第39話 緊急訓練の話 11
刹那。
視界が深紅に染まった。
警報音が鳴る。
明滅する照明の光の中、車いすが落下してきた。
だが、その速度は予想よりも、はるかにゆるやかだ。
身体をひねり、前へ腕を伸ばす。
と。
ソフィアは、ふわりと浮かび上がった。
――― え……?
驚いて目を瞠るソフィアの耳に、警報音に混じって合成アナウンスが飛び込んできた。
「緊急事態発生、緊急事態発生。艦内の重力装置に異常を確認。軍靴の電磁石作動。電気員は持ち場に向かえ。これは、訓練ではない。繰り返す。これは訓練ではない」
ソフィアは膝までしかない脚を、バタ足の要領で動かした。
スラックスの裾を、車いすがかすめる。
無重力になったせいで、加重がなくなったのか。
車いすはのろのろと落下し、慣性の法則のまま動いたものの、床にがつり、と接触して跳ね返り、今度はゆっくりと浮かび上がる。
スラックスの裾をフィンのように揺らしながら、天井付近に向かうソフィアに対し、アンリの声が追ってきた。
「おいおい、そんなに上がると、元に戻った時、落下してケガするぜ」
振り返って廊下を見下ろすと、アンリは仁王立ちしたままだ。追ってくる様子がない。不審に思ったが、彼の軍靴だ。電磁石が作動して床に貼りつけられているらしい。
「あんたの側にいるよりましでしょう」
ソフィアは腰ベルトからカラビナを引っ張り出し、紅に染まった視界の中、視線を彷徨わせる。
――― あった!
天井に通されたポール。あれにカラビナをかけ、ロックをすれば、重力装置が作動したとしても、廊下に叩きつけられることは防げる。宙ぶらりんになるだろうが、それは仕方ない。
ポールにカラビナをかけようと、脚を交互に動かすと。
深紅の光が、陰る。
反射的に身体をよじった。
顎すれすれを、アンリの拳が通過する。
「ほうら、逃げろよ」
目が合った。
にやり、と彼が笑う。
狼狽して揺れる視界の中で、アンリの足首が目に入った。軍靴を履いていない。
ソフィアは舌打ちし、カラビナを持ったまま平泳ぎのように宙を掻く。
びー、びー、と耳障りな警報音の中、アンリは天井を蹴って、ソフィアに突進してきた。
思わず、カラビナごと拳を握りしめる。
叩きつけてやる。
殴ってやる。
そう思って脚に力を込めるが、膝下から、するりと筋肉の感覚が抜け、お尻を下にして廊下へと落下していく。
噴き出すようにアンリが笑った。
「やっぱり、不便じゃないか」
ぐい、と腰を抱かれ、引き寄せられた。
ソフィアは、フックを握りこんだ拳をアンリの頭部めがけて叩きつけるが、あっさりと手首を抑え込まれて悲鳴を上げる。
「ああ、そうだ。カラビナが首に絡まったことにしよう」
言うなり、アンリはカラビナのワイヤーを引き延ばし、前抱きにしたソフィアの首に巻き付けようとするから、必死に脚をばたつかせ、腰を引いた。
動きに合わせ、もつれながらアンリとソフィアは廊下に向かって移動していく。だが、いかんせん、力差がありすぎる。
ソフィアが荒い息を上げて必死に肺に空気を送り込もうと顎を上げる。
その途端、首にワイヤーを巻かれた。
「あとで、その辺のポールにフックをかけておけば、首つりに見えるだろう」
ワイヤーの両端を持ち、アンリはにっこりと笑う。
「人殺しっ!」
ソフィアは怒鳴り、腕をめちゃくちゃに振り回す。アンリに当たれ、と思うのに、彼女の腕が殴ったのは、壁のようだ。また、天上に向かって浮かび上がる。
「なんとでもいえよ」
アンリは小さく肩を竦めると、ワイヤーの両端を一気に左右に引いた。
ソフィアは固く目を閉じる。
首に食い込むワイヤーを想像し、窒息にあえぐ自分を予見し、次第に死にゆく自分を思い描いて、悲鳴を上げた。
その声に。
ばつん、と何かが断ち切れる音がした。
同時に、首元に火を押し当てられたような痛みを感じる。
「な……! なんだ、こいつっ!」
アンリが喚く。
ソフィアは目を開いた。
痛烈な痛みを感じる喉元。
目線の先にいるのは。
宙に浮かぶ人形だった。
「……セイラ……」
ソフィアは茫然と彼女の名を呼ぶ。
人形の口元には、だらり、とワイヤーが垂れていた。
――― 嚙み切った……?
