第11話 倉庫A705の話 3
「言ってる側から」
ライトは笑みを深めてソフィアの側を抜けた。ソフィアは慌てて電動車いすを操作し、ライトの背を追う。
彼は、A705と記された倉庫の前で立ち止まっていた。
無機質で無個性な扉に相対し、静かに居住まいを正す。
「……あの」
ソフィアがライトに声をかけたのは、聞こえ続けていたからだ。
女の、声が。
うぅぅぅぅぅぅぅ、とも、ふぅぅぅぅぅっぅぅ、とも判断のつかない。
呻きのような。泣き声のような。
低く、抑圧された声を。
ソフィアの鼓膜が捕らえ続けたからだ。
「この声……」
眉根を寄せる。
声の聞こえる方に顔を向けた。「貴方にも聞こえますか」。そう問いかけるつもりなのに、言葉は潰えた。
愚問だ、と思ったからだ。
ライトもこの声を聞いている。
聞こえているからこそ。
その扉の前に立っているのだ。
A705倉庫の前で聞こえる女の泣き声。
ソフィアは売店で聞いた怪異を思い出す。
在庫チェックのためにやってきた下士官は、いるはずのない女の泣き声をここで聞いたのだ。
「いるんだろう?」
ライトは静かに、扉に向かって声をかけた。少し上半身を前に倒し、セイラという薄汚れた少女の人形を片腕に抱えたまま、ライトは片頬をゆがませた。
「隠れてないで、出てこいよ」
耳触りのよいライトの言葉に、女の泣き声が重なる。
低く。
堪えているのに漏れ出るような女のその声は。
うぅぅぅぅぅぅぅぅ、という泣き声というより。
次第に。
〝う〟と〝く〟が混じるような音に変わった。
押し殺している声音は変わらないが。
だんだんと。
泣いている、というより、笑いを堪えている、という風にその印象を変えた。
最後には。
呆気にとられるソフィアの前で。
爆笑に変わる。
忍び泣きだと思っていたそれは、単純に笑いを堪えていただけなのだ。
ソフィアはそう思うに至る。
「……いたずら……?」
眉根を寄せて呟いた。
怖がらせようと悪戯をし、驚いた相手の反応を見て笑っていたのだろうか。
だとしたら、悪質だ。
ソフィアはその瞳に怒色を滲ませる。一体、誰がこんなことを。
「離れてて」
ライトはソフィアに言葉をかける。同時に、A705の指紋認証システムに指を伸ばした。すらりとした、器用そうな指だ。その指がシステムに触れようとした刹那。
暴風と共に扉が開いた。
ソフィアは悲鳴を上げ、肘掛け部分にしがみつく。風圧に電動車いすが一気に壁際まで押され、ソフィアは呆気にとられた。
ブレーキをかけていないとはいえ、電動車いすは40キロ近い。そこに自分の体重が加重されているというのに。
あっさりと壁際まで吹き飛ばされ、ソフィアは自失の体で開いたままのA705倉庫の扉を観る。
そこには。
変わらず、ライトが立っていた。
いや、数センチ程度は後退しただろうか。
肩幅に足を開き、肘を上げて風から顔を守っているように見える。
風はおさまったようだが、細められた目は、A705倉庫内に向けられていた。
彼は見ている。
扉を。
いや。
その向こうを。
じっと、観ている。
「あ……」
あの、と自分は問いたかったのだろうか。危ないですよ。そう言いたかったのだろうか。
どちらにしろ。
ソフィアの口が紡いだのは、別の単語だ。
いや。単語とも言えない。唇から迸ったのは、ただの音声。
悲鳴だ。
ソフィアの目がそれをとらえた瞬間。
反射的に、叫んでいた。
倉庫から飛び出してきたその姿。
それは、当初、早すぎて一体なんなのかもわからなかった。
ただ、真っ黒い塊が水平に噴きだしてきたように見えた。
ライトが寸前で床にしゃがみ込み、衝突を避けた。
ばちり、と。
倉庫から飛び出したそれは、勢いのまま廊下の壁に張り付く。
腹這いになり、四肢をめいいっぱい壁に広げるその姿は、まるで足長蜘蛛のようにソフィアには見えた。
女、なのだろう。
長い髪は床に届くほどあり、骨張った体にワンピース状の服を纏わせている。ぐるり、と女の首が反転した。
あり得ないほどの角度で女の首は回り、同時に、めきり、と妙な軋み音を立てた。さっきまでなかったはずなのに、首の付け根が妙に膨らんでいる。首の骨が折れたからだ、とソフィアは呆然と思った。
「ひひひひひひひひ」
女の口が三日月形に歪む。目のあるべき所に眼球がなく、眼窩はただ窪んで暗い。
その貌をソフィアに向け、ひひひひひ、と女は嗤う。
「どっち観てる?」
女に見据えられ、動けないソフィアの体を、ライトの声音が優しく巡る。
ようやくソフィアは息を吐き出した。吐き出すまで、自分が息を止めていた、ということに気づかなかった。
ソフィアは車いすのシートに上半身をあずけ、喘ぐように呼吸をする。
途端に、興味をなくしたかのように女の首が、また可動域を無視して動く。ばきり、と今度は完全に骨が折れ、内部から飛び出した。鮮血が吹き出し、廊下や壁を緋に染める。
「動くな」
ライトが女に、静かに命じる。
同時に、喪服の上着から細長い紙を一枚取り出した。
器用そうな人差し指と中指に挟んだその紙に、ライトは口を寄せる。ふぅ、と息を吹きかけた。
真冬に吐いた呼気のようにそれは白い靄となり、ソフィアがまばたきをした拍子に、ライトの指を離れ、尾の長い繊細な小鳥に姿を変えた。
文鳥ほどの大きさの鳥だ。
だが、翼とくちばしが不釣り合いなほど大きい。
翡翠色の瞳を真っ直ぐに女に向け、鳥は一際大きく鳴く。まるで超音波のようなその声音に、女だけではなく、ソフィアも顔をしかめた。
鳥は、空気を打つように羽ばたくと、真っ直ぐに女に向かって飛んだ。
細く長いくちばしを槍のように突きだす鳥を、女は手を伸ばしてたたき落とそうとする。だが、女の指が触れる瞬間、小鳥は、ひらりと、一撃を躱した。
しかし、鳥はそれで女から離れるわけではない。女の体をついばもうと、何度も接近を試みる。
女は眼球のない顔で執拗に鳥を追う。かぎ爪のような指を立て、警戒音を喉から振り絞り、鳥を攻撃する。
「
ライトの声に、ソフィアは反応した。顔を向ける。
持衰。
思ってもいない言葉がここで出た。
いや。
頻繁に聞いた言葉、か。
ソフィアの目の前で、ライトが左肘を上げた。
なんとなく。
ソフィアは、なんとなく、その彼の姿が。
鷹匠が空に猛禽を放つ姿と重なる。
同時に。
目の前で人形が飛んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます