第37話 緊急訓練の話 9

 きゅるきゅると軽やかな音を立てて電動車いすは磨き上げられた廊下を進む。


 最低部にあたるせいだろうか。それとも、軍事設備がなにもないせいだろうか。さっきまで緊迫した訓練が行われていた、というのに兵員の姿は見えなかった。


――― 自分は、適正量の薬を飲んだ……。


 自室に向かうソフィアの頭は、さっきライトから教えられた言葉でいっぱいだ。


 どういうことだ。


 ソフィアに執着し、常に側にいた理由は、そのことを伝えるためだと、彼は言った。


『サイモンは、あなたに謝っているの。自分を悔いているわ。薬を飲まなければよかった、って』


 サイモン・キーンの妻は繰り返していた。

 薬を多用したことを、悔いている、と。


 気づけば、右手でジョイスティックを操作しながら、左手の親指を噛んでいた。


 悪癖に気づき、慌てる。

 ついでに、我に返った。自分の居場所を把握しようと周囲を見回す。


 のぞき窓のついた廊下だ。

 窓の上にはB204とプレートが打ち付けられている。まだ、自分は艦の最下層にいるらしい。


 自室に戻るには、エレベーターのあるところまで進まねば。


 ジョイスティックを倒して、電動車いすを前進させようとしたのだが。

 微かなモーター音を立てた後、動かなくなった。


「え?」

 思わず声が漏れる。


 ジョイスティックを再度前傾させるが、動くどころか機械音すらしなくなった。


――― 充電が切れた? そんなバカな。


 バッテリーは、一度充電させれば、普段の日常生活であれば、十分一日保つ。ソフィアは念のため、複数バッテリーを持っており、交替させながら使用していた。このバッテリーも朝、充電されているものと交換したのだ。


 故障だろうか、と訝しんだ時、視線を感じた。

 引かれるように瞳を向ける。


 窓だ。

 窓の外。


 真空の海。

 漆黒の闇。


 生物が生きていけるはずのない摂氏マイナス二七十度の空間。


 そこに。

 白人男性がいた。


 窓の外側から手をつき、ソフィアを見ている。


「……ひ……っ」


 肩が震え、悲鳴が漏れたのは、その白人男性と目が合ったからだ。


 グレー地にストライプの縞が入ったスーツ。薄い水色のシャツに、若々しいシャンパンゴールドのネクタイを締めた、三十代前半の赤毛の男性。


「……さ、サイモン・キーン……?」


 それはまさに、写真で見たサイモン・キーンそのままの姿だった。

 金縛りにあったように硬直したソフィアの前で、サイモンは、口を開く。


「……え、な、……、なに」


 窓に両掌を押し付け、ソフィアを見つめてサイモンは口を開閉してみせた。


 何か言っている。

 咄嗟にソフィアは思った。


 彼は、何かを伝えようとしている。


 動かない車いすの上で身をよじらせ、彼を凝視した。唇を見た。音は聞こえない。唇を読むしかない。

 ソフィアは必死に彼の紡ぐ言葉を読み取ろうとした。


「気を、つけろ……?」


 呟いたものの、なんのことかわからず、眉根を寄せる。


 だが、サイモンは深くうなずくと、姿を消す。

 まるで、満足したかのように。


 同時に、車いすがゆっくりと前進をするから、慌てて停止させた。


――― 気をつけろって……、なんのことかしら。


 内心首を傾げつつも、動き出した車いすに、ほっと息を吐く。とにかく、自室に戻ろう。


「ソフィアさん」

「きゃあ!」


 不意に背後から声をかけられ、今度こそソフィアは悲鳴を上げた。ジョイスティックを使って車いすを回転させる。


「なんだ……。アンリさん……?」


 そこにいたのは、コックスーツではなく、一般隊員と同じ隊服を着たアンリだ。だが、確証が得られなかったのは、帽子を目深にかぶり、顔がよく見えなかったからだ。


「どうも」

 つばを上げ、陽気に笑うの確かにはアンリだ。

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