第13話 検証開始③

 大浴場に浸かり、小さく身じろぎすると、ちゃぷ……と小さな水音を立てて俯いた視界いっぱいに波紋が広がって行く。

 朦々と湯気が立ち込める浴室は、ミレニアが帝都に公衆浴場を作ったことで国中で一大ブームとなった大浴場で、十分な広さが設けられていた。

 今の時間は戦闘員たちの入浴時間。今頃、必死に水と火の魔法使いたちが湯を熱く清潔に保つために細やかな魔力調整をしているのだろう。

 ぼんやりと目の前に広がっていく紋様を眺めてから、ロロはゆっくりと瞳を閉じて、今朝からの一日を振り返った。


(……想像以上に、堪える……)


 ミレニアの前で膝をつくこと自体は、何の苦もない。顔を上げるなと言われることも、口を利くなということも、視界に入るなと言われることも、そんなことで尊厳が傷つくこともない。それを要求されても当然だと思って生きてきたのだ。

 あの女神と自分とは、生きる世界が違う――それは、初めて出逢ったときから、わかっていたこと。

 だが――


(……視界の外でもいいから、傍に置いてもらえないのは、想像以上に堪えた……)


 ”初めて”の人生で少女に出逢い、『傍にいろ』と命じられて、ロロの本当の人生が始まったのだ。

 何度人生を繰り返そうと、ずっと、生涯、傍にいるつもりだった。そうして、いつかこの身を挺して少女の命を守るのが、自分の唯一の死に方だと、もう何十年も前からずっと、決めている。

 それなのに、「傍に寄るな」と言われるのは、想像以上に精神的にキツイものがあった。


(今日の昼も――……)


 ぼんやりと、昼間の出来事へと想いを馳せる。

 朝から予定されていた訓練に顔を出し、対魔物用の戦闘方法を戦闘員たちに教えながら、ガントと協力して戦いの癖や相性を見極めていった。

 紅玉宮にいたころも、そうした時間を過ごすことはあったから、その時は仕事に没頭していられた。

 だが、訓練が終わって井戸に水を飲みに行き、食堂に向かおうとした先で――視界の端に、少女を見つけた。

 どんなに豆粒ほどの小ささだったとしても、ミレニアの存在を見間違うはずがない。

 視界にそれが入ってきたが最後、まるで磁石に吸い寄せられる鉄のように、勝手に瞳が少女の姿へと縫い留められてしまうのだ。

 一度視界に納めたら、もう、離せない。

 それくらいに、恋しくて――愛しくて。

 無意識で気配を消して、いつものようにそっと人知れず観察したくなったところで、昨夜の約束を思い出す。

 ぐっと苦い気持ちを飲み込んで、断腸の想いで瞳を閉じて視界から少女の姿をかき消し、その場に膝をついて首を垂れた。


(代わりの護衛がジルバというのが、また――……)


 自分とは対極にいる軽薄で不敬極まりないへらへらとした男の顔を思い浮かべ、かき消すようにして湯を手で掬って乱暴に顔を洗う。濡れた髪をざっと手櫛で掻き上げ、我知らず重いため息が出た。


 昼間のジルバは、案の定ミレニアに敬語の一つも使わず、馴れ馴れしさの極みとしか言いようのない態度で無駄口を叩きながら近づいてきた。

 久しぶりに他者に”道具”と揶揄され、何やら挑発したがっている気配にはすぐに気づいた。

 だが、いちいちジルバの玩具になってやる義理はない。第一、道具と揶揄される程度、どうということもない。

 せいぜい――ミレニアがいい気分をしないだろうと予想されたから、思わず身じろぎをしてしまっただけだ。

 案の定、それまで等間隔で大股で歩いていたらしい少女の歩幅が短くなり、弱々しくなった。

 直接的ではないものの、自分のせいでミレニアの心を陰らせてしまったことが不甲斐ない。――こんな汚れた存在など、道具だと詰って捨て置いてくれればいいのに。

 ”検証”するなどと強がるくせに、心の底ではロロへの甘さを捨てられない主に呆れながら、彼女らしい甘さと優しさについ惹かれてしまう自分が愚かしい。

 瞳を閉じたまま、二人が通り過ぎるのをじっと待とうとしたところで――


「!?ジルバ!?」


 少女の、驚きにひっくり返った声がした。

 思わず未知の脅威から少女を庇うために、条件反射で立ち上がり前に出そうになるのを、寸でのところで理性が引き留める。ジャリッ……とブーツの裏が耳障りな音を立てた。


(何だ――!?何が起きた――!?)


