニアが来訪する時期は随分前から伝えてあったため、それに合わせて、妙齢の貴族令嬢たちが好むものを、わざわざルーキスが調査して揃えてくれたと言うことだろう。

 ミレニア自身は、貴族令嬢が好むような風習に特に関心があるわけではなかったが、エーリクの一生懸命な心は嬉しく受け取る。


(相変わらず、とても誠実な方ね。この豊かで力を持つブリア領を治めていく領主としては、少し心配になるくらいだわ)


 ソーサーにカップを置きながら、ミレニアは心の中で思う。

 きっと、これから先、王国と帝国が戦うことになったとしたら、まず最初に狙われるのはここブリアだろう。ゴーティスが旧帝国をなぞらえて興す新しい国は、軍国主義国家に違いない。『イラグエナムの武器庫』と呼ばれたこの土地は、喉から手が出るほど欲しいはずだ。

 高度に政治的な思惑が飛び交う中心地となるであろうこの土地を治める領主が、ここまで誠実で人の好い性格では、あの誰よりも頭が切れるゴーティスにあっさりと良いようにされてしまうのではないか、と余計な心配をしてしまう。


「そういえば……先代のドミトリー公爵はどちらに?家督は譲られたのでしょうが、もし御存命であられるなら、一度ご挨拶をさせていただきたいと思っているのですが――」


 幼いころよりギュンターと共に剣術や帝王学を共に学び、互いに固いきずなで結ばれていたという先代の厳めしい顔を思い出しながら口を開く。

 普段は巌のように険しい顔をした御仁だったが、子供好きなのか、ミレニアがやってくると相好を崩して抱き上げてくれたことを思い出す。

 幼いミレニアも、父と仲睦まじかった彼を「おじさま」と親しく呼びかけ、好ましく思っていた。

 あの父、ギュンターが全幅の信頼を寄せるほどの優秀な男だったのだ。せめて彼が存命であれば、息子のエーリクが惑ったときも、的確な助言をしてくれるだろう――と思って尋ねたものの、エーリクは物憂げな顔でうつむき、静かに首を振った。


「残念ながら、父は、革命が起きる前――ギュンター様が崩御された後、盟友の後を追うようにして、この世を去りました」


「まぁ……そう、でしたか……申し訳ございません」


「いえ。もう随分と高齢でしたし――私も、殿下と同じく、かなり遅くに出来た息子でしたから。幼いころより、いつかは……と、ずっと覚悟しておりました」


 にこり、と気遣わせまいと笑顔を作って言ってくれるのが痛ましい。

 青年の優しさに、目尻を下げて「ミリィ」と家族と同じ愛称で呼んで慈しんでくれた先代公爵の影を見て、ミレニアは無言のままもう一度静かにカップに口を付けた。


「幸い、私には、ルーキスがおりました。先代の頃から、ずっとドミトリー家に仕えてくれる忠臣です。若いまま未熟な領主となった私を、陰日向になって支え続けてくれました。私とそう大して歳も変わらないのに、私の教育係を父から任せられるほど優秀な男なのですよ」


「勿体ないお言葉です」


 スッと傍に控えていた男が静かに頭を下げる。


(やっぱり……この男が、エーリク殿の”頭脳”……実質的にこの領地を取り仕切っているのは彼なのでしょうね)


 エーリクの人の好さが心配ではあったが、この食えない男が傍にいるなら大丈夫だろう。後は、この男の性質の本質が善であることを願うばかりだ。

 

(まぁ……この蛇みたいな男の本質がどこにあったとしても、関係ない。少なくとも、今、ゴーティスお兄様に与していない、という事実だけが全て……私や私の臣下たちをいきなり売ったりはしないでしょう) 


 ゴーティスはミレニアを蛇蝎のごとく憎んでいる筆頭だったが、血筋にこだわるところがある男だ。ミレニアの半分の皇族の血は得難い物だろうと考えているだろう。――半分は、謀反人の一族と同じ血が流れていると思えば、今まで以上に憎まれている可能性も高いが。

