第10話 倉庫A705の話 2

 拍子に右手のジョイスティックを力いっぱい握ったらしい。

 不意に電動車いすが急発進し、異常を察知して警報音が鳴る。パニックになりかけたソフィアは、必死に踏ん張ろうと両脚に力を入れかけるが。


 すぐさま、その自分の両脚が、膝下からないことを、思い出す。


 そうだ。脚はもう、数年前からないのだ。


 愕然としながらも、どこか諦観に似た淋しさが胸を占めたが、それも一瞬だ。

 突如、電動車いすが動きを止める。


 ソフィアの体は、急な停止に耐え切れず、がくりと上半身を揺らした。腰ベルトで固定されているから、これしきの揺れで電動車いすから振り落とされることはない。


 なんとか、肘掛け本体にしがみつき、そして荒い息を漏らす。その彼女の呼吸は、電動車いすの警報音に混じり、いまだ心に不穏な漣を立てた。


「大丈夫?」


 太く、低い声にソフィアは再度心臓が止まるほど驚き、制服の上から胸を鷲掴む。バクバクと力強く拍動していることに安堵したが、今度は一気に額から汗が噴き出た。


 悲鳴を上げた肺は、今度は息を吸い込むことに苦心し、ソフィアは何度かせき込みながらも、必死で呼吸を繰り返す。


「警報、どうやって止めるんだ?」


「……え?」

 ソフィアはようやく、首をねじって振り返った。


 そこにいるのは、真っ黒な服を着た男だった。


 年はソフィアと変わらないだろう。二十代半ば、というところだろうか。


 伸びすぎのきらいがある黒い髪と、同じ色の瞳を持った青年だ。背は軍人達のように随分と高いが、肩幅や筋肉の付き方はまるで違う。華奢だ。黒髪が縁取る顔の輪郭も線が細く、どこかあどけなさも残していた。


「警報」


 腰を曲げた状態で、ソフィアは青年に顔をのぞき込まれる。慌ててソフィアは男に背を向けて前を向き、ジョイスティックを握りしめる。警報音の解除はレバーの下にあるボタンだ。それを、親指で押し込んだ。


 途端に、警報が止んだ。


 急発進や、ユーザーの異変を知らせる警報アラームだ。電動車いす自体の故障ではないので、解除も早い。ソフィアは改めて首をねじる。


 電動車いすの背もたれにつけられたグリップを掴む、男の手が見えた。

 誤操作による発進を、男が止めてくれたらしい。


「すごい音だね、それ。防犯ベルみたいだ」


 男は眉をひそめて見せるが、あながち間違ってはいない。


 車いすユーザーを狙った痴漢や強盗はよく聞く話だ。それに対処するためにも、音量は大きく、そして不快にさせるような音に調整してある。


「あの……、すいませんでした」


 ソフィアは男に礼を言い、にこりと微笑んでみせた。まだ焦った名残のせいで、その笑みはぎこちなかったが、青年は気にする風でも無い。むしろ眉をハの字に下げた。


「ごめん。ぼくが急に声をかけたからだな」


 男は言うと、電動車いすから手を離す。ソフィアはそれを見計らうと、ジョイスティックを操作して反転させ、青年と向かい合った。


「いえ、私こそ……」


 語尾は、ごにょごにょと濁す。そもそも、後ろ暗いところがあるから、声をかけられたぐらいで動揺したのだ。


 気づけばうつむきかけたソフィアの視線は、ふと、青年の左腕で止まる。


――― 人形……?


 青年が左腕に抱えているのは、女の子の人形だ。


 かなり大きい。

 立たせれば、ソフィアの上半身ほどになるのではないだろうか。緋色のドレスに白いエプロンをつけた少女の人形だ。金色の髪は三つ編みにしており、まばたきが出来るようになっている。瞳は、青。なんとなく、北欧のコーカサイド系を彷彿とさせる外見を持った人形。造形も整い、値の張るものなのだろう、と察せられるのだが。


