第21話 自室での話 3

「…………っ」

 ソフィアは背後に長髪を引っ張られ、目だけ移動させる。


 手が。

 指が。


 マニキュアの塗られた爪が。



 ソフィアの髪を握っている。



「…………ぅ!!!!!!」


 ソフィアは悲鳴を上げ、めちゃくちゃに首を振った。

 濡れたままの前髪が額に張り付き、視界を遮るが、彼女はそのままに、必死に車いすに這った。


 右手を出し、左膝を進め。

 左手を這わし、右膝を蹴出し。


 ソフィアは、右手を伸ばす。


 車いすのフットレストに指がかかった。


 ひやりとした冷感が指先に伝わる。


 刹那。


 凄まじい勢いで後ろに引っ張られた。


 ソフィアは悲鳴を上げて転倒する。


 掴んだ車いすはその途端、横倒しに転び、派手な音を立てた。拍子に手首をねじったらしい。火で炙られたような痛みに、ソフィアは呻く。


 だが。

 それよりなにより。


 ソフィアは半身をよじって仰向けになる。バスローブがはだけたが、構わず視線を向けた。


 自分を後ろに引いたモノ。

 引き倒したモノ。


 それが。

 足元にいる。


 腹筋を使って上半身を起こす。


 ソフィアは見た。

 視界の中。

 バスルームの前。


 そこに。


 女がいる。


 銀髪の。

 俯いた女。


 踝まである紺色のワンピースを着て、首からは二重に巻いた真珠の首飾りをしている。


「…………誰………」


 ソフィアは床に尻をついて座ったまま、呆然と尋ねる。声が掠れた。


 誰だ、これは。

 いつ、こんな女が部屋に入ってきたのだ。


「誰………?」


 ソフィアの声に、女は陽炎のように揺らめくと、どしり、と床を震わせて膝を突いた。


 そのまま。

 膝立ちのまま、ゆっくりとソフィアに近づいてくる。


「それ以上来ないで!」


 ソフィアは叫ぶ。だが、女は止まらない。


 ずりずり、ずり、ずり、と床を細かく振動させながら、膝を擦って近づく。


「誰!!」


 ソフィアの問いは最早悲鳴だ。少しでも距離を取ろうと膝を抱く。体を丸め、ソフィアは女を見た。


 女は、そこで初めて動きを止め、それからゆっくりと顔を上げる。


 額が見えた。眉が見えた。目が見える。


 菫色の瞳。

 そして。

 その右目下には、泣きぼくろ。


『別れた彼女でした』

 鼓膜を撫でた記憶は、アンリの声。


『まさか、艦までついてくるなんて』


 困惑した彼が呟いた、恋人というのは、このような容姿をしていたのではなかったか。


「どうして……。なんなの」

 呆気にとられてソフィアは呟いた。


 何故。

 何故、自分のところに出てきたのだ。この女は。


「あ、あなた……」


 間違ってるわよ、部屋を。

 思わずそう言いかけた矢先。


 女は両腕を広げた。

 ぎょっと、身を硬直させたソフィアの前で、女はゆっくりとまた近づいてくる。


「止まって! 来ないで!」

 ソフィアが目に涙を浮かべて悲鳴を上げたときだ。


 場違いなほど無機質な、がちり、という音が彼女の語尾をなぞった。


 途端に。


 ぴゅい、と口笛に似た鳴声をたてて真白な鳥がソフィアと女の間に滑り込んできた。


 ぴたり、と。

 女は再度動きを止める。


 嘴と翼の大きな白い鳥は旋回し、警告をするように、幾度もソフィアと女の間を飛び交った。


「動くな」


 次にソフィアの鼓膜を震わせたのは、ライトの声だ。

 ソフィアは首をねじり、扉の方を見る。


「どうした? 何故ここに?」


 左腕に人形を抱えたライトが、不思議そうに声をかける。

 その問いを投げかけられたのはソフィアではない。


 あの、女だ。

 白い鳥に警戒されながらも、女はただ、虚ろな顔のまま、両手を広げて立っていた。


「どう……。したの……」

 ソフィアが女に、そう尋ねたときだ。


 女は膝立ちのまま、ソフィアに向かって上半身を倒してきた。


――― ぶつかる……っ。


 ソフィアは身を縮める。この距離では、接触する。ソフィアは太股を抱え込み、丸くなった。


 その体が。

 不意に浮き上がった。


 ソフィアは悲鳴を上げる。咄嗟に頭が考えたのは昼間の無重力だ。また、なにか起ったのだろうか。反射的に体をねじって地面を探そうとしたが。


