第8話 夏至前二日~男の子~

「だ、だれだ?」


 深緑色の長いカーテンの後ろから、たどたどしいアバダン語が聞こえた。


 あたしは、そのまま、ごくんと息を飲み込んだ。


 カーテンの後ろから、男の子が出てきた。


 年齢は、発育不良の十五才かそれ以下。

 肌は薄汚れていて、元の色がよくわからない。

 爪はくるくると渦巻きをかいて伸びていた。

 もしゃもしゃした黒くて長い髪は腰まであり、髪で顔は半分以上隠れている。


 こちらを見据える男の子の目は、濃い紫色だった。


 兄さんと同じその目の色を見た時、初めてあたしは、自分がどれだけ兄さんに会いたかったか思い知った。


「お、お前は誰だ?」


 男の子はもう一度低い声で言った。


 あたしは、気を取り直して、今度はアバダン語で言い直した。


「えっと、えっと、ごめん。あたしは雪と言います。山田雪。あの、信じられないかもしれないけど、ちょっと、飛行機から落ちちゃって、鳥の背に乗ったの。で、その……この部屋に落ちたの。ベッドがあって、助かった。ほんとに。えっと……ごめんね。あれ、あなたのベッドだよね。土足でのっちゃって……窓も……割っちゃって……ごめんね」


 男の子は、じっとこちらを見つめたまま動かない。


「あの……あたしの言葉、わかる?」


 男の子は、こちらから目を離さずに、ゆっくりと頷いた。


 よかった。言葉は通じているようだ。


 小さな低い、うなるような声が聞こえたのはその時だった。


 マフラーの壊れたトラックが、空から近づいてきたのかと思った。


 あたしは、音の出所を見つけようと忙しく首を動かした。


 男の子は、無言で天井を向いた。


 天窓から差し込んでいた太陽の光を、大きな鳥の影が遮った。


「あ、あれ、あれ、あれ、あれに途中乗っかったの、あの、飛行機から落ちて、あの鳥の背でワンバウンド」


 一塁ランナーアウト


 男の子に冷ややかな目を向けられて、その後の言葉が続かない。


「ホントなの。信じないかもしれないけど、あの鳥の背に乗ってここに着いたの」


「……と、鳥じゃない」


「え?」


「あれは、と、鳥じゃない」


「え?」


 羽音と鳴き声がうるさくてよく聞こえない。


 男の子は聞こえるくらいの大きなため息をついて、自分の後ろにあったカーテンをおもむろに開けた。


 一瞬世界が白くなった。


 カーテンの向こうには、真っ青な空が広がっていた。


 天井から足下までは、大きな張り出し窓になっていて、緑の稜線のはるか遠くまでよく見渡せた。


 この景色から判断すると、かなりの高さの建物だ。


 次の瞬間、あたりに爆音が響きわたった。青い空を覆うような大きな鳥が、次々と目の前を飛び去っていく。


 羽の間の長い首と顔には、亀の甲羅のように盛り上がった突起があり、お腹の部分だけ、柔らかそうな毛が生えていた。

 

 あの首にぶつかっていたら間違いなくここにはいなかっただろう。


 真っ黒な羽根の先からは、火花が散っており、焼け焦げた生臭い匂いが鼻についた。


「あ、あれは、アヴォイドだ。普通、ひ、人は乗せない。飛行機の話が本当の話なら、あ、あなたラッキーだ」


 いつの間にか男の子が、すぐ目の前に立っていた。


「あ……アヴォイドを知らないなんて……ありえない。……どこから来た?誰か頼まれた?」


 男の子が目を細めた。


 周囲の空気がどんより重く感じる。遠ざかっていく鳥の羽音の代わりに、蜂の羽音のようなブーンという音が耳元に鳴り響いていた。

 彼に握られた右手がじっとりと汗ばんでいた。鷲のようにくるりと巻いている長く伸びた爪が皮膚に押しつけられる。


「おまえは、誰だ?」


 先ほどまでのおどおどした少年はどこにもいなかった。あたしを握る手に、ぎゅっと力が込められた。


「ちょ、ちょっと。痛いってば……」


「言え」


「その前に離して。」


「言え」


「……だから言ってるじゃない。あたしは雪。山田雪。日本に住んでる高校生。日本って国、知ってる? あ、知らない? アジアにある島国よ。その日本っていう国からアバダンに住んでいる兄に会いに来たの。ここ、アバダンよね。あなたアバダン語しゃべってるものね。兄に会いにアバダン行きの飛行機乗ったんだけど、途中でその飛行機から落ちちゃったの。で、ここに着いたの……なんか、ちょっと荒唐無稽な話だけど……」


 あたしの声は、どんどん小さくなっていった。


 男の子は、盛大に鼻を鳴らした。


「まさか。そんな話を信じろと? アジアにある、その島国の人間がなぜここに入れる?ここには誰も入れない。アバダン人でさえもだ。誰かが手引きをしたはずだ。誰が、あなたをここに入れた?」


 濃い紫の瞳に浮かぶ、不審なまなざしが、あたしを刺すように見た。


「誰に頼まれた? 何が目的で入ってきた?」


 男の子の顔が近づいてきた。紫の瞳孔が、ぐっと大きくなる。


 蜂の羽音のような耳鳴りが、どんどん大きくなっていく。


「目的もなにも、ほんとに落ちただけなんだよ」


「あなたが? ここに落ちた? よりにもよってここに? そんなはずあるわけない」


 決めつけられたその言葉で、あたしの頭がカッと熱くなった。


「だから、落ちたの! どう言えば信じてくれんの?」


 あたしは、握られていた手を思いっきり振りほどいた。


「誰に頼まれたって? 兄さんよ! 兄さんがアバダンに住んでるの。目的? 久しぶりに会いたいからって、誕生日をアバダンで過ごしてほしいって言われたから来たの。試験があっったから母さんとは一緒に来られなかったの。初めて乗ったの! 飛行機! だから、飛行機のCAが客を途中で放り出すことがあるなんて知らなかったのよ! 飛行機から落ちたの。鳥だか何だかわかんないさっきの動物にワンバウンドしてここに着いた。ベッドと窓、めちゃめちゃにしてごめんね。すぐに帰るから! 出口どこ?」


 一気に言ってから、思いっきり肺に酸素を送り込んだ。


「え? か、帰るの?」


 男の子は、拍子抜けした顔をした。


「帰るわよ!もうたくさん。帰る! 日本に帰る! 出口どこなの!」


 壁一面に吊り下がっているカーテンを一つずつ乱暴に開けていく。


 ドアが見つからない。


「出口どこ!」


 男の子は、カーテンを開けながら、部屋の中を行ったり来たりしているあたしを茫然と見ていた。

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