第12話 倉庫A705の話 4
角張ったような、とても自然とは言えない姿で四肢をばたつかせながら、人形は腕を突き出して女に取り付こうとする。
女は咆哮した。
牙を剥く。
だが、人形はその女の肩にしがみついた。
人形の接近を許したのは、小鳥が援護したこともあったのだろう。嘴の攻撃を避けた刹那、人形は女の体にその爪を食い込ませたのだ。
女が壁に取り付いたまま、体を震わせる。水滴を飛ばす犬のような仕草をしたが、人形は離れない。しっかりと取り付いたまま、首を逸らした。
ソフィアの側からも、人形の顔が見える。
青い瞳。白磁の肌。元は桃色に染められたであろう頬。
紅色の口。
その、口が。
いきなり大きく開いた。
開いた、というより、裂けたように見えた。
唇は顎が外れるのではないかと思うほど下に伸び、口端は目の縁まで大きく広がる。
顔のほぼ全てを『口』にした人形は。
ただただ。
女の首に食らい付いた。
女は空気を震わせて悲鳴を上げ、その声に小鳥の威嚇音が重なる。女はなんとか背中にしがみつき、食らい付く人形をふりほどこうと、壁を移動しながらもがいている。女の爪が金属の壁を滑る、耳障りな音が断続的に響いた。
ソフィアは、もう。
声すら上げられない。
停止した脳に向かい、五感がただただ、得た情報を伝え続ける。
女の叫びを。飛び散る血しぶきを。噛むのではなく、咀嚼している人形の映像を。
びしゃり、と。
湿気た音を立てて血塊がソフィアの車いすを汚したときは何も感じなかったのに。
その血痕が。
鉄錆びた。だがどこか、発酵食品に似た匂いを放ったとき。
ソフィアは反射的に両手で口元を覆った。
吐く。
そう思った。
喉が痙攣し、胃から内容物がせり上がってくる。
ソフィアは必死に堪え、空気ごとそれを飲み込んだ。飲み込み続けた。
――― 苦しい。気持ち悪い……。
涙目になったソフィアは、視線を感じて、震えながら顔を起こす。
「大丈夫か?」
予想外に心配そうなライトと目が合った。
――― 大丈夫なわけない。
そう叫ぼうとしたソフィアの口を塞いだのは、自らの掌でも、胃から出てこようとする吐瀉物でもない。
警報音だ。
「二十秒後に『プラン5』を実施する。敵艦攻撃により、重力装置が破損。総員、無重力に備えよ。なお、これは訓練である」
響き渡ったのは、女性の声だった。高音ではあるが、聞き取りやすいその声に、ソフィアはぎょっとした。
プラン5。それは、中尉にも教えられていた訓練内容だ。
重力制御装置が戦闘によって破壊され、艦内が一時、無重力状態になる。
『だから、電動車いすを床に固定して、カラビナを手すりにひっかけるんだよ』
ソフィアの父親ぐらいの年齢に見える中尉は、目に力を込めて説明をした。その瞳にも声音にも、車いすユーザーであるソフィアを案じていることが見て取れて、ソフィアはくすぐられたように笑みを浮かべた。
『大丈夫です。中尉。浮いて落ちる、なんてへまはしません』
たった、数時間前にそう言って彼を安心させたところだというのに。
「訓練開始まで、十秒。カウントダウン開始。九、八……」
艦内に響くアナウンスに、女の怒号が重なる。ソフィアは肩を竦め、声の方を見た。
どうやら、喉に食らい付く人形を、女は捕らえたらしい。
強引に引きはがした途端、肉片が飛び、血が新たに吹き出す。
顔を背けた途端、ソフィアの頬に血しぶきが散った。小さく悲鳴を上げる。
その声に。
「四、三……」
アナウンスが被さる。ソフィアは慌てた。首を巡らせ、車いすの周囲をみやる。
「固定具……っ」
焦って呟くものの、「二」の声に、指が凍った。
無理だ。間に合わない。
ソフィアは腰ベルトに着けているカラビナを引いた。
「ただいまより、無重力状態での演習を開始する」
艦内の照明が音を立てて色を変える。
廊下全体が深紅に染まった。
ぐらり、とソフィアの上半身が揺らいだ。慌てて右手に掴んだカラビナをすぐ側の手すりに掛けようと、腕を伸ばす。
無理に動いたからだろう。
ソフィアの体は反転した。
車いすの車輪が、吸い込まれるように天井に向かう。
ソフィアは悲鳴を上げてカラビナを必死に伸ばす。
手すりにフックをかけねば、重力が戻ると同時に、床にたたきつけられることになる。
ソフィアは水中を泳ぐように手をばたつかせる。が、床は離れていくばかりだ。
なんとかせねば、と思うソフィアの耳に、「重力装置再起動まで、五分」とアナウンスが流れる。
――― 五分あれば……。
ソフィアは息をつきながら、左手の甲で汗を拭う。
右手にカラビナを持ったまま、とにかく車いすの腰ベルトを外した。左手で、どんと車いすを突き飛ばす。車いすは抵抗もなく、天井に向かって進んでいった。
するり、と。
水中を滑り出すように、ソフィアの体は宙を浮く。
照明で赤く染められた空間の中、首を巡らせた。
身近な壁を探し、どんと、手を突こうと思ったのだ。そしてその反動で床に向かおう。手すりを掴んだら、カラビナをひっかけるのだ。
ソフィアが潜るように両手を掻いたとき。
すぐ間近を黒い影がよぎる。
「ひ……っ」
思わず体を強ばらせた。
その影は。
ソフィアから一度離れたと思ったのに。
再び接近し、がっしりと肩を掴んだ。
「ひひひひひひ」
女だ。
女は、眼窩に闇を住まわせたまま、ソフィアの顔をのぞき込む。首から時折漏れる女の血は、球体になって周囲に浮いた。
「ひひひひひ」
女が嗤うたびに、ルビー色の球は揺れ、ソフィアの体に触れては細かく散る。
「ひひひひひ」
女は頬をつり上げるように嗤う。
その口腔内に、ソフィアは白い牙を見た。女は笑いながら、半ばちぎれかかっている首を逸らし、そしてソフィアの首に食らい付こうと顔を傾ける。
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