第38話 過去との決別・前編

 サロン入口の扉に手をかけた瞬間、リーナはその動きをピタリと止めた。なぜなら扉越しでもはっきりと、誰かの嗚咽が聞こえてきたからだ。


 すぐさま中に入って慰めてやろう――まともな感性の人間ならそう思うだろう。だがここはムジナ会だ。絶対面倒なことに巻き込まれると予想したリーナは、しばらくの間入口付近で逡巡していた。


「あら、中に入らないの?」


 背後からセレンが声をかけてきた。リーナが黙って扉を指さす。彼女にも嗚咽が聞こえてきたのか、表情を変えた。


 セレンが前に出て、迷うことなく扉を開けた。ドアベルが鳴ると同時に、耳を貫くような鳴き声が屋外まで漏れ出てきた。


 中を見てみると、ヤトラがテーブルに突っ伏して泣いていた。


「トラウマにやられてるとこ久々に見たな」

「でも今回のは異常よ」


 呆れるリーナに対し、セレンが真剣な面持ちでサロンの中へと入っていった。リーナもその後に続く。


 普段ハイテンションなヤトラは、時々失恋のトラウマを思い出しては落ち込んでいた。いつもなら夜にお店へ連れていけばケロッと回復する……のだが、今は落ち込むというレベルをはるかに通り越した状態のように見えた。


「何があったの?」


 セレンが尋ねると、ヤトラが頭を上げた。顔から出る液体を全部垂れ流している。


「先日クラス替えがあってですね……エソリア君と同じクラスになったんです……」


 エソリア君とはヤトラの初恋の相手だ。そして、失恋のトラウマの原因となった人物でもある。


「失恋相手と毎日顔を合わせることになったのか。確かにしんどいな」


 リーナも今回ばかりは同情した。存在自体がトラウマを想起されるのならば、この状態も仕方ないだろう。


「それは別にいいんですよ……エソリア君のカッコイイお顔を眺められるだけでも幸せなんで……えへへ……」


 わずかながら顔を緩めたヤトラを見て、リーナは同情したことをすぐさま後悔した。


「でもエソリア君……毎日クラスメイトの男子に彼女ができたって自慢してるんですよ! こっちまで聞こえてくるような大きな声で!」


 ヤトラが両手でバンッとテーブルを叩いた。やかましいのでもう少し声を抑えてほしい。


「なるほど、ハッキリ言ってウザいわね」

「しかも彼女とのデートを幸せそうに語っているのがもう……辛くて……悔しくて……!」


 同意を見せたセレンがハンカチを差し出した。ヤトラはそれを受け取り、思い切り鼻をかむ。


「まさか付き合ってる彼女って、あなたが告白した時の……」

「そうなんです! 『他に好きな人がいるからムリ』って言ってた時の相手なんですよ!」


 辺りに涙などを散らしながら怒るヤトラ。セレンは彼女が返してきたハンカチを、嫌な顔一つせず受け取った。


「まるで私に見せつけているかのようで……あぁ……うあぁ……!」


 再び顔面が涙と鼻水にまみれてくる。


 見かねたニオンがバーカウンター内からおしぼりを投げ渡してきた。キャッチしたリーナがそれを手渡す。


「逆に考えなよ、そういう最低な奴と付き合わなくて良かったって」

「エソリア君は最低な奴じゃありません!! 素敵な男の子です!!」


 慰めの言葉をかけたリーナに、なぜかヤトラは逆切れしてきた。失恋したとはいえ、ここまで恋が盲目にさせるのかと、リーナは肩をすくめた。


 だがこのまま放置するわけにもいかない。


「さすがに看過はできないわね」

「毎日サロンで泣かれても困るしな」


 二人が顔を見合わせる。リーナもなんだかんだで、同じムジナ会としての仲間意識はあるのだ。


「だけど、どうすんだ?」

「直接会って話するしかないでしょう。でも顔がわからないのよね」


 セレンによると以前ヤトラから相談を受けた際に、告白の顛末を聞いたようだった。勇気を振り絞ったものの、あえなく玉砕という失恋のテンプレ。その場に居合わせたわけではないため、セレンもどんな人物かは知らないそうだ。


「ということは……この状態のヤトラを連れてくしかないのか?」


 再び机に突っ伏して泣き崩れているヤトラをチラ見しながら、リーナが言った。彼女の隣に座ったセレンもため息をつく。


「因みに彼女さんの名前はわかる?」


 他の手がかりを得ようとセレンが尋ねた。


「アイネです……」

「アイネ? もしかしてアイネ・キルハス?」


 ヤトラは力なくうなずいた。


「知ってるのか?」

「王立劇場の舞台子役よ。まさかあの子と付き合えるだなんて」


 驚きの表情を隠せないセレン。王立劇場といえばこの国で最も大きな、由緒正しい劇場だ。リーナも親に連れられて、何度か足を運んだことがある。そこで役者をやってるとなれば、かなりの実力者だろう。


「しかしよく子役の名前まで覚えてるな」


 とはいえ、劇団の構成員は数百名にも及ぶ。トップスターならまだしも、一端の子役などリーナの記憶にはほとんど残っていなかった。


「そいつも貴族なのか?」

「いいえ、庶民出身よ。でも彼女はちょっと特別でね」


 セレンが不敵な笑みを浮かべた。


「だからこそ、いい方法があるわ」


 舌なめずりをするセレンを見て、リーナは思わず血の気が引いた。一体何をする気なのかと気を揉む彼女をよそに、セレンは頭の中で計画を立てていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る