「動かないで」


 すぐ間近にライトの声が聞こえて、ぎょっとした。

 拳を固く握ったまま顔を上げる。


 視界に入ったのは、ライトの首から顎にかけてだった。


「もう、大丈夫だよ。彼女は消えた」


 するり、と彼の視線が下がり、自分と合った。黒曜石のような瞳が一瞬だけ自分をとらえる。


「え……」

 ソフィアは呟き、それから女がいたはずのバスルーム前を見る。


「……消えた……」

 ソフィアは掠れた声でそう続けた。


 女の姿はない。

 銀髪で菫色の瞳を持ち、泣きぼくろのあるあの女。

 膝立ちで自分に向かって進んできたあの女。

 自分に向かって両腕を広げた女。


 あの女はもういない。


 ただ。

 そこには。

 きっちりと二本の脚で立ったエプロンドレスを着た少女の人形と。

 その肩にとまった小鳥だけがいた。


「食べたの?」


 ソフィアはライトの腕の中で横抱きにされたまま、おそるおそる彼に尋ねる。ライトはそんな彼女を一瞥したものの、すぐに顔をそらせて首を横に振った。


「退けただけだから。セイラが喰ったわけじゃない」


 ライトはそう言うと、腕に抱えた彼女を揺すり上げる。身じろぎしたソフィアは、ふと我が身の状況を顧みて慌てた。


「ああ、申し訳ないです。下ろして下さい」

 きょろきょろと視線を彷徨わせ、ソフィアは真下を指さした。


「そのあたりにでも」

 そう言ってみたが、ライトが頷くことはなかった。


 がつがつと相変わらず足音荒く歩くと、ベッドまで進んで彼女を下ろすべく腰を曲げる。


 ぎちり、とベッドが軋み、同時にライトは素早く自分の腕を彼女から引き抜いた。ソフィアがちゃんと上体を保持したのを確認すると、ライトは曲げていた腰を伸ばす。


「あの、ありがとうございます」

 礼を口にしたが、ライトは無言だ。


 背を向け、ベッドから離れる。

 戸惑う彼女の視界に入ったのは、自分の脚だった。


 膝下で切断された両脚。切断面は丸く整形され、傷跡もほとんど見えない。ソフィアにとっては最早見慣れた自分の脚だったが。


『ごめん。俺、やっぱ無理だわ』


 不意に、別れた彼の声を思い出し、ソフィアは咄嗟にバスローブの裾を引っ張った。長い裾は膝から下のない自分には必要ないから、と思い切りよく裾を切って仕立て直したバスローブだ。ぐい、と伸ばしてみても、自分の太股すら隠せない。


「あの、ご、ごめんなさい」

 ソフィアは焦りながらシーツを掴んだ。


 乱雑に引き寄せ、自分の下半身を覆う。いつもはスラックスで隠された部分だ。初めて下肢切断の人間を見たかもしれない。衝撃を受けただろうか。家族すら、見ては泣くのだ。他人が見たら……。


「いや、あの。こちらこそ。その、不可抗力というか」


 額から血の気が失せる気分のソフィアが耳にしたのは、うわずったライトの声だった。


「……え?」

 思わずシーツを掴んだまま、ソフィアは彼を見る。


 ライトは横転した車いすの側にいた。


 背もたれ部分にあるハンドルを握り、四〇キロ近い車いすを片手で持ち上げる。がちゃり、と硬質な音を立てて車いすは床に自立したが、ライトは相変わらずソフィアに背を向けたままだ。喪服のジャケットが、室内の照明を受けて艶めいている。


「その、見るつもりは無かったんだけど……。その、いろいろと」


 車いすのシートは、ベッドに座るソフィアと正対しているが、そのハンドル部分を握ったライトはソフィアを見ない。


「いや、本当にアクシデントというか……」


 もぞもぞとハンドルを掴んだり手を離したりしては、うなだれたように肩を落としている。


「え……?」


 再度尋ねたソフィアの目がとらえたのは、自分に背を向けて立つライトの、真っ赤な耳だ。


 まばたきをしたソフィアの前で、彼はおそるおそる首をねじり、それから目を見開いて硬直したのち、ぎいいいい、と軋み音を立てそうな動きでまた背を向ける。


「申し訳ないが!! 胸を隠してくれっ!!」


 素っ頓狂な声で命じられ、ソフィアは肩が震えるほど驚いた。


「見るつもりはないんだけど、目に入って仕方ないっ。というか、最早見せつけられている気分だっ」

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