第5話 あと、二年③

 それからは、内心酷くドキドキしながら、愛しい男を観察した。しかし、ロロはいつも通り無表情に感情らしい感情を映さず、今までと全く同じ生活を続けるだけだ。

 どうやら、あの夜のことは無かったこととして、おくびにも出すつもりはないらしい。

 そんなある日、ふと気づく。

 いつものようにロロに話しかけようと、左後ろを振り返った時だった。


「……はい。何でしょうか」


 何も言われなくても、いつもの無表情のままで問い返されるこの関係は心地よく、呼びかけるまでもなく紅の瞳がこちらを向いていてくれることは、今まで何よりの喜びだったが――


(もしかして――振り返ったときにいつも目が合うのは、ロロが、職務中ずっと私の方を見ているからなのかしら……!?)


 言われてみれば、もっと早く気付いても良さそうなものだったが、この護衛兵は、いつだって気配を消しているから、視線を感じたことなど一度もなかった。

 今まではただ、いつでも自然に視線が絡む幸せを無邪気に喜んでいたが、ロロの秘めた告白を聞いてしまった後は、もしかしてこちらが気づかぬだけで、ロロは意外と本当に自分のことを女として愛してくれていて、想いを隠しながら傍にいてくれるのではないかと思えてきた。

 よくよく考えれば、ロロがミレニアに捧げる献身が度を超しているのは、誰の目にも明らかだ。いくらミレニアに心酔している奴隷と言えど、他の紅玉宮の奴隷たちでもロロほどの重たい献身を捧げる者はいない。

 むしろ、あれを”敬愛”と表現する方が無理がないか。

 五年目にして、ミレニアは初めてその可能性に思い至った。


(え。……待って、じゃあなんでロロは、ヴィンセント殿やクルサール殿との婚姻を後押しするようなことばかりするの?)


 モヤッ

 ……いや。イラッ、が正しいかもしれない。

 そこで初めて、あの夜のロロの発言の真意に思い至る。


『従者としてでいい……傍に、置いてください……一生……死ぬその瞬間まで、ずっと……』


(ふざけないで――!いいわけないでしょう、この馬鹿!)


「……?姫……?」


「なんでもないわっ!」


 振り返った後、急に怒りを纏ったらしい主に困惑したロロに、苛立ちをぶつけるようにしてぷいっと顔を背ける。


(ロロが一言、「他の男と結婚なんてするな」「俺と一緒に逃げよう」と言ってくれたら、私、どんな手を使ってでもロロと生きるための完璧な逃亡計画を練ってみせるのに――!)


 なんだ、この奴隷根性にあふれた従者は。愛する女が他の男に掻っ攫われるのを何とも思わないなんて、被虐趣味でもあるのか。

 ――いや、そうだった。知っていた。これ以上ない被虐趣味の塊のような男だった。


(もうっ……じゃあ、私が御膳立てしてあげないといけないってこと!?)


 ムカムカムカ

 ロロの真意を知ってしまえば、もう、知らなかったふりなどは出来ない。

 本人が何と言おうと、関係ない。

 何故ならミレニアは――ロロに、従者として傍にいてもらうだけでは、もう、我慢など出来ないのだから。


(あっさりお兄様たちの策略にかかって死んでる場合じゃないわ!まして、他の男と結婚してる場合でもない!っ……もう一度ロロに好きだと言わせて、キスして結ばれるまで、絶対諦めないんだから――!)


 そしてミレニアは、隠れてクルサールとの逃亡計画の裏に、ロロとの逃避行計画を練り上げる。

 一度ロロと別れて帝都を脱出して、ロロと合流した後に、クルサールの手の者の目を欺いて、二人で逃亡し、身分を隠して帝都から遠く離れた場所で生きる計画を。


 ――結局それは、実現されることはなかったけれど。


 間違いなくミレニアが、生きる意味を明確に”ロロ”に置いたのは、この時が人生で最初の瞬間だった。


 ◆◆◆


 出立後、最初の一晩を明かす街の宿屋に着いたのは、随分遅くなってからだった。

 予想以上の大軍となった北方建国軍一行の全てに宿を用意することは出来ない。奴隷を中心とした戦闘員たちの大半は街の外で野営して夜を過ごし、非戦闘員だけが、宿を分散して取って夜を過ごす手はずになっていた。

 決して上等とは言い難い安宿だったが、ベッドで眠れるだけ幸せなことは、ミレニア自身がよくわかっている。軍資金をいたずらに減らすわけにもいかない。革命の夜、固い地面に穴を掘って、寝袋一つないままにごろりと横になったことを思えば、得難い幸福に違いなかった。

 宿屋の一階部分が食堂になっていたので、ありがたく出来立ての料理を食べ、部屋に備え付けのシャワーを浴びて、髪を乾かしてからレティに髪を梳かしてもらっているときだった。

