第8話 少尉の話 3

「………え……?」

 荒い息で少尉は周囲を見回す。


 目が、醒めた。


 しばらく、自分がどこにいるのかわらかなかった。


 夢の残滓のせいか。

 それとも、居心地の悪いこの部屋のせいか。


 今自分が、戦闘機にいたのか、補給艦『氷室ひむろ』にいたのか。


白童丸はくどうまる』にいるのか。


 よく、わからなくなっていた。


 ただ。


 ざざざざざざざざざざ……っ


 再び鼓膜を撫でるノイズを振り払うように、少尉は両手で頭ごとかきむしった。

 その時、指が何かにあたり、ベッドに転がり落ちるモノがある。

 それは。


「イヤホン……」

 呟きは、渇いた笑い声に変わった。


 なんのことはない。

 耳に嵌めっぱなしにしていたコードレスイヤホンの充電が切れたのだ。


 その。

 雑音だったにちがいない。


 指を伸ばし、つまみ上げる。おそるおそる、耳に近づけてみる。案の定、なんの音も聞こえない。

 もう、電源は切れていた。


――― そういえば、いつ充電したっけ……。


 少尉は苦笑いのまま、胡座をかいた。指でイヤホンを弄び、わしわしと前髪をかいた。こんなものを耳に嵌めっぱなしにたから、縁起の悪い夢を見た。


――― 今、何時だろう。


 妙にすっきりした頭で少尉はふとそう思った。

 電気をつけっぱなしのまま眠ってしまった。


 煌々とした部屋の壁には、確か時計があったはずだ。

 少尉は足をベッドから下ろし、上半身を覗かせて壁を見る。


「……え?」

 思わず声が漏れた。


 自分が眠ってから、まだ一時間も経っていない。戸惑いながら、少尉は目をしばたかせた。眠気も、倦怠感も。何も感じない。


 というか。

 もう、随分眠った気がしたのだ。


――― 時計が止まっている、なんてことはないよな。


 思わず立ち上がり、デスクを見た。

 そこには、閉じられたノートパソコンと、自分の腕時計がある。


 時間を確認しよう。

 そう思って。


 足を踏み出した瞬間。

 たたらを踏んだ。


 つまずいたたのではない。

 目眩でもない。

 艦が揺れたのでもない。


 感じたことを正しく表現するならば。

「引っかかった」のだ。


 足首が、なにかにとらわれた。


――― 荷紐でも置いてたか?


 ふと、足下に視線を落とす。


 刹那。

 思考が追いつかない。


 足首を。

 掴まれていた。


「……え?」

 若干背を丸め、少尉は尋ねてしまった。


 自分の足首を掴む、その『腕』に。


 いや、本来、その『腕』の先にある、『本体』に、だろうか。


 少尉は改めてその腕を見る。


 多分、男なのだろう。

 節くれ立ち、日に良く焼けた太い指だった。足首に感じる掌は厚く、その先に伸びる腕も筋肉に膨れて太い。 


 少尉は背を伸ばし、その腕を辿る。


 背後だ。

 少尉はベッドに背を向け、デスクに向かって立っていた。


 腕は。

 少尉の足首を後ろから掴んでいる。


 『腕』の持ち主である本体は。

 ベッドの方にいることは明白だった。


 少尉は、見る。

 自分の足首を掴む手。


 手首。

 腕。

 肘。

 二の腕。

 脇。

 肩。


 その先は。

 二段ベッドの下だ。


 暗がり。 

 ライトの届かぬ。

 薄闇。


 そこから。

 ぬっ、と。


 腕が伸びている。


「……え?」

 状況を確認しても、理解が追いつかない。


 狼狽えた頭で次の行動を考えようとしたときだ。


 ざざざざざざざざざざ……っ


 あのノイズが体中の血液を揺らす。


 一気に鳥肌だった。

 反射的に「手」を振り払おうと、足首を蹴り出す。


 片足立ちになった途端、強引に引きずられた。

 大きな音を立てて少尉は床に転倒する。


 受け身など取れようがない。勢いよく、ごんと頭から床に落ちる。目眩と同時に視界が歪む。体を起こそうとするのに、痺れたように体が動かない。平衡感覚を失ったような妙な気配に、吐き気を覚える。


 ずるり、と。

 足が引きずられる。


 体が、たぐり寄せられる。

 ずるり、と。


 自分の足がベッドに下に引き込まれそうになり、少尉は必死に足を振った。


 ざざざざざざざざざざ……っ


 気味の悪いノイズに、背を強ばらせる。いびつに滲む視界で、少尉はベッドの下を見た。


 暗がりを見る。

 腕が伸び出す。

 そこを見る。


「ひひひひひ」


 きらり、と光ったのは。

 目玉だ。


 ぎょろり、とした眼球だけのそれが。

 少尉を見ている。


 目が。

 合う。


「……ひ……」


 思わず自分の口から悲鳴が漏れ、少尉は腹ばいになり、床に爪を立てた。


 同時に、ぐいとさらに暗がりに引き込まれる。止まらない。指が床を掻く。ずるり、と引かれて空転した。


 ずるりずるり、と暗がりに引かれ、少尉は今度こそ完全に悲鳴を上げた。


 その声は、だが。


 ざざざざざざざざざざ……っ


 例のノイズにかき消える。


 ぐぃぃぃぃぃぃぃぃ、と。

 ベッド下に引き込まれ。


 目玉が。

 間近に迫る。


「ひひ」


 強ばる少尉の頬に、確実に呼気があたった。

 耳朶を撫でるのは妙に生温かい空気だ。


「お ち ろ」


 区切るようにそう言われ。

 少尉は気を失った。





「……それで……?」

 ソフィアは尋ねる。ラッピングした箱を強く握りしめ過ぎていたらしい。慌てて手を離し、少尉を見上げた。


「目が覚めたら、ベッドの下で気絶してた」

 少尉は気まずそうに目を伏せる。そんな表情をすると、随分幼く見えた。


「でも、ご無事でなによりでした」

 ほう、とソフィアは息をつく。少尉は表情を隠すように頭を掻いてみせた。


「最初、夢でも見たのかと思ったけど……。自分の右足首にはっきり手跡が残っていてね。着替えもせずに上官のところにすっ飛んで行ったんだ」


「そこで、持衰じさいさんのことを?」


 そっと、商品を少尉に差し出す。少尉は頷き、それから軍服のポケットから硬貨をいくつかソフィアの前に置いた。


「持衰に、自分の身に起ったことを話して、足首も見せた。彼は最後まで黙って話を聞いてくれたあと、おれに言ったんだ」

 少尉は商品を几帳面に両手で持ち、言う。


「『災いは引き受けた。あとはこちらで』と」

 ソフィアは、ふと、首を横に傾ける。


「やっぱり、それだけなんですねぇ」


 そのひとことだけで。

 彼も怪異から放たれるらしい。


「以降、特に変なことはおこらないし」

 少尉は、ゆっくりと息を吐いた。


「なにより、あの部屋の雰囲気が変わったよ」

 心底安堵したように少尉は言うと、「じゃあ」とソフィアに片手をあげてみせる。


「持衰のところに、お礼に行ってくる。ラッピングありがとう」


「行ってらっしゃいませ」

 ソフィアはそんな彼に、頭を下げた。

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