第47話 隣人とパーフェクトレディ



 日が落ちて、気温がぐっと下がってきた。

 アリシアと入れ替わるようにして現れた花蓮は、徐に口を開く。


「隣、いいかしら?」

「……あ、どうぞ」


 驚きで固まってしまっていたものの、何とか頷いてみせる。

 花蓮は「ありがと」と一言添えて、隣に腰下ろす。そして、缶コーヒーを突きつけてきた。


「あげるわ。寒いでしょう」

「……ありがとう」


 缶コーヒーに口をつけながら、今の状況を整理する。

 図ったようなタイミングで現れた花蓮。アリシアの選手交代という言葉の意味。


「……なあ、もしかしてだけど、見てた?」


 どう聞いたらいいか分からず、曖昧な言葉で聞いてしまう。彼女は俺の様子を横目で見ながら、こくりと頷いた。


「ええ。至近距離で向かい合っている貴方たち二人の様子と会話は大体把握しているわ」

「あ、そうですか」


 なぜだかさらに気温が下がった気がする。気のせいか。気のせいだよな。きっと。

 そんなことは一旦置いておく。


「……ひとつ、聞いていいか」

「なにかしら?」

「もしかして、今日俺がアリシアと出かけるってこと知ってたのか?」


 アリシアが去る前に残した選手交代の意味。

 それは、花蓮がこの場にいて、そして俺に話しかけるという状況を見越してのものだった。


「ええ、そうよ。まんまと罠にかかったようね」

「なんで言い方を悪くしちゃうんだよ」


 観念したようにそう言う彼女にツッコミを入れる。

 だが、これが花蓮が計画したものだとしたら、何のために、という疑問が浮かんでくる。


「なあ、もしかして――」

「咲希さんが口を割ったか、という質問なら否と返すわ。あの子は何も言ってない」


 何のため、となると、これまでの話の流れ的に俺の引っ越しに関するものだろうという推測が出てくる。そして、それを知っているのは咲希ただ一人。

 しかし、それは花蓮によって否定された。


「じゃあ、誰から聞いたんだよ」

「その答えは後で言うわ」


「それよりも、」と前置きして、続けた。


「貴方の悩みは解決したのかしら?」


 小首を傾げながら、そう問いかけてきた。


「見てたんなら分かるだろうが」

「あら。大体は把握しているってだけで、最初から最後まで理解しているわけじゃない。それに、貴方の言葉で今の考えを聞きたいの」


 真っ直ぐな言葉だった。

 茂も、アリシアも。同じぐらい真っ直ぐな声で、目で、訴えてきてくれた。


「……分からない」


 だけど、それを受け止めることは出来なかった。


「最初よりかは、どう考えればいいか、どうすればいいか。その道を示してくれたおかげで、わかった」


 茂が選択肢を示してくれて、アリシアは可能性を提示してくれた。


「でも、それでも。どうしたいのか、どうするのか、決められないんだ」


 けれど、選べなくて、信じられなかった。


「……その理由は、まだ許されてないと思っているから?」

「……そうかも、しれない」

「それならそれは杞憂よ」

「どうしてそう思うんだ」


 そして、花蓮ははっきりとこう続けた。


「引っ越しのことを話したのは、貴方のお父さんだもの」


 頭が真っ白になった。


「は……え……」

「もしかしたら遠慮してるんじゃないかって。そう相談されたの」


 思いもよらない話をされて、頭の中が上手くまとまらない。混乱を落ち着かせるために、なおも続けようとする花蓮に手のひらを突き出して静止する。


「いや……ちょっと待って…………え、なんで?」

「本当に付いてこさせていいのか。無理をしてるんじゃないのか。そう思って、貴方と近しくて、面識のある私に聞きに来たの」

「いや、そうじゃなくて。だって父さんは、俺を――」


 ――恨んでいるはずなのに。


 そう続けようとしたのだが、それは花蓮のため息によって止められる。


「そんなわけないじゃない。貴方たちはただすれ違ってきているだけ。すれ違った原因は、互いに話をしてこなかったせいかしら」


 そんな馬鹿な。

 それまでずっと、まともな会話なんてほとんどない。いつも最低限で、事務的な話しかしてこなかった。だからそれは、俺を嫌っているからだと、そう思っていた。


「そもそも、貴方たち話しをしなさ過ぎるのよ。大事なところを端折って、それで互いに誤解するのだから世話ないわね」


