第3話 あと、二年①
きっと、初めて出逢ったときから恋に落ちていた。
強烈な、それまでに経験したことがないような――まるで、雷に打たれたかのような衝撃が体全身に走って、美しい紅玉の瞳に吸い込まれそうだった。
しかし、その後の剣闘で、彼は酷い怪我を負わされた。応急手当もされないままに闘技場を後にした彼が心配でならなかった。
このまま彼をここに放置しておいたら、いつかきっと、上流階級や奴隷商人による理不尽の餌食となって、その尊い命を散らせてしまう――
そう思えば、居ても立ってもいられなかった。生まれて初めて父に『我儘』を言って、全てを擲って、美しい青年を手に入れた。
しかし、どんなに詭弁を弄しても、彼が元奴隷であることに変わりなく、自分が皇女であることも変わらない。手元に置いたとて、彼と結ばれることなど、あるはずもなかった。
――それでも、よかった。
「ロロ」
「はい」
振り返って呼びかけると、いつも穏やかな美しい紅玉の瞳がこちらを見ている。
それだけで、全てが満たされた。幼い日から、ずっと心の奥底に燻っていた孤独の種が、柔らかく真綿で包む様にして解され、消え去っていくのを感じる。
女帝になど、なれなくてもいい。
十二人の兄たちに認めてもらえなくても、いい。
ただ――この美しい青年が、死ぬまで一番傍にいてくれれば、いい。
名前を呼び掛けて振り返った時に、いつも、すぐ傍――瞳を覗き込める距離にいてくれるだけで、いいのだ。
……しかし、人間の欲は、際限がない。
「俺の身体も、心も、命も、全て――俺が持ち得るものは、余すことなく、全て、全部、姫の物なのだから」
暫くすると、いつも息をするように当たり前に告げられる宣言に、胸の奥が切ない痛みを発するようになった。
(本当に――”心”も私の物に出来たら、どんなに幸せでしょうね……)
年齢不詳の彼だが、確実にミレニアより五つ以上は上だろう。そんな彼から見れば、自分など幼い子供でしかないことはわかり切っている。
彼にとってのミレニアは、奴隷としての所有権を持つ主であり、雇用主であり、仕事上では被保護対象者なのだ。
視界にすら入りたくない、手を触れることすら憚られる――そんなことを、どこまでも本気で口にする彼が、自分を一人の女として見ることなどありえないと、わかっていた。
(おかしな話ね……仮に、彼の”心”を手に入れられたとしても――私は、その”心”に応えることなど出来ないというのに)
いつかは、どこかの誰かへ嫁ぐ身だ。貴族社会におけるそれに愛などないだろうが、それでも不貞など許されない。
だから、冗談のようにして嘯く。
「お前は本当に――私のことが、大好きね」
「……好きとか、嫌いとか――そんな次元には、ありません。姫は、俺の、全てです。俺は、姫の”物”ですから」
顔を顰めて、呻くように返ってくる返事は、いつも同じ。
どこまでも果てのない敬愛を示しながら――それは決して恋愛ではない、と明確に線を引く、拒絶の言葉。
(わかっていたことよ。――それなら私は、ロロを生涯従者として傍に置くために、ずっと、誰よりも”理想の主”でいればいいんだわ)
従者は、主を映す鏡。
従者が反抗的になるのは、主の行いのせい。
ロロに嫌われたくなければ――ロロに、自分から離れてほしくないならば。
ただ、毅然と、誰よりも優秀で完璧な、”理想の主”であればいい――
◆◆◆
(大丈夫……恐れては駄目よ、ミレニア。正しい”主”として、ロロの手を握り返してはいけないけれど――きっと、正しく完璧な”主”で居続ければ、ロロは深い敬愛の念で私の傍にとどまってくれる。引き留めては駄目よ。彼を縛る権利は、私にはない……あくまでロロは、自分の意思で、私の傍にいる。私が惑い、愚かな主となれば、去っていく――それだけ、なのだから)
書斎のソファに腰掛けて、取り寄せた北方地域に関する文献を読み込みながら、そんなことを考える。
貴族令嬢としての教育課程は、慣れないことばかりをさせられるせいか、酷く疲れる。おかげで、ロロを買い上げたときの費用として使ってしまった支度金を補填するための上申策を、なかなか集中して書き上げられない。
(私は、ロロに気持ちを告げることは許されないし――奇跡が起きてロロが私を愛してくれたとしても、私はそれに応えられない。ならば、彼の自主性を尊重するのが、”理想の主”だわ。奴隷解放は、その第一歩。彼が、自分の人生を自分の脚で歩みたいと思ったその時に、この身分制度が足枷とならぬように――)
どうやら、注意力が散漫になってきたようだ。文献を読みながら、別のことを考えてしまっている。
(あぁ――でも、もしも、ロロが奴隷でなかったら……私が、皇女じゃ、なくなったら……)
「……姫」
文献を手にしたまま、うつら、うつらと舟をこぎ始めた少女に向かって、書斎の隅に控えていた無口な護衛兵から、控えめな声が飛ぶ。
――愛しい声。
(一度、結婚して、戸籍を得て――でも、離縁をされたりとか……早く先立たれたりとか……女も情夫を持つことが許容される世の中になったりとか……人生は、何が起きるかわからないから……)
「……姫。……お休みになられるのですか?」
「……ん……も……ちょっと……」
かくん、と頭を揺らしながら、重たい瞼を必死に開く。もう、目の前は霞んで、文字はよく判別できない。
(もしも、奇跡みたいな偶然が重なり合ったときに――後悔だけは、したくないの……)
そこが、限界だった。すぅ――と体力が尽きて、ソファに崩れるように夢の世界へと旅立ってしまう。
