「何してんの!」

 大きな声が聞こえて青年は後ろを振り返る。

 息を切らして見たことのない顔でにらみつけてくるトワ。

 青年は振り上げていた手をおろし、握りしめていたガラス瓶を軽く持ち直す。


 トワは怒っている。

 青年は思う。


 だからこそ俺はやるんだ、と。


「おはよう、トワ。お前、朝は意外と早起きなんだな」

 青年はトワに向かって珍しく微笑みかけるが、これまた珍しいことにトワは昨日のようには微笑み返してくれない。


「なに、やってんの……」


 今にも泣き出しそうな顔をしながら、もう一度同じ質問をしてきたトワに青年は答える。

「何って、見れば分かるだろ。ガラス瓶割ってんの。こうした方が早く砂になって消えるから」

 ほら、と言いながら青年は腕を振り上げる。

「ま、待って!やめて……!」

 ガッシャーンという激しい音とともにガラス瓶が割れて中の紙があらわになる。

 割れたガラスの破片はそのまま砂となって崩れていき、中に入っていた紙は海風にふわりと連れてかれ、空中でサーっと静かに消えていった。

「な?こっちのほうが早く消えていくだろ?だから世話になった礼にお前の仕事を手伝ってやろうと思って」

 青年はまっすぐにトワを見る。


「お前をここに縛ってるもの、俺が全部壊してやるよ」


 青年が言っていることが理解できなくて、トワは絶句する。


 僕の仕事を手伝う?これが?

 目の前に積みあがるガラス瓶を壊すことが?

 誰からも忘れ去られてしまった物語たちを自分の手で消すことが?

 そんなの、僕の仕事じゃない。

 僕がしてほしいことじゃない。


 青年は正面を向き、高く積みあがるガラス瓶の山の方へとためらいもなく歩いていく。

 山の下のほうを崩されれば、一瞬で多くのボトルが割れるだろう。


 弱いから、脆いから。


 最後の最後でようやくここにたどり着いた物語が、一瞬ですべて消えてしまう。

 まるではじめから何も無かったかのように。


「やめてって……言ってるだろ!」

 トワは怒りに任せて声を荒げ、歩いている青年に向かって飛びつく。

「うっ」

 ぶつかられた衝撃で青年は崩れ、二人はそのまま砂の上に折り重なるように倒れこんだ。

「痛っ……」

 青年がゆっくり起き上がろうとしたと同時に、上に乗っかっていたトワが勢いよく青年の胸倉をつかむ。

「何でこんなことするんだよ!瓶を割るなんてこんなの僕の仕事じゃない!誰にも語られなくなって、忘れ去られて、最後にこんなところまでたどり着いてしまって、もう自然に消えていくことしか残されていないのに、それを早めるなんて……。そんなの僕は望んでない!」

 トワは叫ぶ。年相応に喚く。

 涙がぼろぼろと落ちていき、青年の胸を濡らしていく。

「本当は……本当はどの物語も消えたくないんだよ……。ずっと誰かに語られ続けたい。ずっと誰かに言葉を紡いでいてもらいたい。時代の流れに逆らえなくてもいい。読んで感動してもらえなくてもいい。ただ、その物語が誰かの心に少しでも残っていたら、少しでも覚えていてもらえたら……」


 きっとまた遠い未来に誰かを救える存在になれる……そんな希望があるから。


「物語は消えたくないんだ……」


 すがるような声で最後にそうささやき、トワは青年の胸倉からゆっくり手を放し、空を見上げる。

 昨日に引き続き、今日も初めての体験が多いとトワは思う。

 こんなに泣いて、こんなに叫んだの、生まれて初めてだと。


「それはお前もそうなのか、トワ」


 青年の声にトワははっとして下を向く。

 押し倒されたままトワの言葉を静かに聞いていた彼は、今はトワのことをじっと見つめている。


「それはお前も願っていることなのか」


 青年の言葉がトワの心にスッと入ってくる。スッと入ってきすぎて狼狽える。

「な、なんでそんなこと……」

「リビングの棚に大事そうに置いてあった瓶。あれはお前の……トワの物語なんだろ」

 ごちゃごちゃ物が溢れかえっているトワの家の中で、唯一棚の上にきちんと置かれていた一本の瓶。その瓶のことが、何故か青年は昨日からずっと気になっていた。

 トワは言っていた。誰か一人でも読んでしまったら、その物語は消えることができないと。だからトワがあそこに流れ着いた瓶を一本だけ特別視してわざわざ部屋に置いておくとは思えなかった。

 それに青年は昨日からずっと気になっていた。

 トワの言葉一つ一つがどこか切実に聞こえることが。

 トワのあの眩しい笑顔がどうしても寂しそうに見えてしまうことが。

「やっぱり最後の瞬間は、誰かに看取ってほしいものじゃないですか。そのために僕は僕が消えるまで、この島にいなくちゃならないんです」

 大人のふりをして身の丈以上に背伸びして、自分が抱えられる以上のことを抱えていたトワの本音は、本当はそこら中に隠されていた気がして、青年はグッと胸が苦しくなった。

「不思議だったんだ。なんでお前はそんなにも強いんだろうって。一人でいても、こんな先の見えない場所にいても、どうしてそんなに優しく寄り添えるんだろうって」

 潤んだ目を見開いたまま動かないトワの頭に、青年は優しく手を乗せる。

「たった二日間だけだけどさ、一緒にいて十分すぎるくらい分かったよ。お前はここにいる物語たちの気持ちが分かるんだ。消える怖さも、忘れ去られてしまう悲しさも、自分のことのように分かるんだ」


