第4話 夏至前六日(ニ)~兄のヒロ~

 一人で帰る道は静かだった。


 夏至が近いせいで日は長く、牧場がつくるなだらかな稜線は、重なり合って青い空にくっきりと浮かんで見えた。

 

 遠くから牛の鳴き声が絶え間なく聞こえ、砂利道の間からは、雑草が勢いよく生えていた。

 

 崩れかけた牛舎の向こうには、古びた家が建っている。


 ここ何年かで榛の木村の人口減少は加速しており、空き家はもう珍しくない風景になっている。

 

 村の人達は誰もかれもが働き者で、家の手入れはきっちりするので、人が住んでいない家は嫌に目立っていた。

 

 人の手が入っていない荒れた庭では、うるさいくらい虫が鳴いている。


 二階の窓は割れていて、日に焼けたカーテンが風に膨らんでいた。

 

 あたしは後ろめたい気持ちで荒れたその家を見上げた。





 まだ小学校に上がる前のことだ。

 

 あたしはこの家に住んでいた男の子にいじめられていた。


 そいつは、あたしの何が気に入らないのか、からかい、髪を引っ張り、いつも仲間はずれにした。


 体が大きくて、乱暴で、でも、人を従わせる何かを持っていた。

 

 みんな、口ではなんと言っても、彼の言動をつねに意識した。


 この狭い田舎の子どもにとって、仲間はずれは人生の崖っぷちに立たされるのと同じことだった。


 あたしは毎日必死で戦った。


 でも、そいつは強くて、したたかで、意地悪で、小さくて泣き虫なあたしは、まるで歯が立たなかった。


 その年の梅雨は長かった。

 

 雨は毎日降ったりやんだりを繰り返し、道路には大きな水たまりがいくつもあった。

 

 その日は、その男の子のいじめがいつもよりしつこくて、あたしは水たまりの中に何度も転ばされ、泥まみれで泣きながら家に帰った。

 

 いつも森の中をふらふらしている兄さんが、その日はめずらしく、家にいた。

 

 兄さんはあたしを見ると、無言で抱き上げ、風呂場に連れて行った。


 泥だらけだったあたしの足をシャワーで洗い流すと、痛みも傷も、嘘のように消えていた。

 

 あたしはしゃっくりをあげながら、今日会ったことを全部話した。


 兄さんはあたしの話をじっと聞いていた。


 その時の兄さんの目を、あたしは忘れない。


 母よりもずっと濃い紫の瞳の奥に、見落としようがない狂気があった。


 兄さんは湯気のたつミルクの入ったコップをあたしの手に握らせると、黙って家から出ていった。


 それからしばらくして、気がつくとその男の子の一家が村からいなくなっていた。


 一家が住んでいた家はいつのまにか空き家になっており、急にいなくなった家族を、村の人たちは最初からいなかったように受け入れていた。


 この田舎で、誰にも何も告げずに家族ごと目の前から消えたのに、誰もそのことを不思議に思っていなかった。



 ヒロだ。ヒロがやったんだ。



 あたしは、ケガをしたあの日の兄さんの、あの紫の目が何度も頭に浮かんでは消えた。


 兄さんの名前はヒロと言う。


 生粋のアバダン人で、もう覚えていないが、本名はえらく長かった気がする。

 

 あたしと兄さんは半分だけ血がつながっている。

 

 母さんが、あたしの父さんと出会って、夫とその子どもを忘れた。母さんはそのまま自分の国に一度も帰ることなく、私を産んだ。

 

 あたしの父さんはあたしが生まれてすぐ死んだけど、あたしが生まれたことで、兄さんの家族は修復不可能になった。

 

 兄さんは、母さんが去って、暴力を振るうようになった自分の父親から、逃げるように母さんの元に来たと聞いている。

 

 真相はどうだかわからない。


 あたしは、兄さんが母さんの育児放棄を見かねて、帰るに帰れなかったのだと思っている。


 お腹が空いたときご飯をくれたのも、母さんが物を投げたとき体を張って守ってくれたのも兄さんだった。


 学校に行く年齢だったと思うけど、村の学校には行っていなかった。


 村で不登校児は珍しかった。


 彫りの深い顔立ちと濃い紫の目、透き通るような白い肌をした兄さんは、ベンガルトラが放し飼いで歩いているぐらい目立っていた。


 村の女の子もおばさんも、みんな兄さんと話したがったけれど、兄さんのコミュニケーション能力は控えめに言ってもボルボックス以下、単細胞生物がゆるーくひとつの集合体をつくる程度だから、ほとんど意思疎通ができない。


 女の子たちがどんなに騒いでも叫んでも、彼は無視するか、ボウフラの浮き沈みを見ているみたいな冷めた目で見ていた。


 その傲慢な性格のせいか外見のせいか、榛の木村にちっともなじもうとしない態度のせいか、多分その全部だったと思うけど、差別も区別もひどかった。


 兄さんは意に介さなかったけど、つねに不機嫌そうに生きていた。


 兄さんにとっては、村の人達の態度うんぬんより、アバダンから離れて日本に、榛の木村に住んでいることそのものが、苦痛だったのだと思う。


 兄さんは、アバダン人であることに誇りを持っていた。

 生きていくのに大事な、拠り所というやつだ。


 兄さんの話す低く流れるようなアバダン語は歌を聴いているかのように耳に心地よく、兄さんが語るアバダンの自然や生活は夢のように美しかった。


 あたしは寝る前によくアバダンの話をせがんだ。


 食べ物の話が特に好きだった。


 あふれるくらいの蜂蜜を入れた糖蜜パン、色鮮やかな果物が焼き込んである甘いパイ、味の濃い野菜を煮込んだクリームシチュー。それらを作る家つき妖精ブラウニーの茶色い小さな手。


 そんなおとぎ話を聞きながら、暖炉の前でうとうとした。


 兄さんの菫色の瞳が細く笑うと、あたしはすぐに眠りに落ちた。


 朝起きるとなぜか必ずベッドの中にいて、あたしはいつも不思議に思っていた。


 小さい頃は、昼間もほとんど離れず過ごした。


 兄さんは大抵、あたしたち子どもが遊んでいる側の草むらか大きな木の陰で、昼寝をするか寝転がって本を読んでいた。


 夕方五時になると、村に流れるチャイムに急き立てられるように帰る子供の群れの中から、あたしだけを拾い上げ、二人で手をつないで帰った。


 たまに一人で遊びに出かけて、帰りが遅くなると、すごい形相で玄関の階段で待ち伏せしていた。


 赤ちゃんの時から自分で育てたせいか、責任感からか、あたしに対しての独占欲がとても強く、あたしは兄さんの閉鎖性がしんどかった。


 でも、兄さんがいないと生きていけないこともよく知っていた。


 小さい頃のあたしは、彼の機嫌を損ねないように細心の注意を払って生きていた。



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