「……姫。……起きてください」
「ん……」
「姫。……風邪を引きます」
何か遠くで声が聞こえる。
穏やかに響く、心地よい、耳になじんだ声音。
まるで、もう何十年も昔から、ずっとずっと傍で聞いているような――……
「……申し訳ありません。お身体に触れます」
コツ、と近くで足音が響いたかと思うと、控えめな声が苦々しくつぶやいて、ゆさゆさ、と身体を揺すった。
まるで、青年の心根を思わせるような、優しく穏やかな揺さぶり方は、揺り籠を揺らされているような夢心地を誘うばかりで、起きようなどという気持ちにはならない。
「……参った……」
すやすやと心地よさそうな寝息を立てるばかりで全く起きる気配のない主を前に、困惑したような声がポツリと漏れる。
しばらく沈黙の帳が降りて、妨げるもののない心地よさに、どんどんと深い夢の奥底へと落ちていく。
やがて、大きなため息が聞こえたかと思うと、さっきよりずっと傍で愛しい声が響いた。
「――失礼します」
ふわっ……
身体を預けていたはずの、ふかふかで柔らかな安定感抜群の座面から、何やら不安定な――それでいて、不思議と安心感にほっと心が緩むような――場所へと移される。
「んん……」
「!……起きられますか?」
男の問いかけには答えず、もぞ、と不安定な体勢を立て直すように身動ぎして、こてん、と頭を安定感抜群の温かな壁に押し当てる。
身体を全てその壁に預けると、温かな温もりが感じられて、たまらない安堵が心に広がった。
「全く……」
トクトク、と壁の奥で何か音がする気がする。ふわり、と自然に頬が緩んだ。
(あぁ――ずっと、ずっと、こうしていたい)
きっと、この温もりは夢の中でしか体験できない幸福。
緊急時でもない限り、彼が自分からこの温もりを分かち合ってくれることはあり得ない。
不安定だが安心する不思議な揺り籠にいられたのは一瞬で、すぐに慣れ親しんだベッドへと移された。
「おやすみなさいませ。……良い夢を」
(ええ……)
心の中で無意識に返事をする。
――その日見たのは、左頬に奴隷紋を刻んだ愛する美青年と結婚し、家族全員に寿がれながら、最後は青年に横抱きにされて愛の言葉を囁かれるという、己の願望が詰まりに詰まった、酷く馬鹿馬鹿しい夢だった。
◆◆◆
「――ぇ……」
翌日目を覚まして、呆然とする。
昨夜の最後の記憶は、書斎だったはずだ。文献を読んでいたのを確かに覚えている。
それが、どうして、いつもどおりのフカフカベッドで心地よく眠りから覚めたのか。
「あら。お目覚めですか」
「マクヴィー夫人……」
声をかける前に少女が起きることは珍しかったため、見慣れた筆頭侍女は少し驚いた顔をしていた。
「昨夜はお湯に入ることもなく眠ってしまわれたので……既に湯を用意しております。ご入浴の準備をされますか?」
(嘘……もしかして、あれ、夢じゃなかった……!?)
頭を抱えるように両手を当てて、脳が混乱するのを整理する。
昨日は夕方にダンスレッスンがあって、とても疲れていた。夕食後、湯の準備が出来るまでの時間で、少し調べ物をしておこうと思って書斎に行った。それはよく覚えている。――思えば、その時から既にやや眠かった。
きっと、そのまま寝落ちてしまったのだろう。そういえば、馴染んだ専属護衛兵の困り切った声が聞こえていたような記憶がうっすらとある。
「わ、私……!まさか、寝落ちてロロに寝室まで運ばれてしまったのかしら……!?」
ガバッと慌ててシーツを捲って自分が着ている服を見下ろせば、昨夜書斎に行った時のままの格好だ。寝間着ですらない。
着衣に乱れは――当然のごとく、皆無だった。
「まぁ。……ふふ、大丈夫ですよ。まさか、ロロ殿に限って、不誠実な行いをするはずもありません。どれだけ揺すっても声をかけても起きなかったので、仕方なく寝室に運んだと報告を受けました。最近疲労が溜まっているようだったから、どうかこのまま寝かせてやってほしい、と」
「ぅ――ぅぅ……」
顔から火が噴き出しそうなくらい恥ずかしい。
そうか。結婚して彼に横抱きにされるなどというあり得ない夢を見たのは、実際にそうして運ばれたせいだったのだろう。幸せ極まりない夢だったが、間抜けな寝顔を見られてしまったと思えば羞恥が極まる。
(っていうか、抱き抱えられてプライベートの極みである寝室に足を踏み入れ、ベッドにまで寝かせているくせに、本当に何事もないってどういうことよ!?全然女扱いされてないどころか、本格的に子ども扱い――待って、そもそも私、湯にも入ってなかったのよね!?)
一瞬、あの無表情に理不尽な怒りを向けそうになった後、はたと気付いて今度はざっと青ざめる。
(やだ、待って!!?汗臭いとか不潔だとか思われてなかったかしら!!?)
いっそ死にたい。せめて、風呂上がりの石鹸の香りを漂わせた身体を抱き上げてほしかった。
あまつさえ、夢だと思っていたから、甘えるようにしてロロの胸板に顔を摺り寄せてしまった気がする。
ボッと一瞬で顔に火が付いた。
「す、すすすすぐにお風呂に入るわ!」
「かしこまりました」
ガバッと勢いよくシーツを蹴散らした少女に、クスクスと笑いながらマクヴィー夫人は答える。
(今度から、夜に書斎で仕事をするときは、寝落ちて運ばれてもいいようにお風呂に入って清潔にして、寝る準備を万全にしてからにするわ……!)
心の中に、強く誓いを立てた瞬間だった。
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