 だが、ゴーティスは、己の息子と違って馬鹿ではない。感情面では決して受け入れることはないだろうが、ミレニアの優秀さも十分に理解はしている。

 彼女に付き従う従者たち――ガント大尉や、数々の剣闘奴隷たちの優秀さも、冷静に分析しているだろう。

 そして何より――ミレニアが連れている、大陸最強の名を恣にする武人ロロの有用性を、これ以上なく知っているはずだ。


(ブリアの領主かその側近あたりにお兄様の息がかかっていたら、面倒ごとに巻き込まれかねないと思っていたけれど、良かった……その心配はなさそうね)


 エーリクは悪い男ではないが、もしも側近であるバチェットを信頼するあまり、彼の傀儡のようになってしまっていたとしたら、バチェットにゴーティスが接触を図っていないかを探る必要があっただろう。

 だが、革命が起きる前に先代が逝去しており、そのころからバチェットが実権を握っていたとして、彼にゴーティスの息がかかっているなら既にブリアは新生イラグエナム帝国のものとなっていたはずだ。今の事実を冷静に見る限り、そうした事実はない、とミレニアは踏んだ。


「それでは、エーリク殿。本題に入らせてもらってもよろしいかしら」


「はい。殿下のご一行の滞在中についてですね」


「えぇ。事前に文で伝えてあった通り、少し長く滞在させてもらう予定です。北に進むうえで必要な装備を整え――ともについてきた者のいくらかを、この地に住まわせていただきたいのです」


 睫毛を伏せて、ミレニアは真摯に頼み込む。

 事情は既に文で知らせてあるが、それでもしっかりと口頭でも伝えるべきだろう。


「革命が成った後の不安定な情勢下で、新しく民を受け入れるというのは、不安が大きいと重々承知しておりますが……ここブリアであれば、きっと、彼らの働き口もあると思うのです。皆、働き者で、優秀な者たちばかりですわ。きっと、領地運営のお役に立てると思います」


「そ、そんな、顔を上げてください、殿下!」


 頭を下げたミレニアに驚いて、ガタンッとエーリクは腰を浮かす。

 皇族に首を垂れられるなど、彼にとっては打ち首も同然のあり得ぬ事態だ。

 しかしミレニアは、ふるふる、と頭を振って言葉を紡ぐ。

 ――きっと、エーリクの性格を思えば、これが一番の攻略法。


「代わりに、貴領内でエルム教の教えに染まり切れぬと言っている人間を、我が一行にて引き取ります。おそらく、奴隷に多いのではないかと予想されますが、勿論、貴族階級でも平民でも、望むものであれば誰でも受け入れましょう。北方地域での新しい国家建設の道のりは辛く険しい物ですので、それだけは覚悟していただきますが――それを承知してもなお、己の身の置き場所がない、居場所がないと困っている者には、私が惜しみなく手を差し伸べます。それが、かつて私の一族――長兄が、己の責務を放棄し、惑う民の手を取らず欲に溺れた罪の贖罪だと思うのです」


「殿下……!」


 椅子に座ったまま頭を下げるミレニアに焦った声を出して、エーリクは慌てて立ち上がり、ミレニアの目の前で膝をつく。

 皇族よりも高い目線を保ち続けるなど、これ以上ない不敬であると、幼いころから厳しく父に躾けられてきた教えが、純朴な青年を突き動かしていた。


「御心配には及びません。殿下のお優しい御心は確かに受け取りました。神は、救いを求めるものは互いに手を取り合うべきだとおっしゃっています。ブリアに定住したいと望む者には、手を差し伸べ、惜しみない支援を約束しましょう」


「神――……」


 青年が必死に訴える言葉の中に混じった言葉に、驚いて目を瞬いて青年を見返す。

 エーリクは、胸元に手を当てて、真剣な様子で言葉を紡いだ。


「はい。神は、人々に貴賎はないとおっしゃっています。今、ブリアの領内には、奴隷だからと言って露骨に差別感情を出す者はおりません。確かに、奴隷を一般市民と同じ扱いに――となると、この一年、主に財政のやりくりは本当に大変でしたが……我々には、財を稼ぐための鉄鋼がある。家令のルーキスには多大な苦労を掛けましたが、それでも、何とかやりくりをしてこられたのです」


