第40話 女王の攻略⑤
すぅっと大きく息を吸い込み、「ふざけるな、没交渉だ」と感情に任せて叫びそうになって――ぐっと最後の理性で何とか踏みとどまる。
旧帝国の人間たちの言語習得のスピードは、穏便な建国を目指すならば最も重要なファクターとなるだろう。
郷に入っては郷に従え。難しい言語習得を経てまで必死に寄り添う姿勢を見せることで、現地人たちに好感を持たせる効果もあるはずだ。
(落ち着いて……落ち着くのよ、ミレニア。ラウラは、私のロロへの感情を逆手にとって、優位に交渉を進めたいだけ。交渉ごとにおいて、相手の土俵に乗ってしまうことほど、愚かなことはない……)
ふぅぅぅ……と、一度吸った息を音がするほど全力で吐き切り、無理矢理こめかみに浮かんだ青筋をなだめる。
「……姫。もしも、それしか方法がないのなら――」
「張り倒すわよ」
後ろから掛けられた控えめな声にはさすがに黙っていられずに、低い声で脅す。
「黙っていなさい。……これは、私の個人の感情の話ではないの。仮に、他の者を要求されたとしても突っぱねる」
「ですが――」
「考えても見なさい。仮に、ラウラが男だったとして――要求を呑ませたいならレティの身体を一週間差し出せ、と言われて、私が差し出すと思う?」
「そ、れは……」
強い光を宿した翡翠が、まっすぐにラウラを見据えたまま低い声で呻くのを聞いて、ぐっと言葉に詰まる。その例えを出されては、確かにこの要求をミレニアが強く突っぱねる正当性がよく理解できるが――
「ですが……俺は、男です。レティとは訳が違――」
「関係ない。一緒よ。本人が望まない関係を主の権限で強要して、従者を不幸にして、得られる利に何の価値があると言うの」
「俺は別に――」
「まさか、お前、望んでいるの?――それはそれで、別の理由で張り倒すわよ」
先ほど宥めたはずの青筋を再び浮かべて、ミレニアはロロを睨む。
肉欲に支配された不埒な関係を、これ幸いと享受したいとでも言いたいのか、この男は。
さすがに黙っていられず、視線を鋭くして容赦なくロロを責め立てた。
「お前は私の宝石と同じだと告げたわよね?……お前は、その私が最も大切にしている宝石に、べたべたと汚い手垢どころか涎や歯形まで付けられ汚されていくのを、指をくわえて黙ってみていろ、とでもいうつもり?」
「は――……いえ、その――……」
気まずそうに紅玉が揺れて、すっと視線を伏せられた。
自分は、宝石などと、そんなに高尚なものではない。もともと汚れ切っている存在だ。
ミレニアにそんな風に思ってもらえることは光栄だが、もっと粗末に扱って構わない――と言おうとしたところに、ミレニアの冷ややかな視線が突き刺さる。
「お前――まさかとは思うけれど、そうして汚された宝石を、私が再び身に着けるとでも思っているの?」
「っ……」
ぐっと言葉に詰まり、息を飲む。
その比喩が意味するところが分からぬほど鈍感ではなかった。
ラウラの元で不埒な行いをして帰ってきたところで、ロロの居場所はない――二度と傍に置くつもりはない、ということだろう。
「姫――それは――それ、だけは――」
「再び手を触れるのも、視界に収め存在を認知することすら汚らわしい石ころとして道端に捨てられたくないのなら、二度と馬鹿なことを言わないで。――二度と私の傍にいられなくなってもいいから、とにかくそこの下品な女と不埒な行いを楽しみたいのだと言うなら、好きにすればいいわ」
紅玉の瞳を揺らして、何事かを懇願しようとした言葉を遮り、ぴしゃり、とすべての反論を拒絶する言葉でロロの馬鹿馬鹿しい申し出を却下する。
取り付く島もなく強い言葉に、ロロは視線を伏せて頭を下げ、それ以上の言葉を飲み込んだ。
ミレニアがここまで言うということは、本気だろう。――もしもロロがラウラの元へ赴けば、きっと、この軍から追放されて二度と見えることは叶わない。生涯、言葉を交わすことは愚か、遠目に姿を視界に収めることすら出来なくなる。
そんな生き地獄を選ぶ勇気が、ロロにあるはずもなかった。
「聞いた通りよ。――ロロを渡すつもりはないわ。報酬の一部を前金で、と言うなら、検討しましょう。……建国までに想定していた額を一括で、と言われると、さすがに難しいけれど」
最初に現地民と接点を取るだけで、あと半年程度。そこから建国までとなると、どんなに少なく見積もっても、一年以上かかるはずだ。
そのころには、少なくとも半分程度の人間が、日常会話をカタコトでもいいから、操れるようになっていなければならない。いくらミレニアと手分けするとしても、見込める額を前金で今すぐ一括で支払え、といわれれば、二つ返事では受けられない。
「お金で支払えないことはわかっているわ。だから、ロロの身体で請け負ってあげると譲歩しているのよ?それなら今すぐにでも差し出せるでしょう。ブリア滞在中、朝も夜もなく睦み合えれば、それでいいのよ。ふふ……昔よりも、私が望むがままに酷く痛めつけてくれるようになったロロとの七日間――あぁっ……想像するだけで、身体が熱くなるわ」
蕩けた顔でハァハァと気色の悪い吐息を漏らし始めた変態を前に、ぐっと喉元までせり上がってきた罵り言葉を無理やり飲み込む。
駄目だ。痴女のペースに巻き込まれてはいけない。
「実現に至らない下品な妄想は慎みなさい。ロロは渡さないと言っているでしょう。例えば――そうね。ブリアを出る時点で、私たちの一行に残ると決断したお前の元従業員たち。お前が夜の花と表現した彼女たちに言語を習得させたときの報酬くらいなら、前金で支払ってあげてもいいわ」
元性奴隷だった彼女たちの中には、既に一行を離れたいと意思表明をしている者もいる。ブリアには少し長めに滞在する予定なので、栄えた街で久しぶりの定住もどきの体験をすれば、さらに心が揺れて、街に残りたいと言う者もいるだろう。
数に当たりを付けながら、頭の中で計算をする。
(少し予想外の出費だけれど、豊かなブリアで、何かしらの資金調達をすればいい。これから寒い地域に行くのだから、夏の装備はもうほとんどいらないでしょう。売り払えるものは売り払って――あとは、ブリア領主でもあるドミトリー公爵家の当主と、上手く何かしらの交渉を成立させられれば……)
脳内で静かに資金調達の算段をするも、ラウラはふるふる、と頭を振った。
「だめよ。そんなはした金では請け負えないわ。私は、ビジネスにおいて、基本的に割引はしないの。減額したいなら、提供クオリティを下げるわよ」
「ぐ……」
低い声で呻いて、ミレニアは押し黙る。
そうだった。……こういう、女だった。
(っていうか、ロロとの不埒な関係の重要度が、とんでもなく高いのはなんでなのよ――!)
