第41話 鋼鉄の街①

 昔から、月が、嫌いだった。

 不思議と、嫌なことが起きるのはいつも満月の夜。だから、昔から、大嫌いだった。


 最初の記憶は、両親との死別。

 親と一緒に商売で訪れていた、知らない街の小さな宿――満月が輝く夜の日に、武器を持った男たちに宿屋が襲われた。

 深夜に響く、断末魔。階下で争う音を聞いた父は、無理やり子供をクローゼットに押し込めた。

 建付けの悪い木製の扉は、しっかり閉めたつもりでも薄く隙間が空いていて昼間のように明るい月光が差し込み、部屋の中の様子が手に取るように分かった。

 蒼白く冴えわたる月光の下――真っ赤な血潮が部屋中にまき散らされ、狭く、薄暗く、呼吸がしにくい木の棚の中で小さく震えることしかできなかった。


 次の記憶は、逃走の夜。

 見知らぬ土地で、まだ言葉も拙い幼い子供を虐げる、酷い大人たちから逃走した日だった。

 殴られ、蹴られ、鞭で打たれる、そんな理不尽な日々から逃れようと、大人の目を盗んで躍り出た夜の街を、とにかく必死に駆け巡った。

 その日も、冴え冴えとした満月が、輝いていた。

 大人たちの魔の手から逃れようと、走って、走って――冷たい石畳を、靴もない裸足のままで、傷だらけになって転びそうになりながら逃げまどう。

 どんなに逃げても、大きく丸い月が、どこまでもどこまでも追いかけてきた。

 

 誰から逃げているのか、もうわからない。

 自分を連れ戻そうとする大人から。どこまでも付きまとおうとする不吉の象徴満月から。どこへ行こうと不幸のどん底へと引きずり込む、この理不尽で満ち溢れた世界そのものから。

 寒さに悴み、感覚のなくなった足で、どこへ向かっているのかもわからぬまま必死に駆けて行った先――


 ドンッ


 出会い頭に、ぶつかった身体。


「……む……?」


 ガリガリに痩せた小柄な体は、鍛え抜かれた逞しい胸板に飛び込んだ反動で簡単に冷たく硬い石畳へと転がった。


「すまぬ。大丈夫か」


 大柄な、上等な服を纏った男だった。転がった子供を助け起こそうと、大きな手が伸ばされる。


 ――必死に、手を取った。


 これが、最期の賭けだから。


『――――助けて!!!』


 気付いたときには、魂が咆哮するように、喉の奥から、強く鋭い悲痛な声が飛び出していた――


 ◆◆◆


 カンッ カンッ

 街を歩くだけで、あちこちで響く鉄を叩く甲高い音が嫌でも耳に入る、騒がしい街――

 旧帝国の三大公爵家だったドミトリー家に統治を任されていたブリア領の中でも最も栄えているこの街は、別名『鋼鉄の街』と呼ばれていた。


「旧帝国軍の武器は、大半がここで造られていたのよ。ブリア領の中に、鉄鋼が豊富にとれる山脈があって、それを街で製鉄するの。奴隷小屋が存在している都市だけれど、帝都と違って、殆どが労働奴隷だと聞いたことがあるわ。鉄鉱石の採掘から製鉄の現場まで、労働力はどれだけあっても足りないくらいだもの。どうしても男が多くなる分、需要が高まるせいで性奴隷も多いと聞くけれど、帝都と違って、剣闘奴隷はほとんどいないと聞いたわ」


「……なるほど」


 黒衣の従者を伴い、ミレニアは知識を披露しながら街の大通りを歩く。

 元来ロロは、新しい知識を得ることに対し、興味を示しやすい性格だ。滔々と語られるミレニアの雑学のような話から専門的な知識まで、飽きることなくふんふんと興味深げに頷いている。


「ここは昔から鉄鋼の産地として有名だったけれど、『侵略王』と呼ばれたお父様の治世に、帝国の武器庫ともいえるこの土地の重要性が増したことで、三つしかない公爵家の一つ、ドミトリー家が直々に領を納めることになったのよ」


「その家は特別ギュンター王の信頼が厚かった、ということですか」


「えぇ。当時の当主は、お父様と同じ剣の師に師事していた兄弟弟子だったらしいわ。嫡子でも真剣に剣や魔法を学んで武力を磨くお家柄らしくてね。その血筋からは優秀な軍人を輩出することの方が圧倒的に多くて、文官になることの方が珍しい血筋らしいの。だから、幼いころから親交がある上に能力的にも十分信頼できるドミトリー家に白羽の矢が立った。軍国主義国家の"武器"庫を治めるなら、軍事に明るい者が良いでしょう?嫡子は徹底的に文官としての英才教育を施すカルディアス公爵家なんかとは真逆と言っても良いわね」


「……確かに」


 カルディアス公爵家の三男だったヴィンセントは、軍人ではあったが、お世辞にも優秀であるようには思えなかった。嫡子ではないために文官になるための教育を施されなかったとはいえ、軍事に明るいわけでもなかったのだろう。

 ロロは、その昔ミレニアに手を上げたことがある憎い男の顔を思い出し、一人静かに納得する。


「お父様は、昔、私をドミトリー家に嫁がせたかったみたいよ。当主はなかなか男の子に恵まれなかったけれど、最後にやっと生まれた息子が、私より少し年上くらいで……何度か、無理矢理お父様に連れられて、この街にも来たことがあるわ。……まぁ生憎、私は当時、女帝になりたいと思っていたからのらりくらりとお父様の要求を突っぱねていたし――お前が来てからは、さすがに支度金のない女を、三大公爵家の嫡子に嫁がせるのは、今までのドミトリー家の功績を考えても申し訳ないということで、話は立ち消えてしまったけれど」


