第14話 検証開始④

 蛇のうろこのように冷たい月光が差し込む部屋の中、ごろり、と静かに寝がえりを打った。

 周囲からは、三つ分の寝息が聞こえる。月は既に高く登り、随分と夜は更けていた。


(……全く眠れない……)


 どれだけ瞳を閉じていても、一向に訪れることのない睡魔に口の中で舌打ちをして、ゆっくりと身を起こす。

 明日からは、長く馬上で過ごす日々が待っている。野営をする日も続くだろう。

 ベッドを優雅に使って眠れる貴重な機会だ。さっさと寝てしまった方がいいことは明白だが、眠ろう眠ろうと意識するほどに眼が冴えていく感覚に、ロロは静かにため息を吐いて諦めた。

 視線一つで灯りをともすことは可能だが、さすがに眠っている同室の者に迷惑だろう。物音も、なるべく立てずにおくべきだ。

 身体を起こし、何とはなしに窓の外を見る。

 蒼白い月光がまっすぐに差し込み、明かりなど無くとも十分手元は明るかった。


「――――……」


 しばし月光を眺めた後、チャリ……と自然に手が胸元に伸び、金属製の鎖が小さな音を立てた。

 そっと首から鎖を引き抜いて手の中に握り込む。

 記憶の中にあるだけで、もう、何十年――毎日、毎日、肌身離さず身に着けている飾りは、もはやこうして首から外した時の方が違和感だ。妙に肩が軽くて、首元がスースーする感覚。

 心許なさすら感じる首元に触れてから、ゆっくりと月光に透かすようにして翠色の宝石を眺める。


(今日は――一度も、あの瞳を、見なかった)


 豆粒ほどの遠さで視界に入った時から膝をつくせいで、少女の印象的な翡翠の瞳を見る機会は一度もなかった。

 こんな風に丸一日、少女の傍にいられなかったのは、もしかしたら、最初の二回の記憶――軍属になり、ミレニアを失ったあのとき以来かもしれない。

 あの頃も、こうして毎晩、眠る前に翡翠の宝石を眺めた。

 もう二度と、会えないかもしれないと覚悟して――それでも、懐かしくて、恋しくて――あの美しい輝きを、永遠に、忘れたくなくて。

 ぎゅっと手の中に握り込むと、ひんやりとした石の感触が掌に返ってくる。


(姿を見ることは勿論……声も……殆ど、聞けなかった……)


 ふいに遭遇したときに、首を垂れた頭上で、誰かと会話している声を途切れ途切れに聞くだけだ。

 最初の二回の記憶以来、こんなことは一度もなかった。

 ――一度だって、彼女の傍を離れることを良しとしなかった。

 それは、魂に刻まれた教訓が、決してミレニアの傍を離れるなと警告し続けていたからであり――募りに募った愛情が肥大化し、執着という名の醜くドロドロした何かへと変貌してしまったからだ。


(あと一週間――……長いな……)


 憂鬱な感情が湧き上がり、特大のため息となって消えていく。

 ぎゅっと握った宝石を額に押し付け、愛しい影を追いかけた。


『ロロ』


『ロロ』


『――ルロシーク』


 ふわり、と花が咲くように笑って、何度も名前を呼んでくれた。

 気まぐれに振り返っては、下から嬉しそうに大きな瞳を輝かせて、じぃっと忌まわしい瞳を眺めてくれた。


(今日は――一度も――……)


 彼女が、自分の名前の代わりに、何度も何度も呼んでいたのは「ジルバ」だ。

 不意の対面ですら、「ロロ」という愛称すら口にしてくれなかった。


(贅沢なことを――……)


 ぐっと奥歯を噛みしめて、肥大化した厄介な感情を押し込める。

 生きてさえいてくれればいいと、願ったのは本当だ。

 気が遠くなるほど何度もやり直した絶望の日々。何度も何度もあっさりと命を落とす少女を前に、ただ、彼女が息をして、心臓を動かして、この世に存在してくれているだけで尊いことだと悟った。

 広い世界にたった独りで置いて行かれる絶望は、今でも昨日のことのように思い出せる。


(今は、姫が、生きている。――生きて、息をして、鼓動を動かしているんだ。もう、他には何もいらない……)


 そもそも、墓まで持っていくつもりだった感情だ。報われることなど、夢想したことすら一度もない。

 こんな穢れた奴隷と関わって、少女の身が汚されるくらいなら――もしも、たかだか一週間、彼女の傍を離れるだけで、その清らかな身を守ることが出来るならば。


 ――ただ、この、愛しい少女を想わせる宝石を供にすることさえ許してもらえれば、もう、後は、何もいらない――


 ◆◆◆


 翌朝、出立する第一陣を膝をついて見送った。

 その後すぐに軍事拠点内を片付けて積み忘れた物がないかを点検してから、軽く隊員たちに昼食を取らせた後、ロロは第二陣を率いて拠点を後にする。

 特に獣や魔物の襲撃を受けることもなく、無事に夜には予定していた村に到着した。馬に水と飼い葉を与えて休ませ、村の外の野営で夜を過ごす者と、村の中の宿で休むものを分ける。

 今頃、ミレニアたちはもう一つ先の村でゆっくりと休んでいるはずだ。


(何事もなければいいが……)


