第9話 勘違い?④

 すっぽりと世界が夜の闇に覆われたころ、ミレニアは軍事施設の一室――旧帝国時代には司令官室と呼ばれていた部屋で、風の魔法使いに湯上りの髪を乾かさせながら、レティが持ってきた薬草茶を口に運び、手元の書類に視線を注ぐ。

 ふわりと香る茶の香りは、集中力を増す効果があると言われる薬草を煎じた独特のものだ。


「予想外に薬草がよく取れそうね……馬車酔いに効く薬が大量に作れそうだから、これから先は非戦闘員に馬車の中で作業をさせやすくなりそう……」


 ぶつぶつ、と呟く横顔は真剣そのものだ。視線を注いでいる先は、昼間土の魔法使いたちが裏の林で採ってきた薬草の種類の一覧表だ。デニーとレティが中心になってまとめてくれたものを、こうして眺めて、どの薬をどれくらい作るか計算し、ミレニアは手元にメモしていく。

 すると、コンコンと控えめに扉がノックされた。許可を出すと、白髪交じりになった元紅玉宮の古株バトラーであるグスタフが入室してくる。


「拠点に残されていた物資の在庫確認が終わりました。商隊から仕入れたものと合わせて一覧にまとめましたので、ご覧ください」


「ありがとう、グスタフ」


「カドゥークは、ここから滞在期間中、めいっぱい食料を保存食へと変えていくとのことです。ここに滞在中の食事の分もありますから、食品の欄は、ここを出るときにもう一度正しく改めます」


「そう。ありがとう。お前がいてくれてとても助かるわ」


 差し出された一覧表を手に取りながら、従者を笑顔で労う。有能なバトラーたる彼は、こうしてかゆいところに手が届く雑務を、こちらが指示するまでもなく請け負ってくれるから助かる。商隊との交渉も、わざわざミレニアが顔を出さずとも安心して任せられるほどだ。


(つくづく、私は人に恵まれているわね)


 ガントも、グスタフも、カドゥークも、デニーも、ファボットも。紅玉宮の古株従者たちは、いつだって、皇女という肩書すら無くしてしまったミレニアのために、惜しみなく力を貸してくれる。彼らがいなければ、どれだけこの行軍の難易度が跳ね上がっていたことか。


「ミレニア様。御髪が整いました」


「ありがとう。今日は下がってくれて構わないわ」


 レティに見守られながら魔法で髪を乾かし終えて櫛で梳き終えた元労働奴隷の少女に許可を出す。隣で優雅に礼をするレティに倣うようにして、ぎこちない礼をしてから二人でしずしずと立ち去っていく女たちを見送り、ミレニアはふ、と感心したようにため息を吐いた。


(たった半年で、よくぞ……と感心するわね。基本的に、奴隷たちはもともと勤勉なのかしら。覚えがいい子が多いわ)


 元々敬語や礼儀作法がしっかりしているレティのような奴隷は珍しかったが、ミレニアが『自由の国』を作ると宣言してから行軍に参加すると表明した奴隷たちは、ミレニアたちが物資調達などで慌ただしく準備に追われていた帝都での半年の間に、過去に紅玉宮に従事していた従者たちに教わって、最低限の知識を仕入れて、たどたどしくはあるものの、振る舞いを改めていた。


(元来、何かを学ぶということ自体が嫌なわけではないのでしょう。ここには、失敗したからと言って鞭でぶつような者はいないから、馬車の移動時間を使いながらゆっくりと、己の興味関心に沿って学ぶことが出来るのも大きいでしょうね)


 奴隷たちの根底にあるのは、ミレニアに対しての敬意だ。

 過去紅玉宮に従事した奴隷たちが、元奴隷の身でありながら『人間』として扱われ、ミレニアの信頼を得ている姿に憧れを抱き、己もそうなりたいと、必死に学んでいるのだろう。


 誰も彼も、他者から「ありがとう」の一言を聞いたことがないような者たちばかりだった。名前を与え、仕事を与え、よく出来れば手放しでほめて感謝し、うまく出来なくても責めることなく優しく教えてくれるミレニアに、心酔するようになるのは一瞬だった。

 勿論、能力の差はあるため、それぞれの水準は異なるが、誰も彼もがミレニアの信頼を得たいという欲求を持ってこの行軍に参加していることだけは共通している。


「グスタフ。ここの書庫は覗いてくれたかしら?」


 手元の書類から目を上げぬままに声をかけ、カップの茶を飲みほしてからソーサーに置く。

 グスタフは何も言わずに優雅な所作でポットから空のカップにお代わりを注ぎながら口を開く。


「はい。周辺の詳細な地図はもちろん、魔物討伐の出兵記録がありました。どこにどんな魔物が出たのか、詳細まで記載されていましたので、今後の参考になるかと」


「そうね。確か、次の拠点までの道のりでは、大橋を通らなければいけないはず……今の大所帯では一気に渡れないわ。途中にある村も、非戦闘員を一気に休ませられるほどの宿があるとは思えない規模だし――出立の時は、隊の編成を考えて、大きく二つに分けるべきでしょう。魔物との戦闘経験が豊富なガント大尉とロロを中心に、明日から訓練を兼ねて実力を測らせるのがよさそうね」