「――――……」


「そんな顔をしないで。私は、お前を手に入れたことを一度も後悔したことはないから」


 ほんの少しだけ瞳を揺らしたロロに気付き、苦笑しながら告げる。

 きっと、ミレニアがドミトリー家に嫁ぐような未来があったら、革命に巻き込まれクルサールに命を狙われることもなく、もっと穏やかで幸せな、違う人生があったのではと思いを巡らせたのだろう。


「当時の当主は、お父様と変わらない年齢だったはずだから、生きていたとしてもかなりご高齢でしょう。家督を譲っているに違いないわ。息子のエーリク殿か、分家の誰かが、お家を継いでいるはずよ。エーリク殿であれば――私のことを、覚えていてくださったらよいのだけれど」


 幼い日――まだ父が存命で、ロロと出逢ってすらいなかったころに出逢った少年の遠い記憶を追いかける。

 帝国貴族らしい、くりっとした黒い瞳が印象的な少年だった。一族の習わしにしたがい、剣技を愚直に磨いていたせいか、その佇まいに隙はなかったが、優しそうな大きな瞳は、人の良さを隠し切れない様子で、あまり争いごとに向いている性格ではないな、と思った記憶がぼんやりとある。

 母親は、ブリア領の昔の領主を輩出していた貴族の家の出だったらしく、肌は帝都の貴族よりだいぶ明るかったと聞く。

 そのせいか、エーリク自身も少し色の薄い褐色の肌をしていて、当時から自分の肌の色にコンプレックスを抱えていたミレニアは、「この少年なら、肌の色を今ほど忌避されることはないかもしれない」と淡い期待を抱いたものだ。


「……ドミトリー家は、まだ、ブリアの領主なのですか……?」


「え?」


「軍部とのコネクションが強かったのであれば、ゴーティス殿下に従い、亡命してしまったのでは」


「あぁ……」


 ロロの至極まっとうな仮説に、ミレニアは苦笑して解説する。


「それが、驚くことに――あっさりと、エルム教を受け入れて革命軍に逆らうことなく王国領になることを選んだらしいわ。『帝国の武器庫』とまで言われた宝の山を取られて、ゴーティスお兄様はカンカンでしょうけれど、おかげで革命時にブリア領で戦闘が行われることはなく、市街にも市民にも一切損害がなかった。……お父様と親交の深い当時の当主だったら絶対にこうはならなかったでしょうから、代替わりをしているのは確実でしょうね」


「それは――味方、になりえるのでしょうか……?」


 ミレニアが、エルム教の影響を受けない新しい国家を作ると宣言して行軍していることは、周知されている。狂信的な信徒からすれば、エルムの教えを信じることのない異教徒として、排除の対象となりかねない。

 代替わりをした現在の当主がそうした人物なのであれば、ロロは警戒を最大限に高める必要がある。

 一瞬でピリッ……とした空気を纏ったロロをなだめるように笑みを浮かべて、ミレニアは口を開く。


「そればかりは、実際に話をしてみないとわからないけれど――でも、私には、この革命にまつわる一連のブリア領の決断を、責める気にはなれない。……だって、そうでしょう?今までの帝国への恩も、世話になった皇族への義理も、一族の歴史と伝統すら擲って、侵略者たるクルサールの勢力に膝を折ったのよ。優秀な者が多く、当主自身も武力を身に着け、豊かで力のあるブリア領を治めるあのドミトリー家が、よ?」


「それは――……」


「きっと、抵抗しようと思えばいくらでも出来たはず。物量で負けるはずがないし、過去の歴史を見ても、懇意にしている軍人もたくさんいたことでしょう。反旗を翻す、と表明したら、その瞬間からゴーティスお兄様は間違いなく支援してくれるでしょうから、援軍が来るまでこの要塞みたいな街に閉じこもって徹底抗戦したって良かった。あまり豊かとは言い難いけれど、少しは農地も有しているから、自領の民が生活していくだけを賄うことなら出来るはず。ひと月やふた月くらい、軽く籠城できるだけの力はあるでしょうし」


 ロロは、この街へ来るときに通った堅牢な関所を思い浮かべる。

 確かに、要塞と言っても過言ではないほどの物々しい関所だった。あの重たい鋼鉄の扉を降ろし、頑丈な鎧を纏った兵士で守りを固めてしまえば、容易に切り崩すことは出来ないだろう。


「だから、ブリア領が無抵抗で王国に従うと意思表明をしたのは、決してわが身可愛さではなく――領民を守ることを絶対の目的とした決断に思えるの」


「……戦で、民を苦しませないため、と?」


「えぇ」


 籠城するにしても、期日が見えない以上、民には少なからず苦労を強いることになる。

 そして何より、革命が起きた時点で、既に領内にはエルム教を信仰している民が一定数いたはずだ。領主が旧帝国派の領内で、新王国への反旗を翻すと表明すれば、新旧それぞれの派閥で領内で争いが起こる。革命が起きてからしばらくは、旧帝国領内のあらゆる領地で、そうした諍いが起きていたことは、ミレニアの耳にも確かに響いてきていた。


「少し、買いかぶりかもしれないけれど――でも、そうだといいと、思いたい私がいるの」


 思い浮かべるのは、『イラグエナムの武器庫』と呼ばれる土地を治める厳しい顔をした先代ではなく――将来の夫となるかもしれないと紹介された、優しく穏やかな顔をした、嫡男エーリク。

 彼が大きくなった先――この、たくさんの人々が住まう豊かな土地を治める領主として、旧帝国の柵に捕らわれるのではなく、今を生きる民を第一に考えた決断をしてくれたとしたら、いい。


 かつて『侵略王』と呼ばれた男の娘としても、それが、一番いいと、心から思えた。

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