喉を締めあげられる寸前、セイラが飛びつき、ワイヤーを嚙み切ってくれたらしい。喉に感じた痛みは、切れたワイヤーが弾け飛んだ時、皮膚に接触したためだろう。
喉に手を押し当てたまま、呆気にとられていたら、人形がぱちり、と目を開閉させた。
ぎぃ、と関節を軋ませて腕を伸ばすと、どん、とソフィアを下に向かって突き飛ばす。
ゆるゆると落下するソフィアを抱きとめたのはライトだ。
「大丈夫か?」
横抱きにされ、顔を覗き込まれても、ソフィアはうなずくことしかできない。
「
ライトが指示を放つと、人形は手足をばたつかせながら、アンリに向かった。
「止せ! 来るな!」
アンリが悲鳴を上げる。
人形を避けて廊下に向かおうとするが、口を大きく開き、行く手を阻んで威嚇をするから、恐れおののいて、天井へと向かう。
「サイモン、もう、いいぞ。妨害をやめろ」
天井に張り付き、歯をがちがちと鳴らす人形に怯えるアンリを見やり、ライトが言う。
「あとは、こちらで引き取ろう」
「さ、サイモン……?」
ライトに抱かれたまま視線を彷徨わせる。彼はいま、どこかにいるのだろうか。
途端に、照明が復活する。
深紅が駆逐され、白い光が世界を塗り替えた。
耳障りな警報が止むと同時に重力を感じる。盛大な衝撃音が廊下に響き渡り、ソフィアはライトの首にしがみついた。
アンリが、天井から落ちてきたのだ。
いきなり重力に引っ張っられて廊下に叩きつけられた彼は、白目を剥いて意識を失っている。その腹の上にはセイラが憤然とした顔で載っていた。
人形自体に破損はないが、アンリの右腕が可動域とは反対に曲がっているのを確認し、ソフィアはぞっとする。
「重力装置、正常。軍靴の電磁石解除。各班被害状況を確認。ブリッジに報告せよ」
無個性なアナウンスが廊下に響き渡る。
「また、警務課は第一種装備を着用。B204に向かえ。これは、艦長命令である」
「やれやれ。ようやく出動してくれるのか」
ソフィアの睫が、呼気で揺れる。
そっと、目線を上げると、自分を横抱きにしたままの、ライトと目が合った。
「通報したんだ。あいつのこと」
顎で床に伸びるアンリを示す。
「……どうして? 関わらないんじゃなかったの?」
せわしなく目をまたたかせて尋ねる。
「ナターシャの件は、アンリ自身の個人的なことだから、ぼくは介入できない。ナターシャがどうなろうと、知ったこっちゃない」
憮然とした表情でライトは続けた。
「だけど、サイモン・キーンが、この艦に霊障を起こすのなら、仕方ない。原因を排除して、
つまらなそうに鼻を鳴らす。
「あ……」
ソフィアは声を漏らした。
霊や怪異は電子機器障害を起こしやすい、とライトは言っていた。
急な重力装置の異常。
あの原因はサイモンだったのかもしれない。
アンリの魔手からソフィアを守るために、艦の電子機器に不具合を発生させたのだろうか。。
「うまく利用された気がする」
ライトはソフィアを抱えなおし、盛大にため息をつく。
その直後、荒々しい複数の足音が近づいてきた。
どうやら、警務課が到着したらしい。
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