 頭を伏せたまま、目一杯瞳を見開いて視界を広げ、見えない世界を探ろうとすべての感覚を研ぎ澄ませる。

 少女が驚くような何かが起きたのは間違いない。

 もしも、物騒な音の一つでも聞こえたら、その時は命令など無視してすぐさま剣を手に飛び出していただろう。頭を伏せたまま、何が起きても対応できるよう、自然と腰の剣へと静かに手が伸びていた。

 しかし、二人はそれ以降も何やら暢気に会話をしながら近づいてくる。

 ジルバが、ことさらロロを煽ろうと蔑んだ声を投げて来るが、ミレニアは取り合う様子がない。


(――危険がある、わけでは、ない……)


 会話が出来る余裕があるということは、そういうことだろう。

 ほっと息を吐いて、緊張を解こうと、して。


「――!」


 頭を伏せた目の前を通り過ぎていく、二人――の、足元だけが、視界に入る。

 その距離は――どう考えても、べったりと身体を寄せ合うほどに密着しているとしか思えぬ近さだった。


(姫、の――身体、に――)


 目の前を通り過ぎていく足を見ながら、脳が一瞬現実を処理できずにフリーズし――


「よそ見すんなよ、嬢ちゃん」


「え?」


「ったく……こんな別嬪さんを袖にするなんざ、アイツの趣味はホントわっかんねぇな。ほら、こっち向けって」


 カッ――と眼の奥が沸騰した。

 気づけば、剣を抜いて問答無用でジルバの眉間へと突きを放つ。

 ミレニアの肌を――髪の毛一本すらも――決して刃で傷つけぬよう、針の穴を通すような唯一の軌道を描いて、白刃がまっすぐに軽薄な男の脳天に吸い込まれていった。


 ――許せなかった。


 ミレニアは、清廉潔白な泉に住まう、女神に等しい雲上人で。

 ――ジルバは、ロロと同じ、世界の肥溜めからやって来た、地を這う虫けらで。

 そんな穢れた存在が、純白の美しさを誇る少女を汚すことなど、どうしても許せなかった。


 ロロが生きている意味は、どんなものからも少女を守ること。

 少女の命を脅かす敵からはもちろん――少女の美しさを汚す不届き者からも、守るのだ。


 ――その、不届き者の中に、己も共に含まれているとしても。


 ギチチッ……と刃が耳障りな音を立てる。少女の清らかな身体を汚す敵に、容赦をするつもりはなかった。

 一度引き剥がしたその距離から、一歩たりとも近づけさせまいと、殺気に似た怒気を発して刃を引くことなく睨み据えていると――


「ジルバ。……早く、刃を降ろさせなさい」


 少女の声に、息を飲む。

 昨夜の少女の言葉が、蘇った。


『何か用事があっても、基本的には誰かを通して話しかけて』


 少女は、それを貫いただけだ。

 穢れた奴隷と、高貴なる存在たるミレニアが、直接会話を交わす必要などない。振り返る必要すらない。視界に汚らしい奴隷を入れるなど、言語道断だからだ。

 ロロに何かをさせたいなら――ロロではなく、周囲の従者に命ずれば、いい。

 少女の言外の主張をこれ以上なく突き付けられ、仕方なく刃を引いて剣を納め、もう一度膝を突き、首を垂れる。頭を下げる前、もう一度殺気を込めてジルバを睨むことだけは忘れない。

