第5話 夏至前六日(三)~ヒロの帰った日~

 兄さんとの思い出で一番強いやつ。





 小学校に入る前だったと思う。


 ある日、小さな子猫が私たちの遊び場の野原に捨てられていた。


 猫は、弱い子供を置いていくという。


 子猫は一生懸命鳴いていたが、母猫が戻る様子はなかった。


「お腹すいてるんだよ」

「すずおばちゃんのとこから牛乳をもらってこようよ」


 あたしたちは、遊び仲間と一緒に、近所の牛舎に忍び込んだ。


 榛の木村の子ども達にとって乳しぼりは、小さな頃から小遣い稼ぎの手段だ。

 一人の子が大きな牛の足下にすばやく入り込むと慣れた手つきで牛の乳をしぼった。

 まだあたたかいその牛乳を、おままごとで使っていた皿に入れて子猫に飲ませた。


 赤い、ふちがかけたプラスチックの皿に、小さな猫の毛がひっかかった。


 子猫は、愛くるしい顔で鳴いた。


 ふわふわした小さな命に、あたしたちは夢中になった。


 榛の木村は牧畜が盛んだ。子猫の餌には困らない。


「みんなで育てようよ」

「さんせーい」


 こんな無力な生き物を自分たちで育てる。考えただけで気分が高揚した。


 兄さんは面白くなさそうにそれを見ていた。


「抱っこしてみたら?」


 あたしは兄さんの前に子猫を渡そうとした。


「やだよ」


 兄さんは無表情で子猫を見た。子猫はおびえたように尻尾を丸めた。


 風が強い日だった。


「子猫がかわいそう」


 誰かが言った。


 あたしたちは、風よけになるものを探した。

 そのころは、村の空き地に土管がたくさん放置されていた。


 誰かが縦に並んだその土管の一つによじ登った。


 土管の中は温かく、風よけにはもってこいだった。


 ここなら大丈夫と誰もが思った。


 一人が土管に入った。もう一人がそっと子猫を渡した。


 そのあとの記憶は、ほとんどない。


 鬼ごっこか何かで、遊び疲れて家に帰ったのだろうか。



 何日か雨が続いたある日、空地の土管を見て、あたしは突然小さな命を思い出した。


 恐る恐る土管によじ登ると、小さな骸が横たわっていた。


 細い爪の跡が土管の壁に無数についていた。


 兄さんは、震えが止まらないあたしの手をしっかり引きながら、


「他に目移りするからだよ」


 全てを見透かしたかのような顔をして、笑いながら言った。


 あたしはつないでいる手を振り払おうとするのをじっとこらえた。






 兄さんがアバダンに帰った日も、雨だった。


 その日、隣に住むすずおばさんの家で牛の出産があった。


 猫の手よりはマシなお手伝いのついでにおやつにも呼ばれた。


 冬リンゴのアップルパイは、たっぷり蜜がかかっており、久しぶりに甘いものが食べられたあたしは、幸せな気分で家の階段を上った。

 もちろん兄さんへのお土産のアップルパイを一包み持って。


 あたしの帰りは遅かった。


 いつも「遅い」と言いながら階段で座って待っている兄さんが、その日はめずらしくいなかった。


 玄関のドアを開けると、家の中は暗く、冷たい静けさに包まれていた。


 雨音が響く居間の真ん中に、母さんがいた。母さんは、大テーブルに足を乗せ、大きな袋のポテトチップスをあおり飲むように食べていた。


「兄さんは?」


「迎えが来たのよ。あの子は学校入りよ」


 母さんは、酔っぱらったみたいな口調でぶっきらぼうに言った。


 それきり、兄さんとは会っていない。


 兄さんは、アバダンに帰ってからも、何度も手紙をくれた。あたしの誕生日には欠かさず、小さな贈り物と心のこもった手紙を黒鷺の足につけて送ってくれた。


 なんで郵便じゃなくて鷺?

 とは思わなかった訳ではないけれど、そのうち、兄さんの兵役が始まって、手紙は途絶えがちになっていった。






 ガキ大将の住んでいた家を通るたびにあたしは兄さんを思い出した。


 あの土管の中にいた子猫の骸とともに。


 あたしは、心のどこかで、蔦のからまるこの家のどこかに、一家の骸が横たわっていると思っている。



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