第2話 夏至前七日~夏至生まれの子供~

 飛行機に乗る七日前、あたしは、いつものように居間にある大きなテーブルで、期末試験の勉強をしていた。


 向かいあって座っていた母さんは、静かに自分の長い爪を研いでいた。


「明日、アバダンに帰るから」

 

 母さんは、まるで隣町に行くように、何気なく言った。


「いってらっしゃい。」


 あたしは、物理の自由落下速度の計算が上手くいかず、イライラしながら、ほとんど反射的に答えた。


「……あんたも行くのよ」


「え?アバダン?」


 一瞬、母さんのアバダン語を聞き取れなかったのかと思って、もう一回聞き返した。


「そう言ったじゃない」


「明日?」


 思わず日本語で返して、あわてて、アバダン語で言い直した。


「明日?しかも、あたしも?って無理だから。あたし明日から試験だよ」


 母さんは、知ったことかと細い肩をすくめてみせた。


「無理だよ。絶対無理。試験明けたらすぐにあたしの誕生日もあるし。毎年その日は、照美と泰治がすずおばさんの家で誕生日パーティーをしてくれるの。毎年そうでしょ」


 母さんは、忘れているかも知れないけど。


 不覚にも最後の方は、声がかすれて出なかった。


「だから。だめ。留守番してる」


 あたしは、一呼吸置いて言った。


「……忘れてないわよ」


 母さんは、研いでいた美しい爪にふっと息を吹きかけた。


「え?」


 あたしは、自分の耳を疑った。


「忘れるわけないじゃない。夏至生まれの子どもなんて」


 あたしの誕生日を、一度も祝ったことのない母さんが、顔をあげて言った。


「いや、夏至って動くから。そして、一度も誕生日をしてくれたことなんてないじゃん」


「だから、あの子が、そのあんたの誕生日をアバダンでやるって言ってんのよ。夏至と……兵役明けのパーティと一緒にね」


 あたしの言葉をまるっと無視して、茜色の蜜蝋で封印された白い封筒をよこした。


「なにこれ?」


「あの子からの手紙と飛行機のチケットよ……ねえ、その試験、何とかなんないの?」


 あたしは、無言で首を振った。

 

 ひとつでも試験を落としたら留年だ。


 留年した人間に、奨学金は出ない。


 先日うちのトイレが壊れて、なけなしの貯金も消えたばかり。


 親切なあしながおじさんが現れない限り、留年イコール退学決定だった。


「ぜっったい。絶対何ともならない」


 あたしの決意を感じたのか、母さんはあきらめたように首を振った。


「……あんた一人でアバダンまで来れる?」


「母さんは、あたしをいくつだと思っているのですか?行けるよ。……飛行機に乗って行けばいいんでしょ。って言うか、そんなお金、うちのどこにあるのよ!?」


「……あの子が送ってきた」


「まじで?」


 あたしは、兄さんからの手紙をひったくるように受け取った。受け取る一瞬、指が拒否したのを母さんは見逃さなかった。


「ほんとにアバダンに来る気あるの?」


「行くわよ。絶対。兄さんにも久しぶりに会いたいし」


 母さんはその高い鼻を鳴らした。


「入国の手配をするわ。途中で降りたりしないのよ」


「降りるかっ!バスでもあるまいし。」


 どうだか。


 母さんは、薄い紫の目をぐるりと上に回した。


 そういう仕草が妙に似合っていて、あたしは、この人が外国の生まれ育ちであることを、急に実感した。


「夕ご飯食べる?」

 

 あたしは、勉強するのをあきらめて、物理の教科書を閉じながら聞いた。


 母さんを見ると、まるで誰もいないかのように無心で爪研ぎの世界に戻っていた。


 返事くらいしてよ。


 あたしは、ため息をついて台所に立った。





 母さんは、自分を犠牲にして子供のために生きる、みたいなおよそ母親らしいことは一切しなかった。


 ご飯も作らず、掃除、洗濯もせず、毎日生きていけるだけのぎりぎりのハーブを売って、その日暮らしをしていた。


 そして時折、狂ったように家の中で暴れた。


 あたしは、父さんが死ぬ時に母さんの心も一緒に持って行っちゃったんじゃないかと思っている。

 

 だから母さんの行動もしょうがないと思っていた。

 

 時折電気が止まるのも、

 しょっちゅうガスが止まるのも、

 ご飯がないのも

 しょうがない。

 

 でも、たまに言いたくなる。

 

 産んだんなら育てろよ。

 



 そんなわけで、あたしと母さんはあまりうまくいっている親子ではなかった。

 

 それでも、電気代がもったいないからと、あたしたちはなるべく同じ部屋で過ごしていた。


 外見も中身も全く似ていなかったけど、そういうところはよく似ていた。








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