 視線をやれば、胸元に当てられたエーリクの手の下に、キラリと光る銀細工が見える。

 それは、いくら質実剛健を信条とするとはいえ、旧帝国の三大公爵家の一つであるドミトリー家の現当主が身に着けるには、あまりにも質素すぎる首飾り。

 ――”聖印”と呼ばれる紋様を象った、首飾りだった。


「神の尊い行いを励行するのに、協力を惜しまぬ民はおりません。きっと、民も快く殿下の伴った者たちを受け入れてくれるでしょう」


「え……えぇ……」


「男は勿論、女ですらここブリアは働き口が盛んです。労働階級の男たち向けの公的な娼館も沢山あります。私を筆頭に、独身の男も多いですから、気だての良いものは結婚相手として歓迎されることもあるでしょう。何も心配いりません。殿下の大切な臣下たちは、私が責任をもって、必ずここブリアで幸せな日常を送れるように取り計らうとお約束いたします」


「あ……ありがとうございます……」


 膝をついた帝国式の礼のまま、ぎゅっと大切そうに聖印を握り締めるあべこべさに、ミレニアは引き攣りそうになる頬をなだめて、何とか言葉を絞り出す。


(まさか――この、展開は……さすがに少し、予想外だったわ……)


 きらきらと、純粋無垢な光を宿すエーリクの漆黒の瞳を見返して、心の中で苦い気持ちを飲み下す。

 ブリア領が、革命軍に一切の抵抗をせずに全面的に従った理由は、民を戦に巻き込むことを厭ったからではない。エーリクの後ろに控えている食えない男が、当主の御代に邪魔となる政敵を効率よく排除するため、高度な政治的思惑をもって成したわけでもない。

 ただ、純粋に――この地を治める領主たるエーリクが、心の底から、新興宗教たる”エルム教”に心酔していたから、なのだ。


(お、おじさまも……流石に、予想できなかったでしょうね……)


 思わず、父に負けず劣らずの厳格な雰囲気を纏い、上流貴族の当主というよりも、屈強な軍将校と言われた方が納得できるような外見を持った先代公爵の姿を思い浮かべて汗を流す。

 ”神”を信じて帝国に反旗を翻す革命軍に、従順に従うなどと――先代が聞けば、頭を抱えてしまうことだろう。きっと、存命であれば、病床からでも息子を必死に説得したに違いない。


(でも、私に対しての反応を見る限り、皇族に対する悪感情は、なさそうよね……)


 戸惑いながらも、ギュンターの威光が生きていたころのミレニアにするのと変わらぬ態度を貫くエーリクを見る。


(ギークお兄様の治世に反発するあまり……ということかしら。西の日照りの影響も受けたでしょうし、ギークお兄様の悪政の末、税金が跳ね上がって一番苦しんだのは、人口が多く栄えていたブリアでしょうし……賄賂を贈るようなことをよしとするような家系でもないものね)


 純朴そうな青年の、まっさらな瞳は人を疑うことを知らぬ無垢な光を宿している。

 この純粋さで、ただひたすらに、”神”に救いを求めたのだろうか。


「そして、我が領内にいる、殿下に付き従いたいと申し出た者についても――」


 無垢な青年が口を開いたときだった。


「ミレニア姫に従い、領内を出たいと申し出るのは、愚かにも神を信じることが出来ぬ者――そのほとんどが奴隷階級だった人間です」


「!」


 ミレニアは弾かれたようにして、急に主の言葉を遮るように口を開いた蛇のような男を見る。

 一癖もふた癖もある笑みを浮かべたまま、バチェットは当たり前のような顔をして、言葉を紡ぐ。


「奴隷階級の人間を連れて行きたいというならば、ミレニア姫。――当然、対価を支払って、くださるのですよね?」


「!?」


 にぃ――と片眼鏡の奥の細い目が、不穏な光を纏って笑みの形に細められたのだった。

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