第13話 夏至前二日~おじいさまの道~

あたしは急いで扉を開け……開け……開けられない。


「あ、開けられない」


「……あ、開かないかな。ぼ、僕も、使ったことないからな」


 二人で押したり引いたりしてみたが、扉は開けられるのを拒んでいるかのようにビクともしない。


「どうしよう」


 あたしは赤くなった両手をぎゅっと握りしめた。


 もう。いや。


 熱い塊がのど元にこみ上げてくる。みるみる視界がぼやけてきた。


「え、ちょ……ちょっと」


 レイは、慌てたように手であたしの涙を受け止めた。


 レイのすすけた掌に、ナメクジが通ったみたいな線が何本も引かれる。


「な……なに、これ……」


 レイは、自分の掌に落ちた涙をぺろりとなめた。


「しょ……しょっぱい……」


「舐めないでよ」


 あたしは、涙を見せないように下を向いた。


 レイは、そんなあたしの顔を無理矢理上に向かせた。


「な、何これ」


「何って……涙よ。泣いてんの」


 莫迦にしてんの? と言いかけて、引っ込めた。


 レイが、本当にわからないという顔をしていたからだ。


「……悲しいときとか、嬉しいときとか……。レイは泣かないの?」


「……み、見たことない」


 レイはそう言うと掌の残りの涙を舐めた。あたしはその汚い手を見ないようにした。


「う、嬉しいのか?」


「なんでそうなる!? もう帰りたいの。もう疲れたの」


 涙が止まらない。

 あたしはしゃっくりをあげた。


 レイは、不思議そうにじっとあたしを見ていた。


「見てないで何とかしてよ」


 あたしはイラっとして、レイの肩をぺちっと叩いた。


「このドアを開ければいいの?」


 あたしは、黙ってうなずいた。


「さ、さ、下がって」


 レイは、片手であたしを抑えた。


 あたしが一歩下がったのを確認すると、レイは、勢いよくひゅっと息を吐いた。


 次の瞬間、大きな音を立てて、ドアが宙に浮いた。光に照らされた埃が舞う。


「……ありがとう」


 お礼を言うと、レイは「も、も、もひとつ契約を」と言って笑った。


 つられてあたしも笑ってしまう。


 吹っ飛んだドアの中から、かび臭い風が舞い上がってきた。


 ドアの奥は真っ暗だった。

 風が吹いてきているので、どこかには通じているはずだが、奥は見えない。


「……階段ないね……」


「……う、う、うん……し、下までぼ、僕が送って……いく?」


 レイが天窓を指して言った。


 思いっきり首を振る。


 絶対、嫌だ。

 

 もう二度と地に足をつけた生き方を手放すつもりはない。

 言葉通りの意味で、正確に理解していただきたい。


「とにかく降りてみようよ」


 ここしかないなら、ここを行くまでだ。


「お、おすすめ、おすすめ、おすすめしないけど」


 レイは眉間にしわを寄せながら三回言った。


 大事なことは三回言う。まあ、正しいかね。


「レイ君……ありがとう。本当にありがとう。助けてくれてありがとう。日本に帰ったらお礼させて。榛の木村の名物送らせて。名物に旨いものなしっていうけど、そんなことないからね」


 村は牧畜が主産業で、乳製品が本当に美味しい。

 婦人部のおばちゃん達が村おこしをかねた商品開発に自分の体を丸っこくしながらがんばっている。


 あたしの命の代わりにはならないが、何かお礼はしたい。


「書くものある?」


「う、うん」


 レイは、素直にマホガニーの机の上から、万年筆と金の縁取りのある紙を持ってきた。


「住所と名前書いて」


「な、名前?」


「うん。ここの住所と。お礼状かけないでしょ。フルネームね。まあ、ステンドグラスとこのドアと命助けてくれたお礼にはなんないかもしれないけど」


 バイト増やそう。


 そんなこと考えている間にみるみるレイの顔が赤くなる。


「だ、だから、そ、それは……」


「住所よ。わかんないの?自分の住所と名前。なんかさっきも変だったよね。早く書いてよ。下に行って書くヒマないかもでしょ」


 知らない国だ。陽があるうちに、なんとか飛行場のある町に着きたい。


「もしかして、わかんないの?」


「……あ、あ……わ、わ、わかんない」


 レイは壊れたおもちゃみたいに首を振った。


「……どうやってお礼を送ればいいのよ。窓割れたこととか、お家の人に怒られない?」


 遠慮してんのかなあ。心配になってきたぞ。


「いや……だ、だだ、大丈夫。怒られない」


 レイは鼻をこすりながら、恥ずかしそうに言った。


「じゃあ、あなたが命の危機の時はどうやってあたしは駆けつけるのよ。命のなんとかって契約してんでしょ」


 矛盾してるなあ


「わ、わかる。あ、あ、あなたには。ぜ、ぜ、絶対。ぼ、僕は、あ、あなた……あなた……ユキ……の場所がわかるし……に、日本……は、榛の木村。覚えた」


 彼は紫の目を細めた。


「なんだかわからないけど、わかった。あたしにはわかるのね。ほんとにありがとう。じゃ……」


 もじょもじょと煮え切らない彼を相手している時間はなかった。ここはご厚意に甘えることにする。


 あたしは再び真っ暗な穴の中を覗き込んだ。


 下が見えない中に入るのは、なかなかに勇気がいる。


 おそるおそる足を入れ、そのまますっぽりと暗闇の中に顔を入れた。


 下には何となく床が見える。


 あたしは思い切って飛び降りた。

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