 ただ。

 ソフィアは少し、嫌な気持ちになった。


 というのも。

 全体的に汚れているのだ。


 三つ編みにされた金髪は、解いたとしてもそのままの形で固まっていそうなほど、よれている。白磁の肌は埃にまみれ、なんだか茶色だ。ドレスも同じく、品は良いのだろうが、破れていたり、汚されていたりで、とても大事に扱っているように見えない。


「君、軍人じゃ無いよね」

 声をかけられ、ソフィアは顔を上げた。青年の視線を辿る。


 彼は自分の足をみていた。

 売店のレジカウンター内にいる限りでは、人目にふれない、ソフィアの下半身。


 電動車いすの座面に載っているのは、太股。

 そこから伸びるのは膝下までの自分の足。

 義足を嵌めているわけでは無いから、制服のスラックスはそこでひらり、と膨らみをなくして垂れている。


「軍隊に入るには、私は体格的に規定を満たしていないでしょう」

 ソフィアは肩を竦める。


「いや、すまない」

 視線が不躾だと思ったのか、青年は首を横に振った。


「売店の新しい店員さんだろう、と聞けば良かったね。申し訳ない」


 青年はやっぱり、眉尻を下げる。随分と気配りが出来るというか、性根の優しい青年だ。そう思うと同時にソフィアは首を傾げたくなる。だとしたら。


 だとしたら。

 どうして、あの人形はあんなに汚れたままなのだ。


「迷ったのかい?」


 青年は左腕に抱えた人形を揺すり上げる。丁度人形の尻が青年の肘に腰掛ける形だ。とろり、と上半身を青年の腕にもたせかける姿は、まるで子どものようだ。


「いえ……。あの……」


 ソフィアは咄嗟に、いくつか考えていた嘘を口にしようとした。『商品の補充を』、『経理部の中尉を探していまして』。


 だが、不意に口を突いて出たのは、頭に浮かぶ疑問だった。


「貴方も、軍人じゃないですよね」

 ソフィアはまじまじと青年を観た。


 彼が着ているのは軍服ではない。


 私室ではどのような格好をしても良いのだろうが、軍人であれば、休暇中といえど、艦内では軍服を着用という規定がある。おまけに今は、訓練中だ。軍服を着用していないどころか、こんなところをウロウロしている軍人がいるはずがない。


 おまけに。


――― 黒い服だと思っていたけど、これ『喪服』じゃないの……?


 ソフィアは目を瞬かせた。

 彼が身に着けているのは、ただの黒い服ではない。喪服だ。


「僕も君とおなじ」

 青年は口の端を上げ、笑みを滲ませた。


「軍人じゃない」

 はっきりとそう言う。ソフィアはそんな彼を眺め、首を傾げた。


「軍属、なのですか」


「よろしく」

 青年は答えることはせず、右手をソフィアに向かって伸ばしてみせる。戸惑いながらも、その手を握った。


「ソフィア・ハートです。艦内の売店に勤めています」


「ライトだ」

 青年は応じるのだが。


 ソフィアは改めて戸惑う。

 それはファーストネームなのかファミリーネームなのか。困惑したソフィアの瞳は、ふと、視線を感じた。なんとなく、顔を向ける。


 真正面から、青年の抱く人形と目が合った。


 さっきまで眠たげに瞼を落としていたのに。

 ライトが握手するために体を動かしたからだろうか。目がぱっちりと開いている。


「セイラだ。君に会えて嬉しい、って」


 穏やかな声でそう言われ、ソフィアは頬を強ばらせた。


 本気で言っているのか、それともこれはなんらかのジョークなのだろうか。

 本気だとしたらかなりイタい部類の人間だし、ジョークだとしたら笑わなければ失礼だろうか。


 そんなことを考えていたソフィアに、ライトはわずかに首を右に傾げてみせる。


「ぼくは今から仕事をするんだが……。君はどうする? 部署に戻るかい?」


「仕事?」

 ソフィアはオウム返しに尋ねた。この倉庫しかない階に、彼はなんの仕事があってやって来たのだろう。


「そう、仕事」

 ライトがにっこりと笑って頷いたときだ。


 ソフィアの耳は確かに捕らえた。


 女の、声を。


 くぐもるような。

 押し殺すような。


 女の、泣き声を。

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