第4話 あと、二年②
それから、奴隷解放施策が完成に近づくにつれて、書斎で寝落ちる頻度が高くなり、そのたびにロロが寝室へと運んでくれた。
風呂上がりの石鹸の香りを漂わせながら薄い素材の寝間着を纏って寝落ちているにも関わらず、相変わらず手出しの一つもする気配のない護衛兵に、時折理不尽な怒りを覚える。
(少しくらい意識しなさいよ……!私だって、少しずつ大人になっているんだから……!)
二次性徴が始まり、膨らみ始めた慎ましやかな胸を見下ろし、むむむ……と唸る。
だが、そんなことに悩んでいられる幸せな日々は、あっという間に終わりを告げた。
ギュンターの崩御。
カルディアス公子との縁談破棄。
ディオルテと名付けた少年と――彼の尊い犠牲を払って救われた命。
削減される紅玉宮の予算。暇を出さざるを得ない従者たち。
兄から向けられる、直接的で隠しもしない悪意と――避けられぬ、死の運命。
(どうせ、生きていても、”未練”なんてない……)
いつしか、ミレニアは達観したようにそう考えている自分に気が付いた。
このまま生き続けたとして、自分にはどんな未来があるのだろう。
兄に疎まれ、従者には十分に給金を出すことも出来ず、縁談を望むことすら出来ない。
――かといって、愛する
それは、彼を引き取り、手元に置くと決めていた時からわかっていたことだったはずなのに、弱った心にその現実は、思いのほか酷く堪えた。
(第一、ロロには、既に交流を深めている元恋人がいるのだから……)
毎度毎度、”お遣い”の度に不快な香りを纏わせて帰って来る男を前にすれば、心がぎゅっと締め付けられる。
甘ったるく、大人の色香を思わせる香り。
自分には逆立ちしたって似合わない香り――……
(せめて皇女として、誇り高く、死ねるなら――)
どうせ、心に描いた夢が何一つ叶わないというのなら――最期まで、ロロが、胸を張って誇れる主であり続けたい。
せめて、「自分はかつてあの女に一時期仕えていたのだ」と、ミレニアの死後も誇らしく口にしてくれる主でありたい。
生涯、彼に女として見てもらうことは出来なくても――「主としては誰よりも魅力的だった」と、彼に、言ってほしかった。
それだけが、死を運命づけられ、受け入れると決めたミレニアが抱いた、唯一の願い。
――だが、運命は予期せぬ方向へ転がり始める。
クルサールと名乗る青年からの突然の求婚。
紅玉宮に雇われた奴隷の従者たち。
どんどん外堀を埋められて、最後はクルサールの申し出を受けざるを得なかった。
(正直、本当に気が進まないけれど――だけど、私のこの行動で、救われる命や心が、あるのなら)
そうして再び、夜遅くまで調べ物を繰り返す日々が始まった。
不可思議で全く理解しがたい属国の風習を理解しようと、専門書を読み解く日々。
寝落ちてロロに寝室に運ばれることも、珍しくはなかった。
(温かい――……)
身体を抱えられて、覚醒する割合は、半々くらいだ。仮に覚醒しても、意識は夢と現が混濁していて、判然としない。
(ロロが、緊急時でもないのに自分から手を触れてくれる、貴重な機会だから――)
起きてしまうのが、勿体なくて。
きっと、目を覚ませば彼は、あっさりとミレニアを下におろし、その場で礼をして私室を立ち去る。それがわかっているから、仮に抱えられたと意識の片隅で理解しても、甘えるようにそのままにしていた。
いつも、いつも、完璧な主でいようと気を張っているが――
――眠っている時なら、多少甘えても、許されるのではないか。
そんな、淡い期待を心に抱いて、今日もロロの体温に身をゆだねる。
愛しい。
――愛しい。
世界で一番愛する男の腕の中にすっぽりと収まっていられる安心感と、幸福感。
あぁ――もう、このまま、明日なんて、来なければいいのに――
◆◆◆
だから、その日も、眠っていることを理由に、甘えてしまったのだ。
「やれやれ……」
いつもの馴染んだ声が、呆れたようにつぶやくのを、ふわふわとした意識の片隅で聞く。
(ロロが、こう言ったら、きっとそろそろ――)
「……失礼します」
(ほら、やっぱり)
ふわっと危なげなく抱き抱えられる、もう慣れた感覚。鍛えられた逞しい両腕も、厚い胸板も、全く不安を感じさせない。
「ん……」
(……大好き)
夢の中で呟いてから、身じろぎをする。
「……油断しすぎだ」
何やら、いつもと違って、苦い声が聞こえた。
(……油断……?なんのこと……?)