 コンコン


「……失礼いたします」


「えぇ。良いわ」


 響いた声は、馴染んだ声音。相手を間違えるはずもない。――五年間、恋をし続けた相手だ。

 ギィ、と安っぽい造りの木製のドアが開くと、外にいたロロがその場で膝をつく。


「見回りを終えました。周辺に異常はありません」


「そう。戦闘員の皆や、宿を取った者たちはどうしている?」


「皆、各々の部屋やテントに入っています。我々に対する敵対意識を感じる街ではありませんから、迫害を受けるような心配もないかと」


「そう。よかった」


 なるべく、反感を買わなさそうな街に泊まれるようなルートと行軍スケジュールを考えていたのは事実だが、報告を聞いてほっと一息を吐く。

 カタ、とレティが手にした櫛を鏡台に置いて、スカートのすそを摘まみ、礼をした。寝支度が終わった、という合図だ。


「万が一に備えて、御身をお守りするために、俺は部屋の前に控えていますが、心配はないでしょう」


「まぁ。お前、さっそく初日から寝ないつもり?」


「……戦闘が予想される区域は、だいぶ先です。それまでには、万全に仕上げます」


「もう……」


「それでは――」


「あ、待ちなさい!」


 そのまま早々に扉を閉じそうになったロロを慌てて呼び止める。


「レティ、ありがとう。今日は下がっていいわ」


「はい、ミレニア様。おやすみなさいませ」


 先にレティに許可を出すと、レティは主の思惑をきちんと正しく受け止め、さっさと退室していく。

 それを見て、嫌な予感がしたのだろう。ロロは、微かに頬を歪めて苦い顔をする。


「ロロ、こっちへ来て」


「――出来ません」


「どうして?」


「姫は、すでに成人された身。寝支度まで済んだ淑女レディの寝室に入るほど、礼をわきまえぬ身ではないつもりです」


 いつもより少し早口で言い切って、そのまま扉を閉めようとする素振りを見せた従者に、ミレニアは笑いかける。


「あら。――でも、お前は、未来の夫だわ。構わないでしょう?」


「っ……」


 ぴくり、とロロの頬が引き攣り、強張る。

 不自然な沈黙が、流れた。


「…………お戯れを」


「酷いわ。私は本気よ」


「信じられません」


「どうして?」


「っ……俺は、奴隷です」


 苦し気な顔で、ロロは言い募る。


「貴女に、そんな感情を向けていただくような存在じゃない……俺は、汚泥を啜って地を這う虫けらで、貴女は清廉な泉に住まう女神だ。毎日従者としてお傍にいられることでさえ、俺の身には過ぎた奇跡のようなことなのに――」


「私もお前も人間よ。あまり、私の愛しい男を、そんな風に蔑むように表現しないでほしいわ」


 ぐっ、とロロは言葉に詰まって息を飲む。

 ミレニアは、女神のような慈愛に満ちた笑みを湛えた。そのまま、鏡台の椅子を降りて、ゆっくりとロロの方へと歩みだす。


「まだ自覚していないの?――私は、お前のことが大好きなの。勿論、従者としてではなく――一人の男性として、愛しているのよ」


 言いながら、静かに近づく。――ロロまで、あと二歩。


「っ……ありえない――!」


「どうして?……お前も、私を愛してくれているのでしょう?」


 一歩、近づく。――あと一歩。


「それはっ……!」


「寝ている私にキスをして、お前のその声が、『お慕いしています』と紡いだのをはっきりと聞いたわ。――お前、好きでもない女にそんなことをするの?」


「っ――!」


 最後の一歩の距離を詰めて微笑めば、カァッとロロの頬が灼熱に染まって言葉を失う。

 そのまま、黒衣の従者は片手で顔を覆って、ミレニアの視線から逃れるように顔を背けた。


「あら。……ふふ。私が大好きな、お前の瞳を見せてはくれないの?」


「勘弁してくれ――」


「嫌。――ね?ロロ、こっちを向いて」


「っ……」


「いいでしょう?――ね?ルロシーク」


「っ、アンタは、狡い……っ……そう言えば、俺が断れないことを知っている……!」


「ふふ。ごめんなさい。――だって、お前が愛しくて、堪らないんだもの」


 ミレニアは、そっと手を伸ばしていつものようにロロの左頬に触れる。

 いつもよりだいぶ熱を持っているそれを優しく誘導するように促せば、今まではその紅玉の瞳に微かにしか宿ったところを見たことがなかった灼熱が、今やはっきりとわかるくらいに渦巻いていた。