一筋縄でいかない交渉に、ムカムカ、と本質ではないがミレニアにとっては何より気にかかる事案に腹を立ててしまう。
一括ではとても支払えない巨額を、ロロを与えれば一週間で良いと言う。
ビジネスとしては破綻しているとしか言いようがないが、”末期の快楽主義者”と表現される彼女にとっては、快楽を得ることは金を得るのと同じくらいの価値があることなのだろう。
そして、ラウラにとって、ロロと戯れるめくるめく官能の世界は、それだけの価値を持っている、ということらしい。
「ふふ。……いいわ。提供する価値に見合う対価としての金額の提示は完了したもの。あとは、貴女がどこまでの支払い能力を示せるか、というだけ。どうせ、ブリアで資金調達をしようとしていたのでしょう?返事は、ブリアを出る時まで待ってあげる」
「な――」
「結果、支払えないというなら、ロロを一週間貸して頂戴?ビジネスの対価だもの、心配しなくても、契約不履行なんかあり得ない。ちゃんと七日後には貴女の元へ返してあげる。ブリアに残ってベッドの上で愉しむもよし、先に旅立った貴女たちを追いかける馬車の中で愉しむもよし。ふふ……涎が出そう」
「そ、そんな――!」
「勿論、ブリア滞在中に早々に答えを出してくれてもいいわ。とにかく私は、最高の男と最高の悦楽を享受したいだけなのよ」
ねっとりとした流し目をロロに向けながら、情欲を隠しもしない瞳に、ミレニアは焦って言葉を重ねる。
「お、お前に心酔している兵士がいるでしょう!?彼らは喜んでお前を抱きたいはず――彼らと快楽に溺れるのではいけないのかしら!?」
「まぁ。先ほどは、従者を差し出すことはしないと言っていたのに」
「本人が心から希望している場合は別よ!」
あくまでレティを題材にしたのは、本人がそういう行為を望まない場合、という例だ。
己が破産してもいい、とにかく金を出してでもラウラと行為を重ねたいと思う男は、この一団にも沢山存在する。
妻子を持つこともなく、血気盛んな若い男たちは、例外なくラウラやその周辺の蝶たちに涎を垂らしていたし、彼女らもその男たちから小金を巻き上げては楽しんでいるようだった。
ある種、需要と供給が見合っているそこで得られる快楽で我慢することは出来ないのか――というミレニアの発言に、呆れたようにラウラは嘆息する。
「誰も彼も、中途半端で駄目だわ。あれをして、これをして、と要求したらその通りに抱いてくれるのは楽だけれど、ロロみたいに、こちらのツボを押さえて甚振ってくれる男はいないの。どこか遠慮してしまったり、てんで的外れな責め苦をしてきたり――生粋の、容赦のない嗜虐趣味の男を探しているのに……”理想の男”はやはり、そうそう見つからないわね」
はぁ、と物憂げなため息をついて、もう一度物欲しげな視線をロロに向けるのを、ミレニアは己の身体でガードする。――そんな不埒な視線で、己の宝石を汚すようなことは許せなかった。
「ろっ、ロロはお前の”理想の男”などではないわ!」
「まさか。ロロこそ、私を真に喜ばせてくれる最高の男よ。一切の容赦なく、私の痴態を見ても欲情することすらなく、ゴミを見るような目で私を詰って痛めつけられるのは、世界中どんなに探してもロロしかいないわ」
「そっ……そんなの、お前の変態性癖が見せる幻想よ!そもそも、ロロが生粋の嗜虐趣味だなんて、あるわけないじゃない!毎日毎日、あんなに被虐趣味の塊みたいな言動を繰り返しているのに!」
「…………」
ロロは、女たちが自分の性癖についてやいやい言い合っているのを視線を伏せて複雑な顔で黙って聞く。どちらも肯定し難い主張だ。
「とにかく!私は、絶対に何があっても、不埒なことをさせる目的でロロを渡したりしないから!行くわよ、ロロ!お前は絶対に私の目のないところでラウラに近づかないで!」
「はい」
踵を返して憤慨しているらしい少女に、先ほど、強い言葉で拒絶されたことを思い出し、従順に頷く。
ミレニアの傍に置いてもらえなくなるのは、ロロにとって「死ね」と命令されるよりも何百倍も辛い。
変わらず怪しい光を宿した漆黒の煩わしい視線が、ねっとりともの言いたげに絡みついてくるのをいつもの無表情で跳ね返し、ロロは静かにミレニアの後に続いてその場を後にしたのだった。
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