第3話 夏至前六日(一)~照美と泰治~

「何よそれっ。ユキ!あんたの母さん、勝手すぎ。相変わらず過ぎて言葉もないわっ。あんたも行くことないわよ!」


 人気のない昇降口に照美の声が響いた。


「ありがと。」


 あたしは力なく微笑んだ。


「……あーもー。ユキはいっつもそうなんだから」


 やれやれ。という顔で照美は完璧なカーブを描いた眉をひそめた。


「そうって?」


「自分の気持ちよりお母さんを優先するってとこ」


 そうかも。あたしは言葉につまった。


「今回は、兄の兵役明けのお祝いもかねてるから……兄さんにも全然会ってないし」


「まあねえ……小学校入る前だったけ。お国に帰ったの。あんときは村の女がこぞって泣いてたわよね。え、それから会ってないの?一度も?」


 あたしは頷いた。


 兄さんが帰ってこないだけじゃない。


 母さんだって一度もアバダンに帰っていない。


 家族全員が揃うのは、本当に久しぶりなのだ。


「兄貴がいたなんて知らなかった」

 

 照美の傍にいた泰治の顔が急に近くなった。


 あたしの声が小さいのと、泰治の背が高いのを合わせると、結果、泰治がかがむことになる。


「泰治は途中から転校してきたもんね。有名だったんだよ。ユキのお兄さん。めちゃめちゃかっこよくて。ね、ユキ」


 照美は、ふわふわの茶色の髪を片手で膨らませながら言った。


「……そうかなあ?」


 兄さんの顔はともかくとして、とにかく性格がひどかった。


 家族じゃなかったら絶対にお近づきになりたくない。


「ふうん……ま、しょうがないんじゃね? 早く帰ってこいよ」


 泰治はそう言うと、あたしの頭にその大きな手を乗せた。


 あたしの心臓が、喉のあたりまででかかった。


 泰治は、あたしの循環器系の体内大移動も知らずに「帰ってきたらお祝いしようぜ」と能天気に言った。


「じゃな」


 泰治は片手をあげると、試験期間中に繰り広げられている草サッカーに走り出していった。


「……泰治ってばかだよね……」


 照美は、泰治が触ったあたしの髪を見ながら言った。


「……そうだね」


 あたしは、心臓を元の位置に戻しながらあいまいに答えた。


「まあ、しょうがない。行っといで。あんた初めてじゃない?家族に誕生日祝ってもらうの。よかったじゃん」


 あたしは自分の耳が熱くなるのを感じた。照美に、子供じみた希望を見透かされたのが恥ずかしかった。


「お土産買ってくるね」


「楽しみにしてる」


「アバダンって何が名産だったかな」


 あとで兄さんに聞こうか。


「アバダンってどこにあるの?」


 照美は、持っていたスマホの画面をスクロールした。


「え、太平洋の真ん中にない?」


「あるよ。ハビヤーン大陸の真ん中でしょ。あるけど、真っ白よ」


 照美のスマホに映し出された地図には、国の名前が書いてあるだけだった。


「う……そうなんだよね」


 あたしは言葉に詰まった。


 母さんの故郷、アバダン王国は、地球の歩き方どころか、外務省の海外安全ホームページにすらのっていない。

 

 どこの国とも国交を結んでおらず、国連にも加盟していない。

 

 それでも、高度な軍事力と政治力で他国を圧倒し、独立国として認められている希有な国だ。

 

 昨日、母さんにパスポートがないんだけど。と言ったら、いらないと言われた。

 

 それで、どうやって飛行機が飛んでいるのかわからない。


 どうやって、母さんが日本に住み続けていられるのかも。

 

 そのことについては、ちょっと怖くて考えないようにしている。


 アバダン王国が世界史に登場するのは、戦争の時だけだ。

 

 その戦いの残虐性は他国を圧倒し、アバダンから生きて戻った兵士は一人もいないと言われている。

 

 ただ、アバダンは、厳格な永世中立国で、世界大戦の時、スイスは中立のテーブルを用意したけど、アバダンは、それすらしなかった。


 徹底的に自国は守るが、戦いはしかけない。


 その精神のせいか、戦い方のせいか、大陸ハビヤーンの他の国々は、アバダンを神の王国と呼び、冷酷無比なアバダン人を神の使いと恐れていた。


 奴隷制が敷かれているとか、人権が侵害されているとか、アバダンについては、まことしやかに噂されているけど、本当のところは誰も知らない。


 何人ものジャーナリストがアバダンに入国を試みているけど、たいてい失敗に終わるか、消息を絶っている。


 彼らは、まさかアバダン人が、日本の山奥、人間の数よりはるかに牛の数のほうが多い、榛の木村なんかに生息しているとは思うまい。

 

 一ミリも愛くるしさはないけれど、母さんはパンダより希少生物だった。


「まあ、でも、今、兄さんがアバダンに住んでいるんだし、飛行機も飛んでいるみたいだし、母親の生まれた国だからね……一応、言葉も喋れるし、行ったら何とかなるんじゃないかな。」


「え、知らなかった。ユキってバイリンガルなの?……の割に英語の成績悪くない?」


「英語とアバダン語は文法から何から全然違うんだよー」


 あたしは、よよと泣き崩れた。


「バイリンガルって言っても、母親が、家ではアバダン語以外で話そうとしないから喋れるだけで、読み書きはあやしいし。そもそもアバダン語喋れても何も得なことないんだよ。日本語と一緒。アバダン以外でアバダン語を使う国がないから、アバダンに行かなきゃ使わない。さらに、アバダンは鎖国しているから、将来役に立つこともないんだよ」


「そうか」


 照美は、心底気の毒そうにあたしを見た。


「まあとにかく、早く帰ってくるんだよ。泰治とすずおばさんとあんたの誕生日の準備をして待っているからね」


「……てるみー。絶対すぐ帰るよー」


 泣きつくあたしの頭をよしよしと撫でながら、照美はにんまり笑った。


「まあ、お土産とか気にしないで。あんたの兄さんの写真とか送ってくれたらいいから。」


 あたしの記憶では、照美と兄さんは仲良くない。

 どちらかというと犬猿の仲だった。


 コミュニケーションの化け物みたいな照美が、兄さんにだけはその能力を発揮しなかったので、変に覚えていた。

 

 それなのに写真だって?


「いまだに、女が集まればあんたの兄さんの話題は出るからね。さぞかし成長なさっているでしょうよ」


 美少女が、うひひと笑った。


 転売する気だな。


 あたしは、こめかみ辺りが急に痛くなった。


「佐藤!すぐ来いって言っただろー」


 廊下の向こうから大きな声が照美を呼んだ。


「あ、まさやん先生に呼ばれてたんだった」


 照美はしまったという顔をした。


「山田は明日英語だろ!早く帰って勉強しろ」


 その瞬間、昇降口にいた生徒全員にあたしの不得意教科がばれた。個人情報保護法が聞いて呆れる。


 あたしたちは、笑いながら顔を見合わせた。


「明日も試験だし、まさやん先生もああ言ってるし、ユキは先帰ってて」


 照美はそう言うと、足早に職員室の方に向かっていった。


 校庭からは楽しそうな泰治の笑い声が聞こえてくる。


 あたしは、母親に置いてかれた子供のような気分になって、埃っぽい昇降口を後にした。


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