第20話 自室での話 2
「……考えても、仕方ない」
ソフィアは声に出してそう言ってみる。小さなシャワールームに、その声は反響し、そして優しく自分を取り囲んだ。
「よし」
自分を鼓舞するように声かけをすると、シャワーのハンドルに手を伸ばした。
回転させると一気にシャワーヘッドからお湯が噴き出す。
ソフィアはシャワーチェアーに座ったまま、顎を上げた。顔に細かな湯の滴が降り注ぐ。目を細めると橙色のシャワールームには湯気が巻き上がった。さっきまで薄ら寒かったほどだが、流石に浴室内の温度が一気に上がった。
ソフィアは少し俯き、頭からシャワーを浴びる。
頭だけではなく、背中も湯の飛沫が覆い、筋肉のこわばりを解いていく。
――― 結構、特別扱いしてもらってるなぁ。
シャワーを全身に浴びながら、ソフィアは膝までしかない脚を見る。
ライトは営倉に住んでいるし、給養係の伍長は四人部屋だと聞いた。暇さえあれば売店にやって来て軽口ばかり叩く射撃手も、そういえば同室者の愚痴を言っていた気がする。
トイレもシャワールームもついている個室をあてがわれているのは、実は自分だけなのではないか。
ソフィアが艦に乗り込む際、「どのような工夫が必要か」と問われたが、「特になにも」と答えた。
使用している電動車いすは一〇㎝程度の段差なら乗り越えるし、座面も昇降する。肘掛けアームも跳ね上がるので、腕の自由が利くソフィアは、介助無しでベッドや床に移乗もできた。今回は失敗したが、無重力対応も考慮はしていたので、ソフィアとしてはなんの不安も、心配もなかったのだが。
――― でも、これも共感力の無さなのかしら……。
シャワーに打たれ、ふと思う。
いくらソフィアが「私は大丈夫」と言っても、受け入れ側は不安だろう。両脚の無い女性が、それも民間人がやってくるのだ。安心しろ、という方が無理な話だ。
今更ながら、中尉に対して申し訳なさがわき起こる。自分の知らないところで、あの人の良い軍人は、配慮をたくさんしてくれたに違いない。
そんなことに、今更ながら気づくなんて。
ソフィアは湯気のように嫌悪感を自分に巻き付けながら、シャンプーボトルに手を伸ばした。ポンプを押し、掌に液体ソープを受ける。ソフィアはそれを髪になでつけ、それから指で頭皮をほぐすように泡立てる。立ち上るのは、柑橘系の香りだ。自分ではあまり買おうとは思わない香りだが、軍指定で、艦内の人間はみんな、この匂いが頭皮からする。
よく考えたら、一般社会では考えられないことだな、とソフィアは少し可笑しくなった。くすり、と笑み、目を閉じたままわしわしと指で泡立てる。
肩甲骨当たりまで伸びた髪は、シャンプーも面倒だ。なんとなく美容院に行けないまま艦に乗り込んでしまったが、地上に戻ったら、真っ先に髪を切ろう。ソフィアが長髪をまとめ上げるように指を滑らせていると。
つん、と。
少しのひっかかりを覚えた。
――― ん……?
ソフィアは目を閉じたまま、指の腹で髪をほぐす。掌全体には泡だったシャンプーのふわふわした感じがまとわりついていた。
その手のまま。
肩に落ちかかる長髪をすくい上げ、まとめようとしたのだが。
つん、と。
毛束の一部が、下に引かれる。
「………?」
ソフィアは薄目を開ける。降り注ぐシャワーが、シャンプーの泡をつぎつぎと押し流し、排水口には泡が密集していた。
つん、と。
やはり毛束の一部が下に引かれた。
背中の方だ。
ソフィアは濡れた前髪を掻き上げ、半身をひねる。
なにか、ひっかかっているのだろうか。
シャワーチェアーの背もたれにでも、髪が絡まったか。
全身に湯を浴びながら、ソフィアは背後を見遣る。
だが。
特に、異常は感じない。
「…………?」
ソフィアは頭上からシャワーを受けながら、手早くシャンプーをすすぎ始める。顔を上げ、目を閉じて頬に湯の柔らかさを感じながらシャワー音を聞いていたのだが。
つん、と。
やはり、毛先を何かが引っ張る。
ソフィアは目を開き、反射的に振り返る。
いない。
なにもない。
「………なに」
思わず呟き、ソフィアは自分の肩をさする。シャンプーがまだ残っているからだろう。ぬるりとした妙な手触りだ。だが、それだけ。特に何かを掴むんだわけではない。
シャワーを止めよう。ふとそう思い、ハンドルに指を伸ばした。
その拍子に。
自分の足下が目に入る。
いや、足下、というより。
排水口だ。
そこには。
さっきまであった泡が姿を消し。
代わりに。
銀色の髪束が。
水流に混じってどんどん吸い込まれていく。
ソフィアは腰を浮かしかけてあやうく転倒するところだった。もう、脚がないというのに、頭は「脚があった」時の対応をしたがる。ソフィアの膝は無駄に宙をあがき、そしてシャワーチェアーを揺らしただけだ。
「な、なにこれ……」
ソフィアは思わず自分の濡れた髪を掴み、凝視する。自分の髪は、金色。
だが。
排水口に流れ込む、無数の蛇のような毛束は。
銀色だ。
「……ひ」
ソフィアは小さく悲鳴を漏らし、慌ててシャワーを止めた。ゆるり、と銀色の髪束は、排水口の周囲で渦巻く。
両手を床にのばし、ソフィアはチェアーから下りる。
膝で上半身を支え、二つ折りの扉に引っかけたバスローブを掴んだ。
トリートメントをしていないし、体だって洗っていない。いやそもそも、シャンプーだってよくすすげたか疑問だ。案の定、バスローブは羽織ったものの、なんだか背中はぬるぬるしている。
だが、悠長なことは言っていられない。
変だ。
何か変だ。
ソフィアは太股の半ばまでしか裾の無いバスローブを纏ったまま、四つん這いでシャワールームから出た。
室内に入り、真っ先に感じたのは、冷えた空気だった。
シャワールームが暑すぎたのか、ベッドと車いすと、それからパソコンが乗った事務机しかない部屋は、幾分肌寒いほどだ。
だが、その冷気がソフィアを安堵させた。
シャワールームから出た。
その実感が心に安心を産む。
ソフィアは通常より早い息を吐きながら、床を四つ這いで進む。普段ならさっさと体を拭いて衣服を身につけ、ドライヤーで髪を乾かすのだが。
――― 車いす……。
なんだか、気が急いた。
まずは、移動手段を確保しよう。そう思った。手と膝で床を進むより、あの電動車いすの方が断然万能だ。
ソフィアは、掌で床の冷たさを。膝で床の堅さを感じながら、電動車いすに向かって進む。
ぺちり、と湿気た音を立てるのはソフィアの掌。
がつり、と無骨な音を立てるのはソフィアの膝頭。
では。
ぐい、と。
ソフィアの髪を後ろに引くのは。
なんだろう。
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