第9話 夏至前二日~レイ~
「出口はどこよ! 下に降りたいの! さっさと教えなさいよ!」
あたしの勢いに押されて男の子はさっと天井を指さした。
「あ、あそこ……」
「?」
「……あそこ」
男の子はもう一度言って、天井を仰いだ。
天井には、私が落ちてきたステンドグラスの壊れた窓があるだけだった。
「……あたしが落ちてきたとこじゃない。」
教科書に載っていたアルカイックスマイルのような顔をして、男の子は頷いた。
「へー。そう。あんたはこの部屋から出る時は、あそこから出入りするの? あんたに用事がある人はあそこから入ってくるの?」
「う、うん」
冗談半分に聞いて、答えが真顔で返ってくるとは思わなかった。
「ねえ。もしかして、監禁されてるの? 大丈夫? 一緒に逃げようか?」
「監禁って……」
彼は、今度こそ二の句が継げないといった顔であたしを見た。どうやらその線はないらしい。
「き……君ホントに、ホントに何も知らずに来たんだね……ぼ、僕のことを知らない、き、君が、なぜここに入れたのか、本当にわからないのだけど……」
「あたしだってわかんないわよ。落ちてきたから入ってきたけど、どうやって出んのよ。鳥でもなけりゃ出たり入ったりできないじゃない」
「誰も出たり入ったりできないはずなんだ。ぼ、僕が、の、呪いをかけたから」
……今すぐ悪魔払いをしたい。
鶏の血とか必要だったっけ?
鶏を絞め殺しに行く前に、あたしは男の子に聞いた。
「どんな呪いがかかるっていうのよ?あたし元気よ。」
「……」
男の子は、不安げに自分の両手を見つめた。
「なんで、あ、あなたは入れたんだろう……僕の、ち、『力』弱くなってるかなあ」
「とにかく。監禁じゃないのね? 誰かに閉じ込められてるとか、さらわれたとかじゃないのね?」
男の子は、こくんと頷いた。
「じゃあ、なんで出口ないのよ」
「……ぼ、僕が、誰にも会いたくないから」
「……あんた、ホントにどこから入ったの?」
男の子は、また、あたしが落ちてきた窓を見上げた。
新鮮な空気が、開けっぱなしの天窓から吹き込んできた。
呼吸が楽になっている。
いつの間にか、あの重たいまとわりつくような空気も、低い耳鳴りのような音も消えていた。
「わかった。オーケー」
あたしは何気なく、開けてないカーテンの、最後の一つをゆっくりと開けた。
南無三
残念ながら、そこにも厚い窓がはめ込まれていた。
あたしは、もう一度ぐるりと部屋を見渡した。
全てのカーテンを開けた部屋は、四方八方の壁がガラス張りになっていて、さながら宙に浮かぶ温室のようだった。
どこを見渡しても階段に通じるようなドアは一つもない。
部屋は埃っぽく、宙を舞う埃が光を反射してきらきら光っていた。
「あんたってば、なんでこんな出口も入口もない、バカ高いとこに好きこのんで引きこもってんのよ。」
「ば、バカじゃない……う、うちは、どこにいても誰かがいるから、とても疲れるんだ。……だけど、この塔の部屋だけは誰も来ることができない。とても……ら、楽なんだ。ち、小さい頃、ぼ、僕のおじいさまがくれた、ぼ、僕だけの塔の部屋」
あたしは、絶望的な気持ちでその単語を聞いた。
「ごはんはどうしてるの? お母さんは」
彼は、ぱっと明るい顔をした。
「や、やっぱり母上に頼まれたの? だから、は、入れたんだね」
あたしの胸の奥がきゅっと縮まる音がした。
「誰にも頼まれてないよ。ほんとに落ちただけ。」
彼の顔から、笑顔が消えた。
やれやれ。
あたしは、急速に怒りが冷えていくのを感じた。
「……いつも一人で何してんの? 友達とかは?」
「と、ともだち?と……ともだち? 何それ?」
「友達って……え……何って」
ふと、彼の爪の先が、渦を巻いて伸びているのに目がいった。
年単位で切られていない爪だった。
黒い長い髪にも白いものがたくさんついている。
すえた匂いが鼻についた。
マンホールを開けたことはある?
あたしはある。
しかも、下に降りたことも。
その匂いにそっくり。
この子は、いつからお風呂に入ってないのだろう?
「ねえ。とにかく二人で下に降りない?降りてから考えよう。こんな高いとこいたら落ち着かないもん」
もともとあたしは高所恐怖症だ。少しでも低いところ、地上に近いところで話をしたい。
「まずは、あたしの兄さんと母さんに会って、日本に帰れたら、あなたの窓とベッドの修理のお金を送るよ。住所と名前教えて。何年かかっても必ず送るから……ねえ、あなた、その顎、はずれない?あたしのアバダン語、そんなに変かなあ」
男の子は、大きく口を開けたまま驚いていた。
そんなに驚くようなことを言った覚えはない。
「な、なんでそんなこと聞くの? 会ったばっかりでしょ?」
男の子は、真っ赤になって言った。
「いや、聞くでしょ。そりゃ」
なんて呼べばいいかわからないし。
「名前は?」
瞳の色にちなんで「すみれ君」とでも呼んで良いなら呼ぶけど、あんたヅカファンでもないでしょ?
「ねえ」
あたしはゴキブリを追い詰めるように、そっと近づいた。
男の子は、驚いたように後ろに飛び退いた。
「ほら。名前は?」
さらに近づくと、男の子は観念したように、真っ赤な顔をしながら、漏れるような声で答えた。
「……レイ……」
あたしはにっこりした。
名前は大事。レイは古いアバダン語で「愛するわたしの子」という意味だ。
大丈夫。自信を持て。
ちなみにあたしの名前は雪。
控えめに言っても、溶けてなくなっちまえ。
「レイ君、お願い。帰らせて。あ、でも、ここから落ちる以外で」
ここは強調してもしすぎないところだ。
「お願い。あるんでしょ。帰る方法」
レイはふるふる頭を振った。
「なかったかー。って、なかったらあんたはどうやってここに入ったのよ! 飛んできたのかよ!」
冗談で言ったつもり。脊髄しか使ってない会話のつもりだった。
でも、彼はふっと窓の外を見た。
つられるように窓の外を見た。
赤い三角屋根の家がこの建物を中心にして、放射状に立ち並んでいる。
よく見ると、人形のようなモノが石畳の道に沿うように、浮かんでいる。
「あれ……人じゃない? ねえ。あれ、浮いてない? 何これ? 全国一斉スカイダイビングの日とかなの?」
そんな日がある国には死んだって行きたくない。
事故でパラシュートもなく飛行機から落ちたことのある人なら誰だってそう思うはずだ。
「す、スカイダイビング? な、なにそれ?」
男の子は首を傾げた。
「あんた、あれ見えないの? あの……飛んでる人達、だれもパラシュート開かないんだけど」
突然、男の子は無言であたしの髪をつかんだ。
「何すんのよ!」
あたしはすばやく振り払おうとした。
「……地毛なんだよね?」
男の子はあたしの手をつかんで、確認するように聞いた。
あたしは赤べこのように何度も頷いた。
「あ、あなた、入ってきた時も、飛ぼうとしなかったよね。なんで?」
いや、飛べねーもん。
彼はあたしの首振りを完璧に無視した。
「ねえ、ホントにまさかのアレ?」
「あれ?」
「飛ぶの?」
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