 ロロの気がかりはただ一つ、愛しい少女の身の安全だけだ。

 道中で、何かに襲われたりしていないだろうか。体調を崩したりしていないだろうか。

 無理をして、また、厳しくどこか寂しい顔をしていないだろうか。


「おい、ロロ。こっちは問題なしだ」


「あぁ。わかった」


 副官として配置されたジルバから報告を受けて返事をする。未だに、彼から番号以外の呼称で呼ばれるのは慣れない。


「お前さんはこっちで寝るんだろう?」


「あぁ。大丈夫だとは思うが、一応、女どもばかりだ。何かあったら――」


 そこまで言って、この隊に組み込まれた女たちの顔を脳裏に描いた後、軽く顔を顰める。

 労働奴隷と、性奴隷が主なその編成。見目形のいい性奴隷たちは、普段あまり来訪者などない小さな村で特に衆目を集めていた。あからさまに鼻の下を伸ばした村人もいたくらいだ。

 万が一、夜這いでもかけられたら面倒だ――と思って、ロロを含む数人の男たちも村の中で休むことにしたのだが、今、ロロの頭には、別のトラブルの予感が渦巻いていた。


「……こっちには、トラブルメーカーがいる。御する奴が一人は必要だろう」


「ハハッ……帝国のお姫様に続き、夜の女王様にも気に入られてるなんざ、色男はさすがだねぇ」


「潰すぞ」


 揶揄する声にビシッとこめかみに青筋を浮かべて、低い声で脅す。

 こちらの隊には、トラブルメーカーことラウラがいた。

 彼女は、王都を出立してから、隊の男たちにちょっかいを掛けては手玉に取り、快楽の沼に引きずり込んでは、何かしらの新しい情報を得たり、手足のように動かす手駒として手綱を握ったりとやりたい放題だ。

 何度かミレニアに苦言を呈されているが、本人の趣味と実益を兼ねたそれらの行動を制限することは難しく、最後は、妻子を持つ者には決して手を出さないことと、相手が拒否を示した場合に無理に手練手管で篭絡することはしないこと、の二つを約束させて手打ちとなった。

 おかげで、歳若い労働奴隷や剣闘奴隷は、軒並み過去一世を風靡した性奴隷の虜となって、一部風紀が乱れに乱れている。

 ラウラだけは、夜這いを掛けられる心配よりも、彼女自身が目を付けた男の部屋に夜這いしないかどうかを心配する必要があるだろう。

 正直、もう二度と生きているうちには関わり合いになりたくないと思っている女だが、ミレニアがこの隊にラウラを入れると決めて、最低限の規律を持って統治したいと思っているならば、仕方がない。ラウラに、最後の最後、無償で言うことを聞かせられるのは、現状ロロだけなのだ。


「何かあれば風で知らせろ」


「へいへい」


 ジルバの軽口に付き合う義理はない、とでもいうようにばっさりと会話を打ち切ると、皮肉家の男は軽く肩をすくめて苦笑し、踵を返した。

 それを見送ってから、目頭を押さえるようにしてぐっと瞳を閉じる。


(何だ……?さっきから妙に目が霞むような気がする。頭が重い……)


 昨日、一昨日と、二日間ろくに眠れなかったことが要因だろうか。

 たった数日眠らなかったからといって体調を崩すような繊細な神経をしているつもりはないが、ミレニアと丸二日間引き離されて、心に強烈な負荷がかかっているのは疑いようがない。


(どうせ、今日は姫がいるわけでもない。さすがに、何かがあって女の部屋から悲鳴が上がれば起きるだろう。……さっさと寝るか)


 ぼんやりと靄がかかるような感覚を覚えた頭を振りながら、重いため息を吐く。

 今日がミレニアと離れている日で、よかった。――こんな体調不良を抱えてミレニアを守るなど、不安しかない。

 有事の際に自分が上手く動けず、少女の身に危険が迫ることなど、到底受け入れられない。

 もう何回も繰り返した、あの悪夢のような光景をなぞるようなことは、絶対に。


「チッ……」


 口の中で舌打ちして、己に割り当てられた部屋の扉を開ける。体調を崩すなど、何年ぶりのことだろうか。少なくとも、ミレニアの傍に控えるようになってからは一度もないはずだから、奴隷時代以来のことだ。


(一晩寝ても治らなければ、誰か隊の中の光魔法遣いにでも頼んでみるか)


 ミレニアであれば、薬師の知識を持って最適な魔法を施してくれるだろうが、元奴隷のたどたどしい光魔法がどこまで有効かはわからない。しかし、何もしないよりはマシだろう。


 それにしても、本当に頭が重い。身体も重い。

 おざなりに上着と靴を脱いで、倒れ込むようにして安宿の寝台へとダイブする。


 チャリッ……と首元の鎖が擦れて小さな音を立てた。


「姫――……」


 彼女の顔を見れば、こんな体調不良など、気合一つで吹き飛ばして見せるのに。


 ついにぐるぐると回転し始めた視界に顔を顰めて、重たい手足を引きずり込むようにしてシーツの中に潜り込み、瞳を閉じる。

 そっとシーツの下で胸の宝石に触れると、外気に冷やされた固い感触が手に返ってきた。

 

「会いたい――……」


 熱に浮かされたときの譫言のように、そっと唇から弱音が漏れる。


 その言葉を最後に、すぅっと意識が白濁して、夢の中へと吸い込まれていった。

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