「ほら。――やっぱり、お前も私のことが好きなんじゃない」


「っ、違――」


「違うの?」


「だ、からっ……好きとか嫌いとか、そんな次元じゃないんだ――!」


 ごくり、とロロの喉仏が上下し、この期に及んで聞き分けのないことを言う。

 だが、触れただけではっきりとわかるほど熱を持った頬と、行き場を求めて今にも噴き出しそうな灼熱を湛える瞳が、それが本心ではないことを証明している。


「お前が最初に言ったのよ。お前のその身も、”心”も、命も、全てを私に捧げる、と」


「っ――!」


「ちゃんと、心まで、私に全部くれるのでしょう?」


 きっと、ロロにしてみれば、無意識で口にしていた言葉だったのだろう。痛いところを衝かれたかのように、苦い顔で口を閉ざしてしまった。

 言われてみれば確かに、従者としての献身を示すとき、”心”を捧げる必要は全くない。


(初めてこの言葉を聞いたのは、まだロロが紅玉宮に来たばかりの頃だった。一度、気づいてみれば――いつだって、ロロは、私のことを、これ以上なく愛していたのよね)


 ふっ、と思わず頬が緩む。どうしてこれを、”敬愛”の延長だなどと思っていた時期があったのだろう。いくら何でも、鈍すぎではなかったか。

 ミレニアが吐息で可笑しそうに笑ったのを、自分の言い訳を嗤われたと思ったのだろうか。

 ぐっと言葉を飲み込んだ後、ロロは観念したように口を開いた。


「っ……あの、夜はっ……魔が、差しただけだっ……!」


「魔?」


「地を這う虫けらの分際で、分不相応な感情に流されたっ……不敬なのはわかってる――!もう二度としないと誓うから――」


「まぁ、それは困るわ。私はもっとお前に愛を囁いてほしいし、何度でも口付けてほしいのに」


「っ――」


 カァッと触れている頬がさらに温度を上げた。


「お前の瞳は、サボりがちなお前の口や表情筋と違って、雄弁に気持ちを語ってくれるから、大好きよ」


 笑いながら、いつもしているように、灼熱が渦巻く紅玉の瞳を覗き込む。

 言葉を失った青年の代わりに、その瞳が雄弁に真実を語ってくれた。

 ――愛しい。

 ――――愛しい。

 目の前にいるミレニアが、誰より愛しくて、堪らない。


「何度でも言ってあげるわ、ルロシーク。――私は、お前を愛している。そして、お前も私を愛してくれている。……もう、身分制度は存在しない。私は皇女ではなく、お前も奴隷ではないわ。一体、何が私たちの結婚を阻むというの?」


 ぐっと苦し気に眉間に皺を寄せたロロは、苦悶の声を絞り出す。


「俺はっ……アンタを、幸せになんか出来ない――!」


 生きている世界が、根本的に違うのだ。

 ロロには、ミレニアが何をしたら幸せになるのか、全くわからない。

 唯一わかっているのは、自分自身が何をしたら幸せになれるのか、だけ。


 ――ただ、ミレニアの傍に、控えること。


 愛を返してもらうことなど、求めていない。

 従者としてでいい。視界の外で良い。触れることすら出来なくていい。

 ただ――誰より一番傍で、その何より尊い綺麗な命を、時に少女のようにか弱い心を、身命を賭して守り抜く使命を与えてほしいだけなのだ。

 生きる世界が違う自分には、それくらいしかできないのだから――

 そう気持ちを込めて放った言葉に、ミレニアはなぜかムッと不服そうな顔で口を尖らせる。


「あら、失礼ね。私、殿方がいないと、自分の幸福さえ掴めない女だと思われているのかしら?」


「!?」


「言ったでしょう。私が作る新しい国への入国条件は、己の意志で自分の人生を切り開きたいと渇望していること。――自分の幸せすら他人任せにするような女が、そんな国を治められると思って?」


 勝ち気な瞳が、キラリと光る。

 吸い込まれそうなほど美しく大きな翡翠の瞳は、何度でもロロの心を引き寄せ、魅了した。


「結婚したって、お前に幸せにしてほしい、だなんて思っていないわ。私は私で幸せをつかみ取るもの。――ふふ。私の幸せは、お前のことを、『真の自由』の元で世界一の幸せ者にすること」


「なっ――」


「奴隷だから、従者だからと何かを諦めたり、我慢したりすることなく――好きなものを好きと言って、嫌なものを嫌だと言って、毎日を幸せだと思ってお前が生きること。それが、私が叶えたい、私にとっての”幸せ”な世界」


 言いながら、ふわりと微笑む。


「昔から、誰か別の女性が好きだと言うなら、断腸の想いで背中を押して送り出してあげようと思っていたけれど――私を愛しているというなら、容赦しないわ。何が何でも、私のことを好きだと言わせてみせるから」


 活き活きとした挑発的な表情まで、見惚れるほど美しいのは、反則ではないのか。


「っ……勘弁、してくれ……」


「駄目よ。ふふっ……まぁ、まだ時間はあるわ。建国の日までに、絶対にお前を口説き落としてみせるから、覚悟なさい」


 苦し気に呻くロロに、ミレニアはどこか楽しそうに言ってのける。



 行軍の間、宣言通り何度もミレニアに口説かれ続け、もう逃げられないとロロが観念し、男として腹を括るまで――――



 ――――あと、二年。

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