第38話 緊急訓練の話 10

「びっくりした……。訓練中ですか?」

 ソフィアもお愛想程度に笑い、アンリの胸元あたりを指さして見せる。


「隊服、珍しいですね。一瞬、誰だかわからなかったですよ」


「そうですか? あ。でね、会計の中尉から頼まれて」

「中尉?」


 なんだろう、と相対するアンリを見上げる。まさか、自室にまだ戻っていないことが知れて、お小言だろうか。


「秘密裏に進んだ訓練だったから、彼女が驚いていないか、様子を見てきてくれって」


 にこにこと頬を緩ませてアンリは言う。


 ソフィアは、ぴたり、と表情を凍りつかせた。

 営業用の表情を咄嗟に作り、ゆっくりと頷いてみせる。


「なるほど、中尉は心配性ですねぇ」


 穏やかに。そして不自然にならない程度にゆっくりと発音しながら、ソフィアはアンリを窺う。


 同時に、彼の言葉を反芻した。


『秘密裏に進んだ訓練だったから、彼女が驚いていないか、様子を見てきてくれって』


 おかしい。

 中尉は自分に直々に、訓練のことを話してくれた。

 注意しろ、と。持衰にも伝えてくれ、と。


「本当にそうだよね。見た感じ、大丈夫そうだし」


 アンリは、はは、と笑い声を立てる。

 嘘をついているようにはまったく見えない。


 隊服を着ているからだろう。

 売店で見かける軍人たちとまるで変わりがない。きちんと服を着こなし、丁寧で、荒ぶることなどない彼ら。


 アンリの姿を誰かが見たとしても。

 きっと、給養係だ、などと思わないかもしれない。

 その気づきが、ソフィアの血を冷やす。

 なぜ、彼は今、隊服を着、帽子を深くかぶっているのだ、と。


『秘密裏に進んだ訓練だったから、彼女が驚いていないか、様子を見てきてくれって』


 彼は嘘をついている。

 その事実がソフィアの心臓を締めあげた。


『気をつけろ』

 サイモンの言葉。


『サイモン・キーンを信じてやってくれ』

 ライトの声。


「では、このまま中尉に会いに行きますよ。私は無事だ、って」


 自然に見えることを意識しながら、ソフィアはジョイスティックに指をかけた。

 反転させるのは怖い。背を向けるのが恐ろしい。


 アンリを視界にとらえたまま、ゆっくりと車いすを後退させる。


「今は忙しいんじゃないかな。訓練の報告とかあって」

 アンリが大股に近づいて来た。距離が詰まる。


「なら、自室に戻って……。後で、報告しましょう」

 焦り過ぎたのか、ぎゅい、と音を立ててタイヤが後ろに急発進した。


「なあ」


 アンリが腕を伸ばし、車いすのひじ掛けを掴む。車いすの動きを止められた。

 ぎゅいぎゅい、と、タイヤだけが喘ぐような音を立てる。


「あんた、ナターシャからなにか聞いたんじゃないのか?」

「なんのこと」


 反射的に応じたものの、音程が明らかに外れた。いつの間にか滲んでいた汗が、額からこめかみを伝って顎から落ちる。


「放して。警報サイレンを鳴らすわよ」


 ジョイスティックの根元にあるボタンに親指を伸ばそうとしたら、上からぐいと抑え込まれて悲鳴を上げた。


「やめて! 痛いっ!」


 手首の関節が軋んでいる。アンリの笑い声が鼓膜を撫でて、顔を歪ませたままソフィアは彼を見た。


「なにするのよ!」

「あんた、嘘が下手だな。ナターシャが何か言ったんだな」


「なにしたのよ、彼女に!」

 怒鳴りつけた。


 さっきまで身体を支配していた恐怖は、今や怒りに代わっている。脳からアドレナリンが放出されたのを感じた。指先がちりちりと熱い。心臓が勢いよく身体中に血液を流し込む。ソフィアは、目の前の嘘つきを睨みつけた。


「私に助けを求めていたわ! あなた、彼女になにをしたの!」

「あんたが知る必要はないよ」


 アンリは相変わらず笑みを湛えたまま、片方の手で、ソフィアのシートベルトを乱雑に外す。


「あんたは、ここで事故死するんだから」


 言うなり、車いすを横倒しにした。

 いきなりのことでソフィアは受け身がとれない。シートベルトを外されたこともあって、あっけなく廊下に放り出され、こめかみをしたたかに打ち付けた。


「……っ」

 衝撃で歪む視界のまま、手をついて上半身を起こす。


「さっき、訓練中に艦が傾いただろう? 可哀そうに、あんたはそこで転倒して、自分の車いすに押しつぶされて死んだんだ」


 目の前には、横転している車いすを両手でつかむアンリの姿が見える。


「な、なに言ってんの……っ」


 発声した途端、鋭い痛みがこめかみに走り、手を当てる。血は出ていないが、腫れているのは明らかだった。


「転倒して……、それでどうして車いすに押しつぶされるのよ! 矛盾してるわ! あんたの仕業だって、すぐに誰か気づくわよ!」


 それなりに重量のある電動車いすを易々と頭の上まで掲げ、アンリは笑って見せた。


「この艦は不思議なことばっかり起こるんだろう? その不思議のひとつさ」


 アンリは、車いすを放り投げようとソフィアに狙いを定めた。


――― 逃げなくちゃ……っ。


 あんなもの、叩きつけられたらひとたまりもない。モーターを積んだ鉄の塊なのだ。


 廊下に爪を立てて、全身を前へと引っ張ろうともがく。


「脚がなくなる、って不便だなぁ」


 憐憫を帯びた声に、かっとなった。


「心を持ってない、あんたよりマシよ!」


 怒鳴りつけた瞬間、アンリの顔から表情が消える。


 なんだか、興味を失くしたような。

 いや、逆に怒りを抑え込んだような。


 そんな瞳でソフィアを見据え、車いすを放る。

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