 軽く肩をすくめた後、ジルバはさすがにもう腰に手を回すことなく、その場をミレニアと連れ立って離れて行った。


 その後は、さすがに白昼堂々刃を抜き放つロロを刺激するのは辞めたのか、ミレニアに窘められたのかは知らないが、不意にミレニアと遭遇してもジルバが昼間のような無礼を働くことはなかった。しかし、二人が通り過ぎるまでずっと、ピリピリとした空気を纏わせ、全力で威圧していたことに気付かぬほど鈍感でもないだろう。


「……出るか……」


 口の中で呟いて、ザバ、と湯から立ち上がる。

 湯船に浸かってゆっくり過ごすなど、いつぶりだろう。――いつだって、ミレニア中心に生きるロロは、いつでも護衛任務に戻れるように、常に烏の行水だった。こんなにもゆっくりと風呂で考え事をしたのは初めてだ。

 浴室に、ジルバの姿は見当たらない。おそらく、今までのロロのように、今日はジルバが烏の行水で済ませるのだろう。

 頬と同じ焼き印が押された左腕を持ち上げ、鬱陶しそうに濡れ髪をかき上げながら出口へ向かう途中、ふと周囲の視線に気が付く。

 すれ違う者たちや、湯船の中でゆっくりしている者たちが、じぃっとロロを凝視しているのだ。


「……なんだ。男に身体を見られて喜ぶ趣味はない」


 たまたま近くを通り過ぎようとした男を捕まえ、紅い瞳を鋭くして、不機嫌に呻く。ピリッ……とした空気が浴室中に張りつめた。

 血潮を思わせる不吉な光に睨まれた歳若い男は、ヒッと小さく悲鳴を上げてブンブン、と慌てて首を振った。


「わ、わわわ悪い!そ、そのっ……噂には聞いてたが、あんまり凄い筋肉だから、皆珍しいんだよっ……」


「はぁ……?」


「アンタ、いつもマントで身体を覆ってるから、ギャップが凄いって言うか……!」


 慌てた男の言い訳に、ロロは思い切り怪訝な顔をする。

 ミレニアの専属護衛になってからは、いつもマントを着用している。身体を全身すっぽりと覆うそれは、確かに、その内にあるロロの肉体の線を隠していただろう。


「誰でも死ぬ気で訓練すればこうなる」


「ぅ……嘘つけ……」


 フン、と吐き捨てるように言って手を離したロロに、もごもごと男は口の中で呻いた。

 有名な芸術家が彫った彫刻だと言われても信じるくらいの理想的な筋肉美は、男であれば誰もが見惚れるくらいの見事さだった。ただの訓練でその理想形が形作られるとは思えない。


「馬鹿馬鹿しい……野郎の身体を羨ましそうに眺める暇があるなら、鍛錬の一つでもしておけ」


 チッ、と不機嫌を露わに舌打ちしてから言い捨てて、ロロは浴室の扉をピシャンと閉じて出て行った。


 ◆◆◆


 その後、浴室では、残された男たちだけで会話が交わされていた。


「いやー、びっくりした……殺されるかと思った。あの眼、間近で見るとやっぱマジでこえぇ……」


「お姫さんは、あれを綺麗とか言ってるんだろ?ほんとに信じられないな」


「確かに黙ってるときの顔は、人気の性奴隷かと思うくらい綺麗だけどな」


「性奴隷があんなゴリッゴリの実用的な筋肉つけてるわけないだろ」


「いや、つい見ちゃうよな、あれ。首筋から胸から腕から背中から腹から足まで、全部隙が無さ過ぎてビビる」


「な。マント着てた時は、顔が綺麗なせいで、『これが伝説の66番?』って半信半疑だったけど、身体見たら実感する。今日の訓練で、俺、剣であっさり吹っ飛ばされたんだけど、滅茶苦茶納得だわ」