 だってトワ、お前自身もそうだから。


 青年が優しく頭を撫でてくれるせいで、トワの目がまた赤くなる。

 また涙が流れてくる。

「だからお前は強いんだ。優しいんだ。自分と同じく消える運命の物語たちを、自分だけは最後の結末まで見ていてやりたい。お前にはちゃんと心に決めた夢があるから、トワはトワであり続けられるんだよ」

 青年の言葉一つ一つがトワの心を埋めていく。

 一人でずっと抱えていた思いを青年が言葉にしてくれて、解きほぐしてくれた。

 そんな気分。

「ぼ、僕は全然強くないよ……。あのヒビだらけの瓶を見たなら君にも分かるでしょ。僕にはもう時間がないんだ……」

 トワは心に詰まっていたものを吐き出しながら言う。

 初めて自分の奥底に秘めていた思いを込めながら言葉にする。

「本当は消えるのが怖い。存在しなくなるのが怖い。誰にも必要とされず、誰にも語られず、自分のやりたいことができないまま消えていくのが怖い」


 僕はこの島の、ただ一人しかいない「墓守」なんだ……それなのに。


 言いたかったことを素直に口に出すことがここまでスッキリすることだということに、トワは初めて気づく。

 心の中で溜まっていた何かが綺麗に吐き出され、笑う場面でもないのに「ふふふ」と自然に笑みが溢れる。

「お前はそうやって素直に笑っている方が、よっぽど似合ってるよ」

 青年もトワにつられたのか、同じように笑いながら言う。

「そういうあなたも、その顔の方が仏頂面よりいいですよ」

「はっ!俺より子供のくせに生意気なこと言うな」

 二人でそんなことを言い合いながら砂浜に寝転び空を見上げる。


 その空はどこまでもどこまでも青色に澄んでて、どこにいても同じ空で、いつ見ても綺麗なんだなと青年は思った。


「なぁ……トワ」

「はい、なんですか」

「俺さ、元の場所に帰るの本当は辞めようかと思ってたんだ」

「え?」

 トワはゆっくりと青年の方に顔を向ける。

 青年は空を見上げたままだった。

「あそこに帰ってもまたつまらない毎日を送るくらいなら、お前とここにいる方が楽しいのかなって、そう思って」

 それに、と青年は続ける。

「そもそも帰っても俺には別にお前みたいにやりたいことなんてないし。意味もなく頑張り続けること自体に意味を見出せなくなってた」

 青年の言葉を聞いて「ああ、これがこの人が心に抱えている思いなのか……」とトワは思う。

 だったら全て吐き出してほしい。君がさっき僕の思いを全て吐き出させてくれたように、僕も君の心の中に溜まっているものから君を救えたらいいのに。


 結局僕は、僕の物語は、誰の心にも残らないのか……。


 青年の方を見つめながら悔しい思いに顔を歪ませていると、青年が空から視線を外してユウの方を見た。

「でも……でもさ、トワが俺に言ってくれたから」

「え……?」

「トワがまだ見ぬ何かのために頑張っているのはすごいことだって言ってくれたから。俺も元の場所でもう少しこのまま続けてみようかなって思えた」

 トワのおかげで、俺にもやりたいことができた気がするよ。

 苦しい表情をしているトワとは反対に、青年はふわりと笑って言った。


「だからトワ。俺にお前の物語をくれないか」


 トワは目を見開く。

「僕の物語を君に……?」

「そう」

 青年は真っ直ぐトワの目を捉えたまま頷く。

「俺は君の物語を語り続けたい。忘れたくない。トワとの出会いを忘れられるはずがない」


 トワに消えてほしくないんだ。


 震えるその声はトワが初めて聞く青年の心の底から振り絞った思い。

 そんな彼の声を聞いて、トワは心が温かくなる。


「いいですよ」


 僕が怒るのを分かっていながら、自分を悪者にしてまで僕を救ってくれたこの人を、僕も忘れたくない。

「あなたが僕の物語を覚えていたいと少しでも思ってくれるなら」

 トワは青年の砂まみれの手を取り、強く握る。


「あなたに僕の人生の全てを託します」


 青年も強くその手を握り返す。

「世界中の人が忘れていても、俺だけは絶対にお前のこと忘れないから」

「その言葉があれば、僕はこれからも僕のままでい続けられます」


 遠くの海の方から、いや……実際はもっと近いところから。

 青年の耳元で、頭の中で、波の音が聞こえてくる気がする。

 握っているはずのトワの手の感覚が曖昧になり、すぐ目の前にいるはずのトワの顔がぼやけて見える。

「あれ……俺……」

「そろそろお別れのようですね」


 波の音がさっきより大きく聞こえる。

 どこかに流されていくような、そんな浮遊感。


「僕の物語に登場してくれて、ありがとう」


 遠くで微かに聞こえる優しいトワの声を感じながら、青年はゆっくりと意識を海に沈めた。

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