願望交換局

秋待諷月

第一幕 貴方の願いが何であろうともーⅠ

 街は、今夜も霧の帳に覆われている。

 ひやりとした空気にコートの襟を立て、アルフは舗装された道を足早に行く。先の小雨に濡れた石畳は、街灯の仄かな明かりを反射して薄っすらと光っていた。

 夜も遅い時刻のことで、暗い路地裏ですれ違う人も無く、密集して建つ家々の窓から漏れる光も幽かである。磨き上げられた革靴の底と杖先が敷石をコツコツと叩く音が空虚に響き、周囲の建物にぶつかってはアルフに覆い被さってくる。

 美しく整えられた家々と舗道。自らが発する以外の音は何も聞こえない夜の静寂。ぽつりぽつりと見える灯火が霧の中に滲んでいく風景は幻想的であるのに、このまま目を奪われていたいと思えないのは、背筋を這い回る悪寒の為だろうか。

 柔らかな火が揺れる暖炉と、湯気の立つスープを思い描いて心を慰めながら、アルフは段々と入り組んできた細い路地の奥へと進み続ける。

 手には一枚の紙切れ。書かれているのは少しばかりの走り書きと、大雑把な地図である。

 水溜まりに映った橙色の光を見つけ、アルフはここまで歩き通しだった足をようやく止めた。手元の地図を確認しながら顔を上げると、小さく呟く。

「ここだな?」

 己が口から出てきたのは、安堵と疲労と、いくらかの躊躇いと、不安と希望が入り交じった掠れ気味の声だった。

 橙色の光の源は、眼前に佇む小さな民家らしき建物。区画の隅に位置しており、向かって右側には舗道が延び、左側には似たような外観の建物が連なっている。ここが目的地のようだ。

 赤茶の切妻屋根をのせた、三階建ての細長い家屋である。煉瓦風の焦げ茶色の外壁には模様のように蔦が這っており、建物自体からも古びた印象を受けるが、安普請ではなく、むしろ趣が感じられる。

 明かりは正面一階の窓から漏れ出ていた。硝子が曇っているため中の様子は伺えないが、黒い窓枠の中から滲み出す橙の光は建物外観の陰を際立たせて、暖かみ以上に不気味さを感じさせる。

 その窓の横に存在する、黒く塗装された玄関扉には、ベルも「welcome」や「open」の札も掲げられていない。ただ、扉のノブにぶら下げられた木製の簡素な看板だけが、ここが店であることを控えめに明示していた。

『法律相談事務所』。

 アルフはその名称を確認して一つ首肯し、コートのポケットに地図を押し込むと、意を決して扉の取手を握った。

 鍵はかかっていなかった。ガチャリ、という重い音と共に、扉が緩慢な動きで奥へと開く。途端にアルフを正面から照らす橙色の光。一瞬目がくらみ、だがすぐに慣れ、そして。

 扉を八割方開けたところで、アルフはぎしりと動きを止めた。

 店の中は清潔だった。綺麗に掃き清められた板張りの床に、来賓用と思われるローテーブルが一つと、それを挟んで臙脂色のソファが二脚。部屋の壁面や隅には小さな絵画や花瓶がささやかに飾られ、天井では小振りな照明が謙虚に室内を照らしている。奥には暖炉も据え付けられ、そのさらに奥には幅の狭い上り階段や、他の部屋へと続く室内扉が見える。窓は南と西側に存在しているが、日中どんな風景が臨めるのか、今の時刻では伺えない。東側の壁は大部分が書棚となっており、専門書と思しき分厚い本が床から天井すれすれまで隙間なく詰め込まれていた。

 アルフが硬直したのは、目に飛び込んできたそれらの光景が理由ではない。

 玄関から見て真正面、部屋の中央奥には、黒く塗られた大きな両袖机と、肘置きと背もたれがついたアンティーク椅子が鎮座している。

 そして、その机を挟んだ向こう側には、二つの人影があった。

「お願いだから放っておいてくれ、僕はまだ寝るつもりは無いのだってば」

「そう言っても、先から目を瞬かせてばかりいるでしょう。眠いのなら無理しないほうがいいわ。ココアでも作りましょうか」

「要らない、眠くない、まだいける。今夜こそ夜明かししてみせるんだ、僕は」

「ほら、欠伸が出てる。ちゃんと歯磨きしてから寝てね」

「今のは欠伸じゃなくて、血液中の酸素が欠乏しただけだよ」

「それじゃあ、私は店を閉めてくるから」

「寝ないって言っているだろう。先から話が噛み合っていないよ」

 声を荒げるでもなく、淡々とそんな会話を続けている二人の様子と容貌に、アルフはぽかんと口を開けたまま呆気に取られてしまう。

 室内にいる二人のうち、机の傍らに立っているのは、まだあどけなさの残る少女だった。

 歳は十代後半だろうか。薄水色のワンピースに、濃青のベストを合わせた地味な出で立ちである。黒い髪は肩に付かない程度の長さで切り揃えられているように見えたが、首の後ろだけは腰より下まで伸ばしているらしく、少女が動くたびに細い三つ編みが背中の後ろで揺れている。

 色白の綺麗な顔立ちによく映える、大きな青い瞳が印象的なその少女は、落ち着き払った声で、手の掛かる子を持つ母親のような小言を静かに告げ続けていた。

 そして――アルフが特に呆然とさせられたのはこちらの方だが――もう一人。アンティーク椅子に浅く腰掛け、机上に新聞を広げながら少女に反抗している人物。

 それはどこからどう見ても、母親に叱られても仕方がないような、年端も行かない小柄な少年だった。

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