ふわふわと雲のように漂う寝心地は、いつも通り最高だ。意識を完全覚醒させることはなく、何度も途切れては浮上し、浮上しては途切れて、最高の惰眠を貪る。
ふわりと鼻腔を擽るのは、あの不愉快な香水ではなく、愛しい彼自身の落ち着く香り。
現との波間で見る夢は、今日の最高の光景だった。
憧れていた、デビュタント。
叶うことはないと思っていても――昔からずっと、ロロと、踊りたかった。
将来を誓う相手として、ロロを伴ってダンスホールに入ることが出来たら、どんなに幸せだろうと、どれだけ妄想したか、わからない。
ロロは、帝国一の武人だが――ミレニアは、帝国一の美丈夫でもあると信じて疑わない。
この美しい宝石のような瞳を持った、帝国一の美丈夫を、己の生涯の伴侶として伴い、社交界に見せびらかしたい。羨望のまなざしを受けながら、デビューダンスを踊りたい。
中には、奴隷と踊るなんて、などと蔑む輩もいるだろうが、構わない。
こんなにも美しく、頼りになる男が、自分が愛した男なのだと――もしも、皇女としての身分も何も考えず、口にすることが出来たら、どんなに幸せだろうか。
(勿論、全部は叶わなかったけれど――)
それでも、ロロは、踊ってくれた。
断られると思ったのに――そっと、遠慮がちに手を取って、完璧にエスコートしながら、憧れのデビューダンスを、踊ってくれたのだ。
(もう……クルサール殿のところに、嫁ぎたくなくなってしまったわ……)
満天の星空の下で踊った時間は、十五年の人生で一番キラキラ輝いていた。
これから、好きでもない男の元に嫁がねばならないことが、辛くてたまらない。どれだけ傍にロロがいてくれても、死ぬその瞬間まで――いや、その瞬間ですらも――彼に想いを告げることは叶わないという現実が、キリキリ胸を締め付ける。
「人の気持ちも――知らないで」
(……気持、ち……?)
現に浮上した一瞬、鼓膜に届いた音を、脳が処理する前に再び夢へと落ちていく。
夢の中に広がるのは、星空の下、誰もいないデビュタント。
世界で一番、幸せな時間をなぞる夢。
(この想い出だけを抱いて、死んで行けたら……)
キィ、とスプリングが音を立てて、寝なれた寝台にたどり着いたことを知る。
幸せな揺り籠から降ろされた喪失感から、往生際悪く、<贄>として死ぬ運命を利用しようとする自分に呆れていると、まるで心を読んだようにして、ロロの声が響いた。
「……止めてください……俺の幸せを想うなら……俺がどこに行こうとしても――全霊を持って、止めてください……」
(まぁ……ロロったら……)
まるで、縋るような、どこか熱を帯びた切ない声音。
声を聴くだけで、紅玉の瞳が苦し気に緩み、懇願するいつもの表情が脳裏に浮かぶ。
「従者としてでいい……傍に、置いてください……一生……死ぬその瞬間まで、ずっと……」
(全く……相変わらず、仕方のない男ね)
「ん……ふふ……」
心の中で呟くと、ふわりと勝手に表情筋が動く。
いつ振り返っても、美しい瞳が傍にあることが、嬉しかった。
決して”敬愛”以上の愛を向けてくれないとわかっていても、至上の献身を捧げて、誰より一番傍に控えてくれていることが、何よりも幸せだった。
(立場上、もしも本当にそんな時が来てしまったら、実際に引き留めることは出来ないかもしれないけれど――でも、私が、心から望んでロロの手を離すなんて、そんなことはあり得ないのに――)
いつも、俺の幸せを勝手に決めるな、と怒る従者に、同じ言葉を返したい。
どうして、ミレニアが、自分から進んでロロを手離すなどと思うのだろう。
そんなことは、天地がひっくり返ってもあり得ないのに。
(大好きよ、ロロ。もしも奇跡が起きて、お前が私に愛を囁き、共に逃げようと言ってくれたなら――それがどんなに拙い言葉でも――国民を見捨てた愚かな女と言われようとも、すべての責務を投げ捨てて、その手を取って逃げ出してしまうくらいに――)
すぅ……と再び意識が夢の中に飛んでいく。
「姫――……」
聞こえた声は、何かいつもの何倍も熱っぽく、やけに近くで響いた気がしたが、既に意識は白濁としている。
すー……といつも通りの寝息を立てていると。
ふわり……と。
(……ん……?)
何かが、唇にそっと触れた気がした。
(――――んんん???)
マシュマロのようにふっくらと柔らかくて、ほんの少しだけ、湿っていて。
生まれて初めての感覚に違和感を覚え、思わず夢の中から現実世界へとゆっくり意識を覚醒させていくと――
「――お慕いしております……」
(――――――――――へ――――?)
至近距離で熱っぽく囁かれた言葉に、脳内が、一瞬でフリーズする。
(――え。……え、ちょっと待って。……え?今、なんて?)
夢か。これは、夢なのか。
いやきっとそうだ、夢に違いない。
だって、あるわけない。脳みそが勝手に作り出した幻で――
「――――…」
ぐいっと軽く指の腹で、唇を擦られる感触があった。
まるで、汚い何かを拭い取るようなしぐさ。
その感触に、これが夢でないことに気が付く。
思わず目を閉じたまま息を詰めて固まっていると、そのまま護衛兵は足音も立てずに去って行き、すぐにパタン……と扉が閉まる音がした。
(待って――待って、ちょっと、待って、待って待って待って待って待って待って待って)
混乱して、脳みそが同じ言葉をリフレインする。ぐんぐんと体温が勝手に上昇していくのが分かった。
いつもの何十倍も熱っぽく、甘く響いた、切ない声音。鼓膜が拾った、あり得ない台詞。
穢れを払うように拭われた唇。柔らかく湿っぽい不思議な感覚はもしかしてもしかしなくても――
「っ――――キスされた!!?」
ガバッ
シーツを跳ね上げ、真っ赤な顔をそのままに、ミレニアは一瞬で覚醒したのだった。
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