 うんうん、と頷き合う声が響く。


「……でもさ」


「ん?」


「伝説の剣闘奴隷とまで呼ばれた男が、枷も無いのに、なんでお姫さん相手にあんな奴隷根性丸出しの振る舞いしてるわけ?」


「あぁ――今日の、アレ。どんなに遠くても、姿が見えるとその場でマジで跪いて頭下げてるもんな。ビビった」


「そりゃ、あれだろ。――惚れた弱み、ってヤツだろ」


 一瞬、不自然に会話が途切れる。

 ぴちょん……と水滴が落ちる音が響いた。


「……いや。いやいやいや。その話題ぶっこむ?今?」


「ぶっこむも何も、一目瞭然じゃん」


「いや……まぁそうだけど……」


「でも、確かお姫さんの方が言い寄ってるのを、アイツが拒んでるんじゃなかったっけ?」


「そうそう。『俺は奴隷だから姫には相応しくない』っつって」


「いやいや、もう身分は気にしないようにしよう、ってお姫さん本人が言ってんじゃん。俺らだって、その考え方が気に入ってついてきてるわけだし。アイツ、この一行に属してんのに、まだ身分制に捉われてるわけ?」


「でも、元帝国貴族のガントさんには敬語使ってないから、単純に身分制度に拘ってるわけでもないんじゃないか?」


「じゃあ、お姫さんにだけ?」


「まぁ、確かに俺らの本来の身分を考えれば、恐れ多すぎるって気持ちはわからなくはないけど……あんな美人に好きって言われて、身分なんて気にしないから結婚しよう、なんて言われたら、俺だったら舞い上がって全力で自慢しまくるけどな」


「何でも、自分は一生従者として傍にいられるだけで幸せって言ってるらしいぞ。今まで、お姫さんに持ち上がった縁談にも全く反対しないどころか、積極的にくっつくように進言したりうまくいくようにアシストしたりしてたらしい」


「えぇぇ……?着けてんのに?」


 ぴちょん……

 再び、不自然な間が空く。


 全員が、つい先ほど目をやってしまったロロの裸体を脳裏に思い描く。

 ロロの身体をつい目で追ってしまった理由は、確かに男なら誰もが見惚れるくらいの完璧な造形の筋肉美に目を奪われた、というのも事実だが――

 ――きっと、本当は、誰もが別のところに視線をやっていた。


 芸術的な筋肉美を晒す褐色の胸板の上に無造作に垂らされた、傷だらけの肉体には似合わぬ――大粒の高価な宝石の首飾り。

 とろりとした蜜のような翠色の宝石は、誰が見ても高級品だとわかる設えで――当然、風呂場に身に着けて来るような物ではない。

 だが、青年は、当たり前のようにそれを身に着けたまま風呂に入ってきた。

 じろじろと周囲の人間に奇異のまなざしを注がれても、それが要因だと思い至らないくらいに、胸元にそれが下がっているのは、彼にとってもはや当たり前になっているのだろう。


 ――その宝石が何を連想させる物か、わからぬほど勘の鈍いものはさすがにいない。


「……俺、首根っこ掴まれても、さすがにあの場で、宝石には言及できなかったよ……」


「そりゃそうだろ……あんな不機嫌の塊のロロを相手に、んなこと言える空気じゃなかったし……」


「でも、全っっ然気付いてなさそうだったよな。宝石着けてることすら忘れてんじゃね?」


「そういや、訓練で剣を交えた時も、襟元で何か光ったなって思ったんだよな。あれ、首飾りの鎖だったのか。今日はマントじゃなかったから、よく見えた」


「えぇぇぇ……戦闘中もずっと着けてんの?もしかして寝る時も?それはさすがに――執着ヤバくね?」


 一人の発言に、しん……と沈黙が落ちる。

 ――真理を突きすぎたのかもしれない。


「……まぁ、あれだ。『伝説の剣闘奴隷』だからな。俺たち凡人にはよくわからん感性を持ってるんだろ」


 一瞬、伝説と謳われた青年の背筋が寒くなるほどの執着に思い至ってしまった男たちは、風呂の中にいるのに、ふるり、と一度身体を振るわせた後、もっともらしい軽口を叩いて、早々に会話を打ち切ったのだった。

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