「はい。……期待していた、北方地域に関する記述は、本日ざっと見た限りでは多くなさそうです。明日以降、詳細に見てまいります」


「そう。……出来れば、言語に関する記述がある書物があるといいわね。意思疎通がうまくいかないのは困るわ」


 ふぅ、と憂鬱そうなため息をついて、ミレニアは書類を机に置いてから、湯気の立つカップを持ち上げ、こくりとのどを潤す。

 北方地域は、言語体系が帝国とは異なると聞いている。

 勿論、物流を中心とした最低限の交流がある以上、向こうにも帝国の言語を話せる人間はいるだろうし、探せば帝国にも北方地域の言語が堪能な者もいるかもしれない。だが、少なくとも、今の行軍に従事している者たちの中には見当たらなさそうだ。


(可能性があるとしたらラウラだけど――あの調子だから、情報を引き出す難易度が高いのよね……)


 馬車の中にあっても、むせ返るような色香を漂わせて周辺の男たちを惑わせては楽しんでいる素振りの褐色美女を思い出して思わず眉間に皺を刻む。

 ラウラは己のビジネスにはどこまでもシビアな女だ。金か快楽を引き換えにしない限り、ミレニアたちに協力することはあり得ない。


(かといって、ロロを差し出すなんてありえないし……軍資金から自由に使える金がどれくらいあるか、本気で考える必要があるかもしれないわね)


 ロロが再びラウラを痛めつければ、きっと彼女は、またいつかのように、雌犬よろしく浅ましく腰を振って問われるがまま好きなだけ情報を与えてくれるだろう。

 ロロに頼めば、表情一つ変えることなくそれをしてくれることは容易に想像がつくが、あの下品な視線で嘗め回すようにロロを眺められる嫌悪感が、どうしてもミレニアには耐えられない。


 たとえるなら、大事な大事な宝石を唾液塗れにされるような、不快感。

 いつも顔を見るたび、何か言いたげな余裕綽々のねっとりした視線を注いでくる褐色美女に、ミレニアは鉄壁の無表情で跳ね返してきた。


 ――絶対に、彼女を喜ばせるような取引はしない。


「グスタフ。明日は、軍資金の帳簿整理をお願い。書庫の中身を改める作業は、私が実際に見ながら手が空いた者たちと共に行うから」


「かしこまりました」


 すっと身体を折って、初老のバトラーは静かに拝命する。


「ところで、ミレニア様。もう十分に夜も更けてまいりました。そろそろお休みになられては」


「まぁ。もうそんな時間かしら」


 慌てて外を見ると、煌々と月が外を照らし、向かいの兵舎は全て明かりが消えて寝静まっているようだ。昼からてんやわんやで働いた者たちが、ゆっくりと身体を休めているのだろう。


「昔から、ミレニア様は集中すると時を忘れてしまうことがございます。……もう、妙齢の淑女なのですから、あまりお転婆を繰り返しているわけにもいかぬでしょう」


「むぅ……グスタフの小言は、優しいけど厳しいから困るわ」


「恐れ入ります」


 親子ほど年の離れた初老のバトラーは、幼少期からミレニアを見てきた一人だ。決して声を荒げるようなことはしない男だが、優しい声音で、甘くない指導をしてくるのが困ったところだ。何となく、聞かざるを得ない響きがある。


「もしもここで寝落ちても、ロロが運んでくれるわ」


「まさか、好意を告げた相手に、意識を失った状態で寝室まで運ばせると?……ミレニア様、あまりにも迂闊すぎます。男という生き物を軽視し過ぎです」


「まぁ。……お前は、ロロが私を寝台に運んだ先で、何かがあると思って?」


「それは――……」


「むしろ、何かがあったら奇跡だわ。あのロロが、私を、女として見て、襲い掛かるわけでしょう?ふふっ……そんなこと、とてもじゃないけど想像できない」


 そんな気概があるなら、大歓迎だ。既成事実があれば、責任を取れと結婚を迫りやすくなる。

 クスクスと可笑しそうに笑い声をあげるミレニアを見て、グスタフは苦い顔で口を閉ざす。

 淑女としての自覚と危機感を持てと諭したい気持ちと、確かにロロがそんなことをするとは思えないという複雑な感情。

 そもそも、手を触れることすら厭うロロが、ミレニアの身体にそういう意図で触れるなどという状況が、全く以て想像出来なかった。

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