第15話 検証開始⑤
二日ぶりの眠りの世界で見た夢は、どろどろの真っ黒なヘドロに巻き付かれ、地面の底へと引きずり込まれる夢だった。
どんなに藻掻いても、藻掻いても、ドロドロした粘着質のヘドロはどんどんと身体に蛇のように纏わりついて、決して振り払うことが出来ない。
異臭すら放つそれから逃れようと、必死に足掻くが、まるで流砂に捉われたようにして、ずぶずぶと音もなく身体はどんどんと沈み続ける。
本能的な恐怖に従って、藻掻くようにして抗った。
無様に。
醜く。
必死に。
「っ、は――」
身体に染み付く鼻が曲がりそうな悪臭に耐えられず、必死に外の空気を吸おうと顔を空に向け、手を伸ばす。
見上げた頭上には、はるか高くに、眩しいばかりの光源があった。
清らかで。
美しくて。
純白に包まれた、染み一つない、光の世界。
(あぁ――やはり、俺には、触れられない)
こんな、吐きそうな程の異臭を放つヘドロを身に纏い、ぐちゃぐちゃに汚れた身体では――
あの美しい光には、指一本だって、触れられない。
思わず、伸ばした手を引き戻す。
それを好機と言わんばかりに、ずぶずぶと、ヘドロが巻き付いて身体を地の底へと引きずり込んで行った。
(せめて――ここから、眺める、くらいは)
ぐっと眩しさに目を眇めて、頭上を仰ぐ。
光は、平等だ。
優しく
温かく
清らかに
万物を照らして、包み込んでくれる。
(どれほど光が照らしたところで、穢れた俺の身体が、清められることはないけれど――)
それでも、このヘドロの底から、頭上の光を憧れをもって見つめることだけは許してほしい。
虫けらは、その身を焼かれると知っていても、光を目指さずにはいられない生き物だから。
「姫――……」
ずずず……と真っ黒な沼に沈んでいく身体をどうすることも出来ず、光を仰いで、そっとつぶやく。
――愛しい。
――――愛しい。
触れられないことはわかっている。――その純白を汚してしまうなら、頼まれたって触れたくない。
それでもいいから――せめて、生涯、視界の外から見つめることだけは許してほしい。
その光を脅かす、世の中にあふれる黒い影の全てから、必ず守り抜くと誓うから。
少女を狙う醜い物はすべて排除する。
大丈夫。――敵は全て、自分と同じ穴の貉だ。
どんな脅威が迫ったとしても――刺し違えてでも、守り抜く。
あの美しい翡翠の瞳が、恐怖や悲しみに捉われるところは、見たくない。
活き活きと、美しく、柔らかに輝くところだけを、見ていたい。
『あぁ――美しい。お前の瞳は、何度見ても美しいわね』
そう言って、うっとりと嬉しそうに翡翠を緩める様を、ずっと、ずっと、永遠に――……
◆◆◆
身体に違和感を感じて、ピクリと身じろぎする。
夢見は最悪。
重たい瞼を押し開け、同じく重たい身体をチラリと視線だけで見下ろす。
「――――……なるほど……お前のせいか」
身体が重いのは、半分は物理的な要因だったようだ。
これ以上なく苦々しい気持ちで、げんなりと肺の中にある空気を全て吐き出す。
「ふふ……だって、こうでもしないと、貴方、私に構ってくれないでしょう?」
視線の先――ロロの身体とシーツに挟まれるようにして、褐色の肌の美女が、下半身の上でぴったりと身体を密着させている。
体調が悪く、倒れ込むように寝台に飛び込んだせいで、そう言えば扉に鍵をかけた記憶がない。いつの間にか、末期レベルの痴女がシーツに潜り込んできていたようだ。
シーツの中で、下半身が直接豊満な美女の肌に触れている。恐らく勝手に服をはぎ取られ、夜這いを掛けられたようだ。
「どけ。――お前と遊んでやる気分じゃない」
いくら体調が悪かったとはいえ、こんな女にここまでの侵入を許してしまった自分が不甲斐ない。
夢見の悪さと相まって、不機嫌の極みで睨みつけるも、このド変態にはそれすらご褒美に感じられるのだろう。
はぁ……っと熱い吐息を漏らし、あろうことかずりずりと身体の上を這うようにして上半身の方にすり寄ってくる。
「いいじゃない。今は、
「……お前……さては、何か、薬を盛っただろう」
ラウラの戯言に付き合わず、チッと口の中で舌打ちをして追及する。
体調不良になるタイミングと夜這いのタイミングが良すぎる。ミレニアが不在のタイミングというのも、出来過ぎているとしか思えない。
ロロが睨みつけると、ぷっくりとした朱唇がつぃっと弧を描いた。
「大丈夫。いわば、睡眠薬に近いものよ。媚薬なんかじゃないから安心して?ふふ。……貴方を快楽堕ちさせるのに、薬を使うなんて無粋な真似はしないわ」
「貴様――」
だから、この女と関わり合いになどなりたくなかったのだ。
心の中で恨み言を吐いて、嘆息する。
「もう一度言う。――どけ。帰れ。お前と遊んでやる気分じゃない」
「ふふ、大丈夫よ。薬の効果はすぐに無くなるわ。すぐに気分も良くなる。――
言いながら、うっとりとした表情で、瞳に浮かんだ劣情の色を隠しもせずにそっとロロの頬に手を伸ばす。
はぁはぁと、唇から漏らされる吐息が何やらうるさかった。
「忠告はしたぞ」
「ぇ――?」
ぼそり、と低い声で告げられた言葉の意味が分からず、問い返そうとして――
ゴッ――!