 その言葉を信じるのならば、これまで父さんの言葉を俺がネガティブに受け取っていただけなのだろうか。


「だからちゃんと話し合えば悩みは解決するわよ。疑うのなら、連絡の履歴を見る?」

「いや……いい」


 言葉だけではなく、物的証拠まで持ち出されたなら信じるほかない。アリシアが示した可能性が高くなった。負担だと思ってないかもしれない、という可能性が。

 でも――。


 俺の表情を見て、花蓮の目がそっと伏せられる。


「……そう。それでも、意思は変わらないのね」

「だからこそ、かな」


 最期に見た母さんの顔を思い出す。


「ならどうして? 残らない最大の理由は、話し合えば解消する。そうなれば、貴方の残れない理由はもう無くなる。貴方は、ここに残りたくないの?」

「いや。それは残りたいよ。本当に」


 それは、変わらない。

 茂が教えてくれた、俺のしたいことは変わらない。


「なら、どうして?」

「父さんの身に何かあった時に気づけないかもしれない。それが怖い」


 そう言葉にして、ようやく腑に落ちた。

 おそらくこれは後悔から来るものだ。


「貴方のお母さんが亡くなったのは過労が原因で起こった事故。一葉くんのせいじゃないわ」

「俺が原因じゃなくても、俺が気づいていれば止められたかもしれない」

「それは……っ」


 俺の母親の死因は、頭を打ったことが原因となっている。だが、その頭を打つ原因となったのは過労だ。過労により、突然倒れて、そして頭を打ったのだ。

 疲れているという前兆はあった。でも、俺は気づけなかった。もっとよく見ていれば、もっと傍にいれば、気づけたかもしれないのに。


「だから俺は、父さんのそばにいるよ。何かあった時、力になれるように」

「……そう」


 彼女はふっと息を吐き出した。何かを堪えるように、一度ギュッと目を瞑る。


「分かったわ。貴方がそう決めたのなら、私は何も言わない」


 優しい言葉に胸が痛くなる。


「だから、聞いて欲しいことがあるの」


 開かれた瞳には強い意志が宿っていて、有無を言わせない迫力があった。


「あ、ああ」


 こくりと一度頷くと、彼女は「ありがとう」と笑みを浮かべた。

 


「貴方のことが好きです」

 


 そして、真っ直ぐな目と共に言葉を伝えてきた。



 


「……いやちょっと待って。どうしてそんな急に」


 待ってくれと手で制止する。だが、花蓮は止まることなく一歩踏み込んできた。


「残るように説得するのは難しい。なら、残りたいと思える理由を増やせばいい。貴方と離れたくない私の気持ちを伝えることで、少しは考え直してくれるんじゃないかという打算」


 艶やかな黒髪が風に舞う。

 

「それに、私と付き合うのならば、私の家に泊まれば良いのだし、金銭的負担は考えなくてよくなるわ。私、一人暮らしだし部屋も広いから一人ぐらい増えたって問題はない」

「それは……色々と問題があるだろ」


 一気にそう捲したてると、ほぅっと白い息を吐き出した。

 そして、花蓮は胸の前で拳を握ると、艶やかな唇をキュッと結ぶ。


「だから、貴方の傍に一生付き添う権利を私にください」


 考えたことがなかった。

 これまで自分のことで精一杯だったから。

 ずっと俺にとって花蓮は幼馴染で、友人の一人で。

 だから、花蓮に対して特別な感情を抱くことも、彼女がそんな風に想ってくれているかもなんて考えたことがなかった。


 もし、今、彼女を選んだらどうなるのだろうか。

 残りたいと、残ろうと決意するのだろうか。それとも、それでも父親に付いていくのだろうか。

 そもそも、俺は彼女を選ばないなんて出来るのか。

 俺のために心を砕いて、親身になって。咲希とのことも、修学旅行だって助けられた。そんな彼女を傷つけるような選択を俺は――。


 はらりと、視界の端で何かが落ちてきた。


「……雪だ」


 『クリスマスの日には雪が降るんじゃない?』


 記憶の中の誰かの言葉が浮かんできた。

 そして、無邪気に笑う彼女の顔も。


「……ごめん。花蓮の気持ちには答えられない」


 白くて小さな結晶が、はらりはらりと降ってくる。

 俺は、花蓮と向かい合い、はっきりとそう告げた。ここで逃げるのは、逸らしてはダメだと自分に言い聞かせて。

 花蓮の黒瞳が見開かれ、少しだけ悲しげに揺れた。

 