鈍い音がして、次の瞬間、ラウラの身体は軽々と吹き飛ばされ、寝台の下へと転がり落ちた。
「ガッ……は……」
「姫に命令されている。――他者に、汚い手でべたべたと身体に触れることを許すな、と」
唾を吐き捨てる勢いで、嫌悪に満ちた声で呟く。
ロロは褐色美女を容赦なく蹴り飛ばした足をぐるりと回して寝台から降りる。
「ぁ……はぁ……素敵……♡」
ヒューヒューと、ラウラの喉の奥からは掠れた異音が響いている。
わき腹にクリーンヒットしたせいで、あばら骨の一つくらい、折れたかヒビが入ったかしたかもしれないが、痛みを快楽へと変換する特殊機能を持つ美女は、熱っぽい吐息を震わせるばかりだ。
「気色が悪い反応をするな。死ね、雌豚」
床に頽れたまま、わき腹を抑えて息を荒げる女に、容赦なくゴッともう一度蹴りを叩きこみ、身体を吹っ飛ばす。
狙いを定めて、わざと、入り口の近くへと。
「カハッ……あぁっ……もっと……!」
ゲホゲホと空気を求めて咳き込みながら、劣情を催していると誰もがわかる顔でロロを見上げる。
そのねっとりとした視線をきっぱりと無視して、ロロはガチャリと部屋の扉を開ける。
「出ていけ。蹴られた怪我が痛むなら、適当に光魔法遣いにでも頼め」
「嫌、嫌よ……私、貴方と今夜こそは――」
「貴様の意見なんぞ聞いていない。発情した雌犬が口を開くな」
ドガッ
「あぁっ……!」
有無を言わさず、開いたドアの向こうへと、女を蹴り飛ばして追いやると、ラウラは廊下へと転がり出てから愉悦の吐息を漏らして身体を震わせる。
「男を襲いたいなら他をあたれ。二度とするな。ぶっ殺すぞ」
身体を折って苦しみながら興奮する美女を振り返ることすらなく、バタンッと乱暴に扉を閉めて、鍵をかける。内側からチェーンを嵌めて、容易に侵入できないように施錠した。
「チッ……胸糞悪い……」
ガシガシ、と頭を掻きむしりながら、部屋に備え付けられたシャワールームへと向かう。
あの、妙な暗示を思わせる最悪な夢は、薬で強制的に眠らされたせいだったのだろうか。最近の寝不足を思えば、無理矢理にでも眠れたことは良かったのかもしれないが、正直、気分は最悪だった。
『お前は、頭の先から足のつま先に至るまで、余すところなく全て、この私、皇女ミレニアの物なのよ!!私の許可なく、べたべたと汚い手で他の女に触れさせるなんて、恥を知りなさい!』
いつか、少女に言われたことを思い出す。
早く、ラウラに触れられた箇所を全て洗い流し、綺麗にしてしまいたかった。
『私の傍にいたいなら、もう二度と、他の女に気安く頬を触らせたりしないで!』
キュッとシャワーの蛇口をひねり、頭から水をかぶって身を清める。
ゴシ、と強めにラウラに触れられた頬を手の甲で擦った。
(傍にいたい――どうか、生涯、ずっと傍に、置いて下さい……)
あの日のことは、忘れられない。
人生で初めて、明確に、ミレニアがロロに強く”執着”を示してくれた日だった。
『っ……嫌だと言っても、離してあげないわっ……お前は、私の物なのだから――!』
「姫――……」
シャワーの滝の中で、熱っぽい声が唇から洩れる。
自分は、ミレニアの物なのだ。
他者の手垢がつけられることを、主は忌避した。ならば、二度と、他の女に触れさせはしないと約束しよう。
「お慕いしています――……」
はぁ、と熱っぽいため息を漏らし、そっと胸の宝石へと唇を寄せる。
夢に暗示されるまでもなく、自分と少女が結ばれることなどありえないと知っている。
汚れた身で、少女の身体に触れることなどは許されないから――だから、せめて。
誰にも暴かれることのないこの瞬間だけでいいから――そっと、少女への愛を口にすることを、許してほしい――
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