「……そう」


 そして、そっと伏せられた。


「本当にごめ――」

「謝らないで」


 俺の声を遮って、そう彼女は言った。


「振ったことに対して貴方が罪悪感を抱く必要も、引け目を感じる必要もないのだから」


 花蓮は一歩踏み込んでくると、そっと俺の頬に触れた。


「最後にひとつだけ聞かせて」


 どこまでも真っ直ぐなその視線が俺を捕らえて離さない。


「一葉くんは咲希さんをどう思っているのかしら?」


 それはあの日あの時と同じ問いかけで。

 けれど、俺の答えは違っている。


「好きだよ」


 はっきりと言う。間違わないように、零れないように、言い聞かせるように。


「俺は藤谷 咲希のことが好きだ」


 そう宣言すると、花蓮は頬に当ててきていた手をそっと離した。


「……それは、貴方にとってここに残る理由にはならないのかしら?」


 その言葉に目を逸らしてしまいそうになる俺に、彼女はさらに言葉を重ねる。


「前に言ったわよね。どれだけ他人と関わっても、似たような状況を解決したとしても、自分には関係ないと。自分の問題は自分のものだと」

「あ、ああ……」

「ならもう、貴方が変わるしかないのよ。変わって、過去を乗り越えるしかないの」


 そう言う彼女の姿は、どこか有無を言わせない迫力があった。そして花蓮は、だから、と続けた。


「選びなさい。その理由を持ってしても、ここを離れることを選ぶのか。残ることを選ぶのか」


 人は自分で変わるしかない。どこまで行っても、自分の問題は自分のものでしかないから。解決も解消も最後は自分で決めて、自分が責任を持つものだから。


 だけど、


 ある人は妹に尊敬されるために変わろうとして。


 またある人は姉と向き合うことで人を信じられるようになって。


 そして、ある人は友のために戦い、それが大切な人の救いになっていた事実を知り前を向けた。


 人は自分で変わるしかない。けれども、その変わるための一押しは、自分では無い誰かのおかげで。


「……ありがとう」


 ずっと、背中を押してくれていた。

 彩月 花蓮は今日だけでなく、ずっと俺が変われるように後ろに立ってくれていたのだ。


「決めたよ、俺。どうしたいか」

「そう」


 それだけ言うと、彼女は踵を返して帰ろうとする。


「聞かないのか?」

「分かりきった答えを聞くほど、私は暇じゃないのよ」


 俺は花蓮を呼び止めるつもりはない。資格もない。

 しかし、一度だけ彼女は歩を止めた。そして、決して振り返ることなく、短い言葉を送ってきた。


「言い忘れてたわ。メリークリスマス」


 ☆ ☆ ☆


 我が家の中は明かりが灯っていて、中に人がいるのだと実感する。


「ただいま」


 家の中には、予想通り父さんが座って新聞を読んでいた。父さんは少しだけ視線を動かして俺の姿を捕らえる。


 アリシアと、花蓮のおかげで今までのような緊張は無い。


「父さん、話があるんだ」


 いつぶりか分からない、柔らかい声音で父さんに話しかける。


「……なんだ」


 新聞を下ろすと、無機質な顔が俺の方向へと向いた。

 長い年月を経た蟠りは、すぐに解消されることはない。けれど、少しずつ少しずつ解消していったのならいつかは無くなるだろう。

 だから今、ここから蟠りを解消するために変わろう。

 互いに互いを過度に気を遣い合うような関係から。傷つけないために、傷つかないために不干渉を貫く関係から。


「俺、好きな人が出来たんだ」


 自分の問題は自分で解決するしかないのだから。

 そうやって、少